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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第7回   須磨子は次の公演を求めていた

(養父に支えられて、今の自分がある…)
 抱月は、その想いをかみしめている。
 がしかし、養父のおかげということは、養父の恩ということに縛られている、ということでもあった。
(わたしは、かごの中の鳥だ…)


 須磨子は、抱月の方を見遣り、そして、目を見つめた。
 抱月の目は優しかった。しかし、それはやがて、悲しみの色に変り、潤んでいるように見えた。

「どうかなさったのですか?」
「いや、何でもない」
 抱月の言葉が耳元に入って来る。
「実は、ぼくの生まれは浜田の町ではないのです。もっと田舎の、小国(おぐに)村というところなんです」
 抱月は、そう言いながら、そんな田舎者がやっとここまで来ることができたのだ。
 これ以上のことを望むのは、身分不相応というものだと考えていた。

 しかし、時として学者という身分を捨て、劇作家を夢見ていることもないことはなかった。
 確かに、かつての優れた劇作家たちと自分とを比べるなど、おこがましくて他人には言えないが、心の裡では秘かに、大きな、とてつもない夢を抱いていた。

 江戸時代、近松門佐衛門という人は、武士を捨て、世間ではほとんどかえりみられることもなかった劇作家の道を選んだ。さぞ勇気のいることであったろう。でも近松門佐衛門には、己の信ずるところがあり、己の才能を頼むところもあったに違いない。それに比べれば、自分などは、勇気もなく、才能もない。

「わたしも…」
 須磨子の声がして、抱月は我に返った。

 抱月は、目をきょろきょろさせながら、それでも、『君は何かを言ったのですか?』とでも言いたげに、須磨子の顔を見つめていた。
「いやだー、先生、聞いておられなかったんですか」
「何か?」
「わたしも、田舎者ってことですわ」
「えっー、そうなんですか」
「まぁー、いやですわ。先生は、わたしのことを、どこか良家の子女とでも、思っていらっしゃったんじゃないんですか」

 抱月は、須磨子の艶のある声に酔いしれたのか、それとも須磨子とこうして言葉を交わしていることに喜びを感じているのか、胸が熱くなってきた。須磨子が身近に感じられ、須磨子が愛おしくなる。うれしい。胸がはずむ…。

 自分には妻もある、子もある、はるかに年も上。そう思っても、須磨子への愛おしさが消えていかない。
 なぜだろう、そうつぶやいても、答えが出てこない。しかし、何と胸のざわめきが心地よいのであろうと、抱月は頬を紅潮させていた。
 須磨子の過去、自分の過去が重ね合わせられていくような気がし、それがひどくふたりの心を近づけていくように思われる。しかしそれは危険なことのように思えた。ひょっとしたら、演出家と俳優との関係を越えてしまうのではなかろうか。そんなことは決して許されることではないのに…。

 抱月に、自制の心が働いている。実父のこと、そして養父のことを語るまではよい。しかし、養父の縁戚に当たる島村いち子との縁談の話にまで持って行こうとすると、苦しくなる。

 しかし、須磨子と、もし今後、個人的な付き合いをしようとするなら、妻のいち子のことをまずは語らねばならないだろう。

 抱月は徐々に顔を曇らせていった。
 須磨子は、突然、抱月が黙ってしまい、不安に駆られている。自分が何か抱月に対して気に障ることでも言ったのであろうかと思う。

 これまで、何となく、抱月の心の中に踏み入れようとすれば、抱月からはそれを拒むようなものが感じられた。須磨子はそれを打ち破りたいと思った。
 なぜ打ち破りたいのか、それはたぶん、自分が抱月のことが好きで、抱月に、心の窓のすべてを開いてもらいたいからなのだろう。しかし、抱月はすべての窓を開かない。

 抱月はいつの間にか背を向けて立っていて、窓辺から外をながめていた。その背が寂しそうに見えた。

「先生は、これから、一体、何をなさりたいのでしょう?。そして……」
 須磨子は、言葉を続けたかった。
『そして、先生がもし、これから、なさりたいことがあるのなら、それを、わたしはお手伝いしたいのです』
 しかし、それは言葉にはならなかった。抱月に媚びを売っているようであり、何にもまして、そのような言葉を吐くことは、抱月へ、自分の想いを告げるように思われたからだった。

 窓辺に立っている抱月は、こちらを向かなかった。しかし、
「ぼくには、さほどの才能もないのです。でも、大衆の心を打つような演劇をやりたいのです」
 という言葉が須磨子の耳に届いていた。

 須磨子は不思議そうに抱月の背を見ている。
『今の演劇だって、わたしは、そんなつもりでやっているわ。誰だって、見る人の心を打つお芝居をやりたいと願っている…。先生ったら、今更何をおっしゃりたいのだろう?』
 抱月が振り向いた。恥ずかしそうにこちらを見ている。しかし、まっすぐに見つめられて、須磨子はそれに負けじとばかり、まっすぐに抱月を見返している。

「今のままでは、わたしはだめなんです」
 須磨子は、抱月の目をきちんと見ながら言った。
「今でも、わたしは、観衆の心を見て演じていますわ」

「あなた一人の力では、どうしようもない」
 抱月の力のない言葉が届く。
 須磨子は、抱月が何を言っているのかよくわからなかった。ただ、『あなた』という言葉の、優しい響きが心に沁みて来る。
「そうは思っても、どうすればよいのか、ぼくにもわかりませんが…」

 須磨子が顔を上げたとき、抱月はまた、背を向けていた。
『この人は、一体、何がやりたいのだろう』と須磨子は思った。そして、『この人は、わたしに何を求めているのだろう』と思った。

 抱月は、部屋に若い女の匂いが立ち込めていることに気付いていた。そして、それを強く感じるようになっていた。それを振り払いたかった。しかし、その勇気がなかった。女の匂いに逆らえず、その甘美な気持ちに酔いながら、抱月はつぶやいていた。
「役者はいるのです。しかし、いい脚本がない。そして、いい舞台がない…」

 須磨子は、腹立たしかった。翻訳ならたくさんの戯曲があるではないか。数は少ないけど、劇場もある。もし、抱月の言うとおりであるなら、翻訳家や演出家がなまけているだけのことではないのか、と思った。

 実のところ、自分がこうして、抱月の許にやってきているのは、『次の作品を、次のわたしの役を探して欲しい』という気持ちからなのに、そんなこともわからないで、と、心の中で抱月を責めている。
                               (つづく)


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