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作品名:町娘と若侍の恋 作者:沢村俊介

第26回   親友との約束すら守れない軍之進

 石川軍之進は、あの日のことを忘れたことはなかった。
 安来(やすぎ)の山門のところで、加代と別れたあの日のことを。
 毎日、毎夜、加代のことを考えていた。

 大橋家老の命が救われたことは、多少の救いがあった。しかし、それも、親友の恩田清介の自害という悲しみの前には打ち消されてしまう。
 そして、何よりも加代が身を売ったということが、軍之進の心を苦しめていたのだ。

 いつものことだ。考えれば、いつも堂々巡りしてしまう。
 なぜ、加代さんはあんなことをしてしまったのだろうか。
 しかし、いくら考えても、軍之進には、わからなかった、加代の気持ちが。

 大橋家老の命を助けたいと思った加代の気持ちはよくわかった。加代の父親が、ひとかたならず、家老から恩を受けておられたからだ。しかし、それにしても、なぜ、敵の大将に身を売ってしまったのか。
 女にとって、貞操とは命と同じほど大切なものなのに。そんな大切なものをなぜに敵の大将に売ってしまったのだろうか。
 
 男には意地がある。
 女にも、貞操を賭けるほどの意地というものがあるのだろうか?。

 それにしても、素性もよくわからぬ男に、わが身を投げるなど、売女のすることだと腹が立つ。そして、気が狂うほどに加代がにくく、加代の行動が許せなかった。

 加代さん宛てに手紙をしたため、切腹でもすれば…。
 しかし、そんな勇気もない。

 それにそんなことをすれば、周りの人間たちから笑われるだろう。
 嫡子である兄上にも、迷惑がかかることになる。
 死ぬる勇気もないのだ、軍之進は、おのれをあざ笑っていた。
『所詮、俺は、加代さんのことを、本当には愛していなかったのだ!』

 軍之進は、安来の寺で加代と別れて以来、悶々とした日々を送っていた。
 少し外に出ると、加代のうわさ話が耳に入った。
 軍之進は、そのうわさを陰に隠れて聞いていた。

 加代は、鎮撫使の座敷に出て、その大将の側女(そばめ)になったというのだ。
 そして、鎮撫使一行が引き上げると、大将に捨てられ、気違いのようになってしまったという。
 加代は、派手な着物を着て、町なかを気が触れたように、歩き回っているらしい。

 軍之進は、耳をふさぎ、頭を抱えて、うちに舞い戻る。
 が、そのうわさ話が、繰り返し、繰り返し、軍之進の頭の中で、聞こえるのだ。
 加代が痛ましく、にくく、そして、いとおしく、胸が苦しむ。

 胸が張り裂ける。頭が締め付けられる。嘔吐しそうになる。
 夜になると、軍之進は、布団にくるまり、泣いていた。


 軍之進は、ひとり、部屋に閉じ篭っていた。
 と、兄がやって来た。
「軍之進、どうした、元気がないの。タカに聞けば、飯もろくろく食っていないというではないか」
「心配をかけて、すみませぬ」
「まぁ、よいわ。おぬしの友の恩田清介が死んだからのぉ」
「……」
「それより、軍之進、大変なことになったぞ。鎮撫使から、松江藩士400名を北上させよ、という命令が来たのだ…」
「えっ、そんな馬鹿な…」
「そうなのだ。すでに15万両の献金で、片がついておると思うたのに。鎮撫使一行に、まんまと、いっぱい食わされた…」
 軍之進は、正座し、兄の曇った顔を見つめていた。

 15万両の献金でも大変だったのに。
 藩士はすべて、俸禄の減額が命じられていたのだ。
 しかし、それではすまなかったのだ。
 藩士の何人かは、これから、戦(いく)さに駆り出されることになる…。

 追い打ちをかけるような、鎮撫使からの無理難題。卑怯な仕打ちと、地団駄を踏んでも、後の祭りであった。

 兄には、近頃、長男が生まれていた。
 兄を戦さに行かせるわけにはいかない。
「兄上、わたしは、奥羽の戦さに参加したいのです」
「ああ、そうか」

 軍之進にとって、今の苦しみを逃れるには、絶好の機会であった。
 軍之進は、奥羽の佐幕派追討の出兵に加わることにした。

 奥羽に向けて旅立つ日が近づいている。
 
 夜中、軍之進は、加代の家の周りをうろついていた。
 しかし、加代に会う勇気はなかった。いや、加代に会えば、なんと言ったらいいのか、わからないのだ。もっとも恐いのは、自分が加代に何か、とんでもないことを口走ってしまいそうなのだ。

