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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第6回   再び研究室を訪れる須磨子

 あの日、別れ際に、『また逢おうね』と須磨子に確かに言ったと思う。

 目を瞑る。すると須磨子の顔が浮かんでくる。
 とてもかわいい。

(また、会いたい…)
 抱月は、胸に手を当てていた。

 しかし、その一方で、あのように言ったものの、あれは、せっかく逢いにきてくれた須磨子に対する、自分からの社交辞令に過ぎなかったではないかとも思われた。

 実際、そんな風に、恋人みたいなことを言うには、あまりに自分は年を取りすぎている。それでは、相手の女性がかわいそうだ。

 それに、いくら心の中で会いたいと思っても、彼女の家にまで押し掛けられるはずもないではないか。
 年が離れすぎている。
 自分は結婚していて家庭もある。

 しかも、彼女と連絡の取りようもなかった。

 放っておいた。
 いや、どうすることもできなかった。

 抱月は耐えた。
 当然のことだろう。自分に恋人になれる資格があろうはずもなかった。
 書物を読むことに専念しようとした。


 が、何日かして、須磨子が研究室にやってきたのだ、突然…。
 戸惑いがあった。夢でも見ているのではないかと思った。
 自制しようとした。が、だめだった。うれしさは隠せない。
 抱月は、にっこりと笑っていた。
 
 いい年をして恥ずかしい…。
 あわてて、研究室の中で土瓶を探し廻り、階段を下りて、事務室の前にある炊事場で、お湯をもらい、研究室に立ち戻って、お茶を入れた。

「まぁ、そんなことまでしていただいて」
と須磨子が言った。

 抱月は、須磨子に椅子をさし出す。
 そして、テーブルにお茶を置く。

「わたしにも、若い頃がありましてね。島根縣の西の方に浜田という町がありましてね。その町にあった裁判所で働いていたんです。お昼どきになると、検事さんのところにお茶を持って行ったものですよ」
 須磨子は、信じられないとでも言うように、手を上げ、首を横に振っている。

(なんて、おおげさなしぐさなんだ。でも、ほんとうにかわいい人だ)
 抱月は、頬を少し染めている。

 須磨子の顔がまともに見られない。
 あまりに近すぎる。
 胸がどきどきしている。

 何かに気持ちを逸らそうとしている。
 そうなのだ、あの頃、裁判所の給仕をしながら夜学に通っていた。英語は本当に独学だった。テキストの英文をノートに書き写し、辞書を引きながら、その下に日本語の訳文を書いていったものだ。

「先生は、検事さんの息子さんではなかったんですか」
 須磨子の声がした。
 ビクッとしたように、昔の思い出を断ち切る。
 そして、顔を上げた。
「はい、養子に入ったのです。わたしの父は事業に失敗したものですから。わたしが今こうしてあるのは、養父のおかげなのです。養父がみんなわたしの学資を出してくれたのです」
 そう言いながら、抱月は悲しい想いをかみしめていた…。
                               (つづく)


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