あの日、別れ際に、『また逢おうね』と須磨子に確かに言ったと思う。
目を瞑る。すると須磨子の顔が浮かんでくる。 とてもかわいい。
(また、会いたい…) 抱月は、胸に手を当てていた。
しかし、その一方で、あのように言ったものの、あれは、せっかく逢いにきてくれた須磨子に対する、自分からの社交辞令に過ぎなかったではないかとも思われた。
実際、そんな風に、恋人みたいなことを言うには、あまりに自分は年を取りすぎている。それでは、相手の女性がかわいそうだ。
それに、いくら心の中で会いたいと思っても、彼女の家にまで押し掛けられるはずもないではないか。 年が離れすぎている。 自分は結婚していて家庭もある。
しかも、彼女と連絡の取りようもなかった。
放っておいた。 いや、どうすることもできなかった。
抱月は耐えた。 当然のことだろう。自分に恋人になれる資格があろうはずもなかった。 書物を読むことに専念しようとした。
が、何日かして、須磨子が研究室にやってきたのだ、突然…。 戸惑いがあった。夢でも見ているのではないかと思った。 自制しようとした。が、だめだった。うれしさは隠せない。 抱月は、にっこりと笑っていた。 いい年をして恥ずかしい…。 あわてて、研究室の中で土瓶を探し廻り、階段を下りて、事務室の前にある炊事場で、お湯をもらい、研究室に立ち戻って、お茶を入れた。
「まぁ、そんなことまでしていただいて」 と須磨子が言った。
抱月は、須磨子に椅子をさし出す。 そして、テーブルにお茶を置く。
「わたしにも、若い頃がありましてね。島根縣の西の方に浜田という町がありましてね。その町にあった裁判所で働いていたんです。お昼どきになると、検事さんのところにお茶を持って行ったものですよ」 須磨子は、信じられないとでも言うように、手を上げ、首を横に振っている。
(なんて、おおげさなしぐさなんだ。でも、ほんとうにかわいい人だ) 抱月は、頬を少し染めている。
須磨子の顔がまともに見られない。 あまりに近すぎる。 胸がどきどきしている。
何かに気持ちを逸らそうとしている。 そうなのだ、あの頃、裁判所の給仕をしながら夜学に通っていた。英語は本当に独学だった。テキストの英文をノートに書き写し、辞書を引きながら、その下に日本語の訳文を書いていったものだ。
「先生は、検事さんの息子さんではなかったんですか」 須磨子の声がした。 ビクッとしたように、昔の思い出を断ち切る。 そして、顔を上げた。 「はい、養子に入ったのです。わたしの父は事業に失敗したものですから。わたしが今こうしてあるのは、養父のおかげなのです。養父がみんなわたしの学資を出してくれたのです」 そう言いながら、抱月は悲しい想いをかみしめていた…。 (つづく)
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