『売女(ばいた)!』
 顔を見るなり、そんな言葉を吐いてしまいそうな…。
 いや、もっと悪いことには、そう言ったあとで泣き出してしまいそうな気がした…。

 軍之進は、加代に会わないよう、加代の家の周りを長いことうろつき、そして、おのれの家に戻った。
 そんなことを3日も4日も繰り返していた。

 いよいよ、明日という日、軍之進は、恩田清介の家を訪ねることにした。
 せめて、恩田清介の位牌に、手を合わせておきたかったのだ。
 訪ねると、座敷に上がらせてくれた。
 仏間に通される。
「恩田、すまなかった、ゆるしてくれ」
 仏壇の前で、軍之進は、手を合わせて位牌を拝んだあとも、長く頭を垂れて、恩田清介に詫びを入れていた。
 泣いて詫びれば済むものではない。
 あのとき、津田街道で、おのれ自身が恩田に切られればよかった。
 そうすれば、親友を、こうして死なすこともなかったのに。
 そして、あんな加代さんの姿を見なくても済んだのに。
 悔やんでも悔やみ切れなかった。

 と、誰か、仏間に人が入ってきた。石川の母親と、石川の妹の八重であった。
 母親の磯(いそ)が、軍之進を慰めていた。
「石川さま、あなたがわるいのではありません。誰がわるいのでもありません。だから、もう…」
「誠に、申し訳ありませんでした。恩田だけを死なせてしまって…」
「よろしいのです」
「わたしは、明日、奥羽の戦さに旅立ちます」
「えっ!」
 声につられて、軍之進が顔を挙げると、目の前に、真っ青な顔をした、石川の妹がいた。

「石川さま、わたしは少し、席を離れます。八重の話を聞いてやっていただけますか?」
 母親の磯(いそ)の声がした。

 きょとんとしていると、母親は立ち上がり、仏間を出て行った。
 残されたのは、自分と石川の妹だけだった。
 長い沈黙があった。
 軍之進は、畳表ばかりを見つめていた。
「石川さま、お力になっていただけませんか?」
「わたしにできることなんて何も…」
「でも、兄は申しておりました。かねてより、あなた様にすでにお願い申し上げていると…」
「……」
 わかっている、わかっているのだ、そんなこと。
 恩田清介が、生前によく言っていたのだ。
 死に際のときにすら、『八重のことをたのむ、頼む』と言っていたではないか。
 それがどんな意味を持つのか、軍之進にはわかっていた。
 しかし、まだ加代のことが忘れられないのだ。

「もう少し、もう少し、待ってください」
 軍之進は、苦しかった。
 この場を何とか早く切り抜けたかった。
「俺は、いや、わたしは、何とか、考えてみますから」
「でも、石川さまは、奥羽の戦さに行かれるとか…」
「……」
 見ると、石川の妹は、顔を伏せている。肩先が震えていた。泣いているようだ。
 軍之進は、頭の中が混乱していた。
「八重さん、大丈夫です。俺は、じきに、松江に帰ってきますから…」
「えっ!」
 八重が顔を上げた。
 その目には涙がいっぱいあふれていた。
 そして、その目が、すがるように、何かを求めていた。
 それを冷酷にはねつける勇気が、軍之進はなかった。
「もし、もし、戦さから無事に帰ってきたら、そのときは、そのときは…」
 軍之進は、苦しみながら、やっと、それだけのことを言った。
 八重が、『わかりました』とでも言うように、少し首を縦に振った。
 それで、何か解放されたかのように、軍之進は立ち上がり、仏間を後にした。
「どうか、ご無事で…」
 震えるような八重の声が、背中にはりついているようだった。

 軍之進は、苦しみで息を吐くこともままならず、ふらつく足取りで、それでもわが家へと足を前へ前へと、踏み出し続けていた…。
                              (つづく)


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