9 須磨子に好きだと言ってしまう
「うっ、ううう」 須磨子が苦しそうだった。 抱月はやっと、われに返る。 抱き締めている手をゆるめる。 唇を離した。 目を開ける。 須磨子の額に皺が寄っているようにも見えたが。
しかし、抱月は、すぐにしっかりと須磨子のからだを抱き寄せた。 「好きなんだ。こんなぼくだけど、君が好きなんだ」 抱月は須磨子の耳元で、ささやきかけていた。
中年で、しかも、才能もない男が若い女を抱いている。わびを入れずには、須磨子を抱いてはいられなかった。しかし、一方では、興奮のあまりなのか、頭に血がのぼったような感覚があって、足は宙に浮いているようなのだが、抱月は、それでも須磨子を腕にの中にしっかりと抱いている。
しかし、恍惚のときは、続かなかった。このまま欲情のままに身をゆだねていけば、精神の均衡すら失い、膝から崩れ落ち、床の上に倒れ込んでしまいそうだった。 わずかに残った理性が、抱月をして、須磨子を抱く手の力をゆるめさせた。 体を離して、須磨子の顔を見た。頬が紅潮していた。が、その目元は、優しい表情だった。抱月は少し安心して、微笑んだ。 「わるかったね」
須磨子は黙っていた。が、静かに目を開けていた。 その目が輝いている。 抱月は、その目に、冗談っぽく言った。 「君がすぐに返事をしないんだから。僕は逢いたかったのに……」 須磨子に、にらまれている。
抱月は、あわてている。しかし、何と言ったらよいのかわからない。 「ほんとうなんですか?」 須磨子の唇を見ていた。一瞬、須磨子が何を言っているのか、よくわからなかったが、抱月は答えていた。 「ほんとうだと思う。なぜかはわからないが、君のことが好きだから。好きなら逢いたいと思うのが、ふつうのことではないのですか?」
須磨子は、信じられない、とでも言うように、じっと抱月の目を見ている。自分が口説かれているのかいないのか、よくわからなかった。しかし、抱月が自分に好意を抱いてくれていたのだ、ということがわかって、うれしかった。 何となく、これまでにも抱月の気持ちは察していたような気もするが、さっきは、確かに、君のことが好きだと、言ってくれたような気がしたからだ。 それに確かに、抱月の口びるの感触が、自分のくちびるに熱く残っている。 「どうして、わたしのことが…」 はすっぱな声の調子に、須磨子は自分で驚き、頬を赤らめた。 「わからない。なぜかは、わからないんだ。しかし、自然と僕の心が君を求めているような気がするんだ」 『まぁ、なんてことを』と思って、須磨子は抱月の目を見た。眉毛が濡れているように思える。それに恥ずかしそうだった。そして、その目の奥は、少年のように澄んでいて、須磨子は、胸が熱くなるような気がした。 (つづく)
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