石川軍之進は、一晩、大橋家老の家でお世話になった。 家老が、夜更け、密かに軍之進の組頭の柳田鉄之助に言伝てをしてくれたのだった。むろん、それは、軍之進の身を案じてのことだった。
軍之進は、家老屋敷で、床に入っていた。 加代を思っていた。 (加代さん、何もしてあげられなかったね) 軍之進の目から涙がこぼれる。
が、不思議なことがあるものだ。 泣くことによって、軍之進は、少し、気持ちが救われたような気がした。 そして、ご家老をきっと無事に安来まで送ろう、と誓う余裕すら芽生えてきたような気がする。 (俺は、加代さんを幸せにしてあげることができなかった。けれども、せめて、ご家老の身の安全だけは守ってさしあげたい…)
松江の城下を出て、安来に向かう途中、もし、仲間たちが、ご家老の身を奪おうと襲ってきたら、刀は抜くまいと軍之進は思った。刀を抜かず、仲間を説得しようと思った。説得できなければ、仲間に切られようと思った。恋しい女ひとりとて幸せにできない男。切られても、惜しいような命ではない。
(加代さん、ごめんなさい) 軍之進は、閉じたまぶたの前に浮かぶ加代の幻に向かって、謝っていた。
大橋家老の一行は、安来(やすぎ)に向かうことになった。 家老の屋敷を出る。大橋川を渡る。 天神町、白潟本町を通り、さらに天神橋を渡って、竪町を通る。
軍之進は、家老の駕篭に寄り添うように歩いていた。城下の町をはずれ、街道に入ると、仲間が襲って来るにちがいない。
今や、軍之進には、いくら家老を奪っても、若者たちの企みは成功しないように、思えた。 家老を人質に取り、藩の上層部に、鎮撫使一行と一戦を交えるよう交渉しても、藩の上層部は、その挑発に乗ってこないように思えた。
結局のところ、叛意を翻した若者たちは、人質となった家老ともども、藩の上層部と鎮撫使一行の兵士たちに攻められ、鎮圧されるのではなかろうかと思われる。
やがて、家老の一行は、津田街道に入った。
松並木が美しい。 軍之進は、美しい松に、加代の幻を重ねながら、家老の命や松江藩の危機を救えぬ、おのれの無力さを恥じていた。
が、今は、ご家老の身を守ることが肝要。 軍之進は、まなじりを決した。 このまま、若者たちの反逆が起こらないとすれば、ご家老は安来に着いて切腹をされる。それを見届けてから、鎮撫使一行は、京都に引き上げるであろう。そして、松江の城下は戦さに巻き込まれることはない。 軍之進にも、そこまではわかるのだった。 その先のことは、わからない。
やがて、新政府は勢力をつけ、徳川の親藩などは取り潰すのだろうか。松江藩が新政府によってお取りつぶしとなれば、松江藩の藩士たちは俸禄を取り上げられ、食い扶持を失い、路頭に迷うことになるのだろうか?。
(しかし、その頃には、俺は、きっと、この世にはいないだろう…)
石川軍之進が、暗い顔を挙げたとき、目の前に、バラバラッと、若い武士たちが5,6人も現れた。 「石川、なんだ、そのざまは。俺はおぬしを見損なったぞ」 「おっ、恩田じゃないか!」 若い武士たちの先頭に、親友の恩田清介がいるではないか。肩から、たすきがけをし、太刀の柄をにぎっている。
やはり、恩田清介たちの一味は、ご家老の身柄を奪い、藩の上層部に圧力をかけて、鎮撫使と戦さをしようというのだ。
「石川、おぬし、俺たちを裏切ったなッ!」 恩田清介は、親友の石川軍之進をにらみつけていた。
恩田清介は、すでに鞘(さや)から、白刃を抜き去っている。 石川軍之進は、親友の恩田に切られるのは本望だと思った。 「恩田、済まぬ。ここはおとなしく通してくれ。ご家老のご決意は固いのだ」 軍之進は、深々と頭を下げた。
「いや、それはならぬ。ご家老が切腹をなされたところで、何もならぬ。さぁ、ご家老の身柄をこちらに渡してもらおう」 「おぬしらに、この駕篭を渡すわけにはならぬ。強いてというなら、恩田、わしの首を打ってからにしてくれ」
軍之進が、腰から大刀と小刀をはずし、それらを地面に放り投げようとした時だった。 「待て!」 家老の大橋茂右衛門の声だった。
家老は、駕篭の中から出て、すっくと立っていた。 「恩田、よく聞くのだ。石川は、わしが無理を言って、安来に連れて行くことにしたのだ」 恩田清介は、家老を目の前にし、太刀を垂れ下げ、呆然と、立ち尽くしていた。 (つづく)
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