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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第5回   須磨子が抱月の研究室に

 公演が終わり、抱月は、演出の仕事から解放され、日常生活にもどっていた。
 研究室に行き、講義録の手直しや、講義録に付け加えるべき、文献を読みあさっていた。しかし、ときめくものがない。読書に集中できなかった。

(自分に何ができるのか)
 何度も自分に問いかけていた。

 坪内(逍遙)先生を乗り越えられるような創作が自分にできるというのか。創作には、無から有を生む想像力がいる、その想像力は生まれついての才能によるところが大なのだ。

 そのような才能が自分にはあるのだろうか。

 父佐々山一平の顔、母チセの顔を思い浮かべる。両親の性向を振り返ってみるかぎりでは、自分に、創造的な才能というものがあるとは思えなかった。
 創作に生きる、所詮それは夢なのだ。この研究室で文献をあさり、論文を書き、講義に出かける、そのことで十分、生きていける、なぜ、それ以上のことを望む、才能のないものが…。

 抱月は、外に出て、本屋にでも行ってみようと思った。才能なき者は、せめて才能ある者の作品を読み、読みこなして良き批評を行うべきだ、そのような地味な仕事にこそ、田舎者のわたしには向いている。

 研究室の戸を引いた。薄暗い廊下に女が立っていた。面を下げているが、頭の感じから、ひどくやつれたような感じがして、一瞬、妻かと思った。が、女は須磨子だった。

(なぜ、こんなところへ?)
 抱月には、わからなかった。相談ごとでもあるのだろう、と思った。

「わたしは、これから、本屋に行くつもりなのですが。何かわたしに用でも?」
 相手は顔も上げず、返事もない。
 抱月としては、相手をいたわるしかなかった。
「ここでは何ですから、外に出て、お茶でもどうですか?」
 女がわずかに、頭を縦に振ったようなので、抱月は返事をしっかりと確かめもせず、先に立って歩いた。

(何としたものであろうか)
 目の前の風景が揺れている。
(わざわざ研究室にまでやってくるなど、ただごとではない…)
 そう思うと、気が滅入りつつも、胸騒ぎがした。
 しかし、よほど何か困ったことがあって、相談に来たのだろうと思い直し、滅入りそうな気持ちは、奮い立たせるようにした。

 昼間、コーヒーを飲ませる店を知っていた。そのカフェに入り、抱月は、妙に快活に振る舞った。
「みんな、よくやってくれました。もちろん、あなたもね、今度の公演では」

 須磨子は、コーヒーの香りにつられて、顔を上げた。抱月の顔が目の前にあった。明るかった。まるで青年のような笑顔があって、心が晴れていくような気がした。
 須磨子は、抱月の口から出る言葉を心地よく聞いていた。
 若い人たちの演劇の指導で、激すると、抱月はときどき、田舎風な、方言っぽい言葉を吐いた。しかし、自分には、いつも標準語で丁寧だった。それは、今こうしているときも変わらない。それが抱月の自分への好意のように思われて、須磨子の心は少しずつ、暖かくなっていった。

 抱月の言葉が途切れたとき、ふと、須磨子が、
「公演が終わって、何か、気が抜けたようで、退屈になってしまって…」
と漏らした。

「……」
 抱月はだまってしまった。

 須磨子は、抱月の顔をみた。抱月は視線を落としている。その俯いた顔をじっと見ていると、だんだんに苦しそうなそれに変わっていくように思えた。
(何か、わるいことを言ったのかしら)
 そう思ったが、何も言えなくて、須磨子は黙っていた。

「君もそうなのか…」
 須磨子はびくっとした。怖い声色だった。目を見た。するどくて、ちょっと獣のような目だと思った。

 抱月は須磨子から目をそらし、宙を見た。
「オレには、才能がない」

 須磨子は「オレ」と言った抱月の言葉に驚いた。
 「オレ」という言葉は、抱月が自分をさげすんでいるように感じられて、須磨子は嫌だった。しかし、反論する勇気がない。

「所詮、書を読み、書を批判するだけだ、先生のようにはいかない」
 抱月の声は曇っていた。

(先生って、誰のことだろう)と思いながら、須磨子は、
「でも、先生は、翻訳の仕事もなさっているじゃありませんか」
と言った。

「あれは、人の書いたものをなぞっているに過ぎません」
 抱月はすねたような顔をした。

 思わず、須磨子は笑った。
(たしか、先生って、もう四十のはず、なのに、まるで、悪餓鬼みたいな顔をなさって…)
 そう思って、顔を覗き込んだ。抱月の顔が膠着したように固くなり、見ると肩先がふるえている。

 抱月は、間近に迫った須磨子の顔をよけようと、身をうしろに引こうとするのだが、ままならなかった。須磨子の化粧の匂いがし、頭の中が真っ白になっている。目は須磨子の方に向けているのだが、その視線も定まらない。胸の鼓動だけは感じられ、そこには苦しいけれども、何とも言えぬ胸をうずかせるようなものがあって、頭の隅では、このときが続いてくれればいいのに、とも思っている。

 我に返って、抱月は、背中を椅子の背にあずけた。ひどく肩が凝ったような気がして、手を肩に置きたかった。
 
 須磨子は、自分の笑いが抱月に何かショックを与えたのかと心配になった。目を上げると、抱月は、しかし、穏やかな目つきをして、自分の方を見ていた。

 須磨子は、少し恥ずかしい気がしつつも、抱月を勇気づけたいと思って、
「そのうち、先生にも、自分の戯曲というものが、お書きになることができますわ」
と言った。

「えっ?」
 抱月が大きな声を上げた。
 見ると、抱月が頬を赤らめている。

「いや、わたしには、とても、そのような才能は…」
 抱月の、赤く染まった頬、視線を落とした眉毛は、まるで少年のようにあどけなく、須磨子は、いとおしさを感じた。

 抱月は通りに出ると、須磨子を送っていた。須磨子のうちへの道筋は、頭の中に入っていた。
 須磨子はなぜ、わたしの研究室に来て、しかも、わたしの後を付いてくるのだろうと思った。
 ひょっとしたら、須磨子はわたしに好意を持ってくれているのではないだろうかと思った。
 それは抱月の心を有頂天にした。
 足取りすら軽い。抱月は後ろを振り向いた。須磨子がいた。その顔、その姿を愛しいと思った。立ちつくし、須磨子が近くまで歩み寄ったとき、
「ボクにも書けるかもしれないね、あるいは、………、キミさえ、いてくれれば」
 須磨子は抱月を見ていた。
 抱月の顔からは、陽の光にも負けぬくらい、熱くて明るい光が輝き出ているように思えた。

(きみって、誰のことかしら?)
 そう思いながらも、須磨子の胸は、徐々に熱くなって来る…。

 歩きつつ、ふたりは言葉をかわさなかった。
 いつの間にか、須磨子の下宿先に、たどり着いていた。
 抱月が振り向いた。
「また、逢おうね」
 少年のような声だった。須磨子は自然にうなずいていた。
 『じゃ、またね』とでも言いたげに、抱月は、手を目のあたりにまで上げ、その手を小さく振りながら、須磨子の横をすり抜けていった…。
                                  (つづく)


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