松江藩は、新政府に臣従を誓い、山陰鎮撫使一行の本隊は、米子の城を出て、松江入りをすることになった。 総督の西園寺公望は、本隊を率いて、松江城に入っていた。
加代も、実は、本隊の一番後ろに付いて、松江に帰っていた。
そして、今夜も、加代は、公望からの使いの者が来て、その者とともに、ひそかにお花畠を抜け、助次橋門(内中原町)から城の中に入っていった。 松江城で待つ公望に会いに行く時、加代は、胸がときめくことがあった。
が、罪悪感に苛まされる。安来の山門で、最後まで見送ってくれた軍之進の顔がちらつくのだ。 軍之進の顔は、ゆがみ、そして苦しそうであった。その苦しそうな軍之進の顔が加代の心を苦しめる。 しかし、加代は、公望に毎夜、身をまかしているのだった。 それは、公望に望まれていることで仕方のないことだった。 けれども、加代にとって、苦しみから逃れるためでもあるかのような、自暴自棄の振る舞いにも似たところがあった。 公望に抱かれると、決まって加代は涙を流した。まぶたの裏には、いつも、悲しげな軍之進の面影が浮かんでくるからであった。
松江城で、5日間の時が過ぎた。 鎮撫使一行は、杵築(今の大社町)の出雲大社に参拝して、京都に帰ることになった。
「加代、一緒に出雲大社まで、行ってくれぬか?」 公望に、気弱そうな、それでいて、すがるような目で頼まれると、加代は、その申し出をことわることができなかった。 加代は何度も、胸の内で反芻するのだった、『もう後戻りできない。軍之進さまの許には返れない』と。
出雲大社の参拝が済み、古来よりずっとこの出雲大社を守ってきた千家国造家で一泊させてもらうことになった。 千家国造家の奥座敷に、公望と加代はいた。 遠くに、稲佐の浜の潮騒の音が聞こえる。 座敷には、二つの膳が運ばれてくる。
加代は、もはや単なる総督のお酌取りの女ではなかった。加代にも同じ膳がそろえられているのだ。千家邸での扱いは、公望のおそばめであった。 加代と公望は、二つの食膳をはさみ、差し向かいに座っていた。
色白で端正な公望の顔が、酒でぽっと赤らんでいる。 加代も酔っていた。 「ねぇ、おとのさま、一度だけ、加代にお酌をしてくださいな」 加代が、公望に甘えている。 加代にも、多少、公望に情が移っている。しかも、加代の中で、公望との別れがもう近いとの予感があった。公望が京都に帰ってしまうと、本当に自分は、ひとりっきりになる。
公望は、気の強そうな加代が甘えてきて、胸がざわめく。 公望にとっても、こうした時が永遠に続いてくれたらとは思うものの、加代とはいつか別れなくてはならぬと、心の中にわだかまりのようなものが湧いて来て、胸が苦しいのだった。
公望は、加代にも、なみなみと、酒を注いでやる。 「あらっ、わたしったら、おとのさまに、お酌をさせた……。おっ、ほほほっほっほっ、いい気持ち!」 加代が顔を挙げ、気でも触れたように叫ぶ。 そして、たちまち、わが身を投げ出し、畳の上に這いつくばる。
「加代、どうしたのだ!」 公望が驚く。 心配そうに、近づき、加代の肩にそっと手を置く。
「ほっほっほっ、ほほほほほっ!」 加代は、突然うつ伏せになった身を起こし、狂ったように笑い出した。
公望は、胸を打たれる。 加代の顔を横から見ているが、その目には、何やら尋常ではない輝きがあり、公望は自分の顔が青ざめていくのがわかる。 (加代は、狂ったのではないのか。われは、加代に罪なことをしたのかもしれぬ…)
と、振り向きざまに、公望は加代に見据えられる。 「お殿さま、今夜だけ、今夜だけ、この加代のことを可愛がって!」 加代の目が濡れていた。 公望は腕を伸ばす、加代が身をすり寄せてきたので、抱き寄せる。そして、公望は、顔をねじ曲げながら、加代のくちびるを吸った。 加代の背中に手を回し、加代の上体をさらにしっかりと抱きしめる。 酒が入っているからなのだろうか、ひどく加代のからだが柔らかい。 公望にとって、加代のからだには、背骨すらないように思えるのだった。 (つづく)
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