「鎮撫使様は、松江のお殿さまをいじめてばっかりでございます」 目の前の女は、顔を伏せながらも、そう言い切った。
(何と、生意気なことを言うものよ) 鎮撫使総督の公望は思う。
が、待てよ、とも思うのだ。 ひょっとしたら、この女の言うことも、間違ってはいないかもしれない…。
これまで、土地と人民は、それぞれ全国に散らばる藩主たちのものであった。 それに、公望が学んだところによると、年貢の率も、各藩とも、まちまちであった。 5公5民(ある農家で、10表の米が採れたとすると、5俵は年貢米として藩に納め、5俵のみを自分の家で食べるものとするということ)なら、まだいい方であった。 全国の藩の中には、7公3民と、農民たちから過酷な年貢を取り立てている藩もあったのだ。
しかし、これからは、藩を無くし、すべての土地、人民を国家のものとするのだ。税率は全国平等にする。広く浅く税を取り、中央集権の国家とする。そして、開国して世界の国々と貿易をし、対等な付き合いができるようになることだ。
むろん、版籍奉還には、各藩が抵抗を示すであろう。 しかし、新政府は、これからも、薩摩、長州、土佐あたりから御親兵を募り、その親衛隊の武力をもって、強引に土地と人民を朝廷に返させることになろう。
藩としても、新政府の改革には反対なのだが、全国の藩も財政難なのだ。 新政府は、版籍奉還とともに、各藩の負債をも引き受けることになろう。全国の各藩も背に腹は返られぬ。新政府の版籍奉還の方針に従わざるを得なくなるだろう。
時代は流れているのだ。 しかし、鎮撫使一行の幹部や兵士たちの中にも、その時代の流れがわからず、ただただ弱い者いじめをして溜飲を下げようとしている者がいるのかもしれない。
公望は、新政府の考えが、なかなか、一兵卒にも浸透していっていないことを感じる。彼らは、日々、命を削って、反政府の兵士たちと戦っているのだ。大局に立って物事を見よといっても無理なところはある。
と、公望は、近く女から匂いが漂ってくるのを感じ取っていた。いやな匂いではない。が、化粧の匂いでもないようだ。なにやら、男の官能をくすぐるような、女の匂いであるような気がした。
公望とて、童貞ではない。 ここ15日間、城内に滞在している間には、夜、床に就く時刻には、町家の娘をあてがわれていたのだった。
しかし、加代の白いうなじに、ドキッとはするものの、手を出せないでいた。 が、その色っぽいうなじを見つめるうち、公望は、もっと、この女の心を掴めぬものかと思った。むろん、あわよくば、女から、口唇(接吻)ぐらいは奪いたいという下心も芽生えつつある。
「のぉ、加代、そなた、この部屋まで、やって来たのだ。何か言いたいことでもあったのではないか?」 そばの女が、そっと頷いている。 公望は、がっくりと来て、ため息を吐いた。
(そうか、やはり。この女には、やはり、何か目的があったのだ。これでは、この勝気な女をどうにかしようと思っても、とてもできまい…) 公望は、半ば、男としての欲望を捨てていた。 多少、やけっぱちになっている。 「しかし、せっかくの機会じゃ、そなたの望みのものを、われに言うてみぬか?」
女が顔を上げた。そして、まっすぐに自分を見つめる。
「わたし、松江藩のご家老様の切腹を、お許しいただきたいのです」 女の目がきらりと光った。
公望は、どきりとして、上半身を思わず後ろに反らした。 「……」
女がさらに姿勢を正している。 「弱い者いじめをしてもどうにもならないでしょう。それより恭順の証しとして求めるものには、もっとましなことがあるのではないかと思うのですが…」 女は、言い終えても、怯えることなく、刺すような視線を向けて来る。
「わかった、加代」 公望は、自分の言葉が緊張で震えているのがわかった。 しかし、相手の女も、真剣にわれに物を言ったのだ。女に負けたくないという意地が公望にもあった。 「しかし、もう、そのことは言うな。われが判断をしよう。むろん、そなたの言い分も、よく考える」
「まぁっ、ほんとう?」 加代の目が、大きく見開かれていた。 公望は、その大きな目に見入っている。 それに、その目は、キラキラと実によく光る。
公望は、落ち着こうとした。 目の前の女に、馬鹿にされてはならないと思う。 深呼吸をした。 「ああ、そなたとの約束だ。きっと守る」 公望は胸を張るようにして、言葉を吐いた。 加代をじっと見る。 加代のひとみが濡れているように、公望には思えた。 (つづく)
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