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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第8回   須磨子という女に酔って行く

 抱月は、須磨子に背を向けている。
 しかし、神経は、須磨子の方に集中されていた。

 須磨子が席を立ったような気配がした。
 行ってしまわれるのではないかと思って、抱月は振り向いた。
 須磨子が立っていた。こちらを見ていた。
 ほっとした。
 まだ、ここにいてもらいたかったのだ。

 須磨子の目を見ると、潤んでいるように思えた。
『なぜ?』と思って、抱月は近寄っていく。
(彼女は気丈な人だ。泣くわけがない…)

 須磨子の目を見た。やはり、潤んでいる。
(なぜだ?)
 抱月は、彼女が何かを求めているような気がした。

(何を?)
 その時、女の匂いがした。
 抱月は、体が、ガシッと固まってしまったような気がした。

 須磨子は顔を伏せていた。ぎこちないまま、抱月は、須磨子の視線がこちらに向いていないことをいいことに、須磨子の肩に、手を置いた。
(わたしは、何をしようとしているのだろうか?)

 肩に置いた手が震えている。
 震えを止めなくては。
 こんなことでは、彼女に、わたしの気持ちを見透かされてしまうではないか。
 何か、言わなくては。
 しかし言葉が出ない。

 抱月は、肩で息をした。
 息を吸い、それを吐いたあと、しばらくして、何かが、ぽろりと口から出た。
「また、来てくれますか」
 抱月は、自分の口から出た言葉に驚いている。
(これではまるで、さいそくしているみたいじゃないか…)
 抱月は恥ずかしくなって、頬を染めていた。

 須磨子からの返事はない。
 須磨子は依然として顔を伏せていて、彼女のこころが読めないのだ。

 頭がかすみ、立っているという感覚がなくなっていく。
『早く返事をください』
 抱月は、心の中でささやいている。

(だめかもしれない…)
 抱月の口からため息が漏れ、須磨子の肩に置いた手が、揺れながら、だらんと下に落ちていく。

 そのとき、須磨子の頭がこちらに近づいたような気がした。抱月の頭の中で理性の塊(かたまり)が、溶けたような気がした。
 須磨子を抱き寄せた。
 そして、須磨子の顔を上げさせた。須磨子は目を瞑っていた。が、須磨子はかわいくてきれいだった。
 抱月は目を閉じた。須磨子のくちびるに自分の唇を重ねていく。
 意外に、冷たいくちびるだった。
 でも、非常にやわらかい。
 抱月は、そのくちびるをもっと味わいたいと思った。唇を押し付けている。抱く手に力を込めている。

『許して欲しい。好きなんだから…』
 心の中で、そう告げる。
 しかし、頭の中では、自分を責めるものがある。
(愛する資格などないというのに…)

『地獄に落ちよ』
 抱月の頭から飛び散った理性のひとかけらが、頭の上の方からつぶやいている。しかし、抱月は、目に涙を滲ませながらも、須磨子のくちびるを離そうとはしなかった。須磨子がそれほどに愛おしかった。須磨子という女に酔っていて、理性が麻痺しつつあるよう気がした。
                               (つづく)


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