抱月は、須磨子に背を向けている。 しかし、神経は、須磨子の方に集中されていた。
須磨子が席を立ったような気配がした。 行ってしまわれるのではないかと思って、抱月は振り向いた。 須磨子が立っていた。こちらを見ていた。 ほっとした。 まだ、ここにいてもらいたかったのだ。
須磨子の目を見ると、潤んでいるように思えた。 『なぜ?』と思って、抱月は近寄っていく。 (彼女は気丈な人だ。泣くわけがない…)
須磨子の目を見た。やはり、潤んでいる。 (なぜだ?) 抱月は、彼女が何かを求めているような気がした。
(何を?) その時、女の匂いがした。 抱月は、体が、ガシッと固まってしまったような気がした。
須磨子は顔を伏せていた。ぎこちないまま、抱月は、須磨子の視線がこちらに向いていないことをいいことに、須磨子の肩に、手を置いた。 (わたしは、何をしようとしているのだろうか?)
肩に置いた手が震えている。 震えを止めなくては。 こんなことでは、彼女に、わたしの気持ちを見透かされてしまうではないか。 何か、言わなくては。 しかし言葉が出ない。
抱月は、肩で息をした。 息を吸い、それを吐いたあと、しばらくして、何かが、ぽろりと口から出た。 「また、来てくれますか」 抱月は、自分の口から出た言葉に驚いている。 (これではまるで、さいそくしているみたいじゃないか…) 抱月は恥ずかしくなって、頬を染めていた。
須磨子からの返事はない。 須磨子は依然として顔を伏せていて、彼女のこころが読めないのだ。
頭がかすみ、立っているという感覚がなくなっていく。 『早く返事をください』 抱月は、心の中でささやいている。
(だめかもしれない…) 抱月の口からため息が漏れ、須磨子の肩に置いた手が、揺れながら、だらんと下に落ちていく。
そのとき、須磨子の頭がこちらに近づいたような気がした。抱月の頭の中で理性の塊(かたまり)が、溶けたような気がした。 須磨子を抱き寄せた。 そして、須磨子の顔を上げさせた。須磨子は目を瞑っていた。が、須磨子はかわいくてきれいだった。 抱月は目を閉じた。須磨子のくちびるに自分の唇を重ねていく。 意外に、冷たいくちびるだった。 でも、非常にやわらかい。 抱月は、そのくちびるをもっと味わいたいと思った。唇を押し付けている。抱く手に力を込めている。
『許して欲しい。好きなんだから…』 心の中で、そう告げる。 しかし、頭の中では、自分を責めるものがある。 (愛する資格などないというのに…)
『地獄に落ちよ』 抱月の頭から飛び散った理性のひとかけらが、頭の上の方からつぶやいている。しかし、抱月は、目に涙を滲ませながらも、須磨子のくちびるを離そうとはしなかった。須磨子がそれほどに愛おしかった。須磨子という女に酔っていて、理性が麻痺しつつあるよう気がした。 (つづく)
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