(これでやっと苦しみから救われる) 軍之進は、旅の支度をはじめていた。
が、その支度をしながらも、加代の面影がちらつく。
加代は、敵の大将に身を売ったのだ。 しかも、そうまでされながら、敵の大将を好きになったのかもしれない。 そうでなければ、気が触れたように歩き回るはずがない。きっと、敵の大将に捨てられたことが、よほどの衝撃であったのにちがいない…。 がしかし、そんな加代を慰めてやることもできない。 軍之進は、このまま首でもくくって死にたかった。
しかし、恩田清介の死ぬ間際の顔が思い浮かぶのだ。 そして、恩田の顔が軍之進に迫ってくる。 『石川、頼む、八重のことを頼む!』 軍之進が死の淵に行こうとするのを押しとどめるものは、恩田の最後の言葉だった。 戦に出かければ、生きて帰れるわけでもないのに、結局、八重さんに、何か期待を抱かせるようなことを言ってしまった…。
(優柔不断なために、八重さんにも、結局、迷惑をかけてしまった…) 軍之進は、ほぞをかんでいた。
奥羽行きの兵士たちの一行が、松江の城を出立した。 一行は、京店を過ぎ、松江大橋に向かう。 大橋を渡ると、八軒屋町を過ぎる。 和多見の河岸には、松江藩の艦船が2艦、横づけされていた。 第一八雲丸(329トン)と、第二八雲丸(182トン)であった。
松江大橋の橋上から、城下の町民が、欄干(らんかん)から身を乗り出さんばかりに、手を振り、兵士たちを見送っていた。
藩旗のはためく2艦が出立する。
軍之進は、艦船の上甲板に立ち、小さくなっていく松江城の天守閣を見つめていた。 その天守閣の向こうの空に、加代の顔が浮かぶ。 加代のために何もできなかった。 加代のために何もしてやれなかった。 悔やまれる。 今、この甲板から大橋川に身を投げたいほどだった。
しかし、今、ここで死ねば兄上にも迷惑がかかる。 戦さ場まで行かねば、そして、敵に立ち向かい、そして、鉄砲の弾を、この頭に、この顔面に、この胸に受けなくては…。 『さようなら、加代さん。ごめんなさい。俺は、本当にはあなたのことを愛していなかったのです』 軍之進の目から熱い涙がしたたり落ちていた…。
松江大橋の湖畔の太い柳の下に、銀杏返しの髪を少しくずした、若い女が立っていた。しかし、覚束ない足もとである。 黒襟のかかった、素袷をアダに着こなしてはいるが…。 女は、加代であった。 加代は、食い入るように、大橋川を下っていく艦船を見ていた。
血の気のない顔だった。 が、その目から涙が流れ落ちている。 そして、涙の流れる道筋に、化粧が取れていく…。
加代は、遠ざかっていく艦船をいつまでも見送っていた…。 もう低い空には黒い煙だけがたなびいている。 広い川下に、もう艦船の姿はない。 加代は、ゆろめき、太い柳の下の幹に、思わず、すがりつく。 すがりついたとたん、加代は、再び熱い涙をあふれ出し、木の幹に爪を立てながら、嗚咽していた。 ――完―― (注)「玄丹 お加代」(村松 駿吉 著)を参考にした。
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