軍之進は、安来の常福寺の書院にいた。 家老は、昨夕も、そして今朝も食事を執られなかった。
四つ半の刻(午前11時)になった。 本堂の前庭に、幕が張られている。本堂から幕のところまで、筵(むしろ)が通路のように敷かれていた。 筵の通路を進むと、幕の中央には、むしろが一面に敷きつめられており、その上に畳が2枚ほど、裏返しにして置かれていた。 家老は、向き合っている検使役にあいさつをされる。 そして、端座された。 その家老のそばに、介錯役として、太刀を持った軍之進が立っていた。
軍之進は、なかなか気持ちを落ち着かせることができなかった。 が、目を瞑り、気持ちを集中させようとしていた。
と、そのときであった。 「お待ちください、お待ちください!」 女の、叫ぶような声がした。 軍之進は目を開けた。
「こらっ、待て。ここは女の来るところではない!」 「いえ、わたくしは、総督さまの使いのものにございます」 軍之進は女を見た。そして、血の気を失っていた。 加代だ、加代がいるのだ。
しかもその加代は、まったく軍之進のいることすら、気がついていないのだ。しかも、何という派手な模様の振袖(着物)を着ているのであろうか。 そこには、軍之進の見知らぬ加代がいた。
加代が、両の腕を伸ばし、高々と奉書を検使役に差し出そうとしている。 「ご検使さま、ここに、西園寺総督さまからのご奉書がございます」 検使役は、急いで奉書を取り上げ、それを開き、文面に目を走らせている。 検使役が、奉書から目を上げた。 「待て、切腹は待てッ。切腹は相成らぬぞ。この奉書にご赦免とある。しかもこれは確かに総督さまの直筆じゃ」
刀身を、だらりとぶら下げたまま、軍之進は、加代を見ていた。 からだが震える、なぜかはわからない。
(加代は、こんなにも美しい女だったのか) その美しさゆえに、今、軍之進にとって、加代の存在が遠くに感じられるのだ。 加代の身に何かあったとしか、軍之進には思えない。
加代は、軍之進の顔を見た。 加代は、あっと心の内で叫ぶ。 軍之進の顔が怖い。眉が、目が、吊り上がっているのだ。
加代は、軍之進の顔を見てはならぬとばかり、着物のたもとで顔を覆い、大地にうつ伏していた。
「加代、おまえは…」 軍之進は、心の内で言葉にならぬ言葉を発していた。 頭が真っ白になっている。 そして、今にも、頭から前にぶっ倒れそうな気がした。が、気力で、前のめりになりそうなおのれの体を、真っ直ぐにと、支えている。
加代は身を売ったのだ、こともあろうと、にくき敵の大将に。 軍之進が、がっくりと膝をおとし、大地にへたりこんだ。 うっすらと涙が目ににじむ。 顔の皮が、にかわでも塗られたように、こわばる。
ふと、軍之進が、顔を挙げた。 乱れた島田の後ろ髪。よろよろとして、加代が立ち去っていく。 しかし、気が抜けたようで、軍之進は立ち上がれない。
「これっ、軍之進、女の後を、女の後を追ってやらぬか。捨てては置けぬ」 軍之進は、家老の声がしたような気がした。 よろよろと立ち上がる。 加代の後を追っている。
石段のところでやっと、追いつく。 「加代さん、待ってくれ」 加代は立ち止まった。しかし、後ろを振り向かない。 「どうして、どうして!」 軍之進は、おのれの声が涙声になっているのに気がついた。 しかも大きな声が出せない。 なぜだろう、体の中から力が抜けているのだ。
「あの総督さま、若くてきれいだわ。わたし好きだわ」 軍之進は、加代が何を言っているのか、わからない。 しかし、無性に悲しいのだ。 「加代さん!」 呼びかけながら、軍之進は、涙を流している。 「待っているの、わたしのことを、総督さまは。もう一度帰ってあげなくては…」
「加代さん!」 軍之進は、足が前に進まない、加代を追っかけようとするのに。 目の前がかすみ、もう何も見えなかった。涙のせいで、いや、あまりの衝撃のせいで、何も考えることができなかったのだ。
目から流れ出る涙をしきりにぬぐう。遠くで、加代が黒い駕篭に乗り込むのが見える。 『加代さん!』 軍之進は叫ぶが、声が出ない。石段の上にへたり込んだまま、動けない。
その加代の乗った駕篭が見えなくなるまで、ずっとずっと軍之進は見送っていた。
駕篭が見えなくなって、軍之進は、大地に額をくっつけ、頭を両の拳で叩きつけながら、おのれをいじめていた。 涙が、後から後から止めどなく、流れ出てくるのだった。 (つづく)
|
|