恩田清介にとって、家老の落ち着き払った様子は、意外であった。 (ご家老は、ご自分の命など、少しも惜しんではおられぬ…)
家老の声が、恩田清介の耳に入ってくる。 「恩田、軍之進を責めてはならぬ。もし、おぬしたちが、わしを連行しようというのなら、わしはこの場で、切腹をする。ただし、わしの首だけは、すぐに安来の常福寺へ届けてくれ。検使役の皆みなさまが、待っておられるからの…」 恩田清介は、家老の言葉が、胸にずしりと入り込んだような気がした。 そして、白刃をダラリと投げ出してしまっていた。
ここで、家老に腹を切られたら、元も子もなくなる。自分たちの企てそのものが無になってしまう。家老を人質としなければ、決起は、単なる無謀な集団の戯れに成り果ててしまうのだ。 恩田清介は、頭の中が真っ白になっていた。
見ると、家老は、地べたに、座られており、腰の小刀を抜き放とうとされている。 それを軍之進が止めようとしていた。 恩田清介は、なぜか、それらを正視することができないでいた。 そして、家老と親友であった軍之進に、背を向けてしまった。
軍之進は、ご家老の切腹を止めようとしていた。 やはり、この道端での切腹は、ご家老の権威にかかわると思うのだ。が、その時、軍之進にとっては敵側であり、しかも家老を奪うはずだった若侍たちが、家老の周りにバタバタと集まり、座り込んで、頭を垂れているのに気がついた。 そして、若侍たちも、みなが一様に、家老が、この場での切腹を思い留まられるよう、熱望していることがわかった。
「おい、恩田はどうした、恩田がいないぞ!」 家老が、切腹を思いとどまられ、再び駕篭の中に入られ、みなが、ほっとした時だったのだ。 軍之進は、蒼くなっている。 胸騒ぎがしてならない。 立ち上がって、あたりを見渡す。 遠く、草叢に向かって、走り去っていく人影が、ふたつばかり見えた。その姿は、だんだん小さくなっていく。
(あっ、あの中に、恩田がいるにちがいない!) 軍之進はすでに駆け出していた。恩田清介たちの後を追っていく。
と、人影が見えない。 軍之進は息切れがしていた。 走るのを止め、回りを見渡す。
と、枯草の中に、人影が見えた。 近づく。 よく見ると、からだを前かがみにして、ぐったりとなっている者がいるようだ。 そして、それをひとりの若侍が、背中から抱きかかえている。
「恩田、恩田、どうしたというのだ」 泣き叫ぶように、軍之進が駆け寄る。 「ああ、ああっ」 軍之進が大きな声を上げた。
軍之進がからだをかがめ、正面に回ってよく見ると、恩田清介の腹にべっとりと血が滲んでいるのだ。しかも逆さになった大刀が、腹わたの中に食い込んでいる。 恩田の顔が、血の気を失い青白くなっている。しかも、くちびるが真っ青だ。 「恩田、貴様、何と言う馬鹿なことを!」 軍之進は、恩田の手ににぎられている太刀を奪い、抜き取る。 「石川、俺は、残念だ」 恩田のかすれた声が、軍之進の耳元に届く。 「ばかっ、なんで早まったことを!」 軍之進の目に、涙があふれていた。 「頼む、石川ッ、八重のことを頼む、八重はおぬしのことが好きなのだ……」 恩田は、血に濡れた手を伸ばし、石川軍之進の腕をにぎっていた。
が、しかし、その手から急速に力が抜ける。 恩田清介の目が、閉じられていく。 「恩田、恩田ッ、頼む、死なんでくれ、死なんでくれッ、頼むッ!」 恩田の肩をしっかりと抱きしめながら、軍之進が泣き叫んでいた。 (つづく)
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