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作品名:町娘と若侍の恋 作者:沢村俊介

第25回   西園寺公望と別れる加代
25 西園寺公望と別れる加代

 公望と加代は抱き合っていた。
 と、そのとき、膳を下げに奥座敷に女官たちが入ってきた。ふたりは飛び跳ねるように離れる。
 公望は、神妙な顔になって、席に戻り、胸を反らしていた。

 公望は、公家の子弟たちの学舎で、古事記や日本書紀を学んでいた。
 杵築大社(=出雲大社)を守る、千家国造家(せんげ・こくそうけ)には、長い歴史がある、ということが、おぼろげながらもわかっている。

 645年の大化の改新以後、国は中央集権国家をめざしたが、出雲の国だけは、特別扱いであった。
 他の国々においては、中央の政府から国司が派遣されて、地元の国造は行政権を剥奪され、単に祭祀を行う神官に棚上げされてしまったのだ。
 しかし、出雲王朝の血を引き継ぐ出雲国造のみは、行政権を剥奪されることなく郡司の兼任を許された。

 やがて、奈良時代に入り、712年に、古事記が編纂される。

 当時の、出雲の国の国造は、意宇郡(現在の松江市と東出雲町の中間地)にあった出雲国庁に住んでいた。
 ところが、26代の国造の果安(はたやす)(708〜721年)の時代に、国庁のある意宇郡(松江市の東)から杵築(出雲市大社町)に移ることになったのだ。
 それは、朝廷から、「国譲りの談判が行われたという稲佐の浜の近くの杵築に、大国主命を祭る大きな社(やしろ)を建てよ」という命令を受けたからであった。
 こうして、出雲国造家(いずも・こくそうけ)は、杵築大社(=出雲大社)の神官、すなわち、「皇室の神官」という破格の地位を得て、朝廷と親密な関係を持ち続けたのである。

 そのような伝統のある出雲国造家で歓待を受け、西園寺公望は感激している。
 
 しかし、理性的にはそうであっても、加代を目の前にしていると、どうしても気持ちが高ぶる。
 女官たちが膳を下げている。
 
 が、膳が下げられ、ふすまが閉じられた瞬間、公望は、再び、加代を捕らえようと、畳の上を這っていたのだった。

 しかし、加代は逃げる。
「ほほほほっ、お殿さま、つかまえてみせてっ!」
「待て、待て、加代、待ってくれ」
 公望は、膝を畳につけながら、這うように加代を追う。
 やっと、加代を捕らえる。
 加代の背中から、羽交い絞めにする。
「加代、加代、やっとつかまえたぞ」
 公望は、しっかりと加代の背を抱きしめる。
 そのとき、加代が顔を振り向ける。
 そこには、濡れた、情熱的な目があった。
 公望の胸が高まる。
 加代の肩に力を込め、加代を正面を向かせる。
 そして、加代のからだに覆い被さり、加代のくちびるを思い切り吸った。
 加代の舌が差し込まれる。
 その加代の舌を吸い上げ、加代のからだをしっかりと抱きしめたとき、思わず、公望はうめいていた。
 なんということだろうか。
 加代のからだの上にのしかかっただけなのに、公望は、暴発してしまったのだ…。
「加代、……」
 公望が情けない声を出している。

「どうなさったの?」
「いや…」
 公望の顔が赤らんでいる。
「あらっ、お殿さまったら……」
「済まぬ…」
 公望は、目を開け、顔を赤らめながら、加代を見た。
 加代の目が笑っている。

 ふたりは、寝所に入っていた。
 そして、ふたりは、もつれるようにして、布団の中に入って行く…。

 
 加代は目覚めた。目を開ける。
 公望は、すでに起き上がっていた。
 神妙な面持ちで、正座している。

 加代は起き上がった。
 公望は、胸に何かをかき抱いているようだ。
 よく見ると、それは金襴の長めの袋であった。中に入っているのは刀のような。袋の先端部には、絹の紐が巻きつけてある。公望の守り刀かもしれない…。

「加代、そなた、これをもらってくれないか?」
 公望の声が耳に入る。

(なぜ、こんなものをわたしに…)
 加代はそんなことを思いつつも、思わず別のことを言葉にしていた。
「要りません、そんなもの」

 公望の耳に、加代の意外に冷たい声が届いた。
 寒々としたものが、公望の背筋を走ったような気がした。

 確かに加代のからだを抱いた。
 しかし、もうほんのしばらくもすれば、加代の記憶の中から、おのれそのものが掻き消されていくような気が公望にはした。
 抱いたとはいえ、加代の心までも、しっかりと掴んだわけではないのだ。

 言いようのない不安の念が沸き起こる。
 加代のからだは、すぐそばにあるのというのに…。

 しかし、公望には、加代のまつげが悲しそうに見えた。
 と、加代がくるりと、背を向けた。
「加代!」
 公望は、『捨てられる!』と思った。
 加代のからだに、もう馴染んでいるというのに…。
 公望の心の中に、不安が広がっている。
 その不安を少しでも小さくしたい。

「加代、加代、われの愛しい加代!」
 と、うめくように叫びながら、公望は、横抱えに、しっかりと加代のからだを抱きしめるのだった。

 無情にも、夜は明けていた。
 鎮撫使一行は、杵築大社(出雲大社)を後にしていた。
 加代は、公望とは離れ、一行の最後尾のつく駕篭の中にいた。

 大橋家老を救いたいと、それのみで飛び込んだのに。
 今、別れの時になって。
 これほどの辛さに襲われるとは!
 
 しかしながら、同時に、軍之進の顔や姿が現われ出ては消える。
 必死で加代は、軍之進の幻を消そうとしているのだが…。

 悲しい業なのか。
 加代は自分の胸に、二匹の蠍(さそり)を宿してしまったのかと思い、くちびるを噛みしめていた。

 直江、庄原を経て、宍道(しんじ)の八雲(やくも)本陣に着く。
 宍道の八雲(やくも)本陣で、鎮撫使の一行は泊まることになっていた。
 八雲本陣は、歴代の松江藩主が国内巡視の折に、しはしば、その宿泊所となったところであった。
 この八雲本陣で、鎮撫使の一行は泊まることになった。
 しかし、加代だけは、駕篭で、松江に送られることになった。

 出雲大社の千家国造家での宿泊時のことはともかくとして、今夜の泊まりの八雲本陣には、松江藩から接待役がやって来ることになっている。
 宍道の八雲本陣にて、総督たるものが、松江城下の端女(身分の低い召使いの女)と、戯れるのは、威厳にかかわる。
 それが、側近たちの言い分であった。
 公望は、彼らの進言を受け入れざるを得ない。機嫌のわるい顔で、本陣の中に入っていく。
 その後すぐに、加代を乗せた駕篭は、本陣の玄関前を通り、そのまま松江に向かって行った。

 加代は、公望の後について京都に行く気持ちはなかった。
 京都に行ってもみじめな思いをするだけだと思った。しかし、公望との別れがつらく、駕篭の中で、加代はずっと泣いていた。
                                  (つづく)


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