抱月は、かすかながらも、今、自分が、この若い女を口説いているのだと気付いていた。 『妻を捨てる、そして君と一緒になって、君を幸せにしてみせる』 そんな芝居じみた台詞が頭をかすめている。
抱月は勇気を振り絞っている。 深呼吸をした。 そして、須磨子のそばに、にじり寄っていた。 「自信はない、自信はないのですが、新劇に賭けてみたいのです。わたしに、付いてきてくれませんか」 女は黙っていた。 伏せた顔を上げようともしない。
男がすぐそばまで近寄っているのだ。しかし、女は逃げようとはしていない、抱月は、そう思って、さらに勇気を奮って、須磨子の肩に手を置いた。 須磨子は抱月の方を見ていなかった。 拒否されているのか、受け入れられているのか、抱月にはわからなかった。
抱月は、女の肩に手を置いたまま、目を瞑ってしまった。 妻の顔が浮かび、義父の顔が浮かんだ。彼らの顔が悲しそうにゆがんでいる。怯えが走った。 目を開けた。 が、妻や義父への恩義が重くのしかかってきて、目の前がかすむ。しかし、抱月の鼻孔には否応なく、若い女のかぐわしい匂いが入ってきた。
かすかに、頭の隅に父親の顔が浮かんできた。
『滝太郎、おまえも仕様のない奴じゃのぉ。しかし、おまえの人生なのだ、おまえが演劇に命を捧げたいというなら、それも止むを得まい』 と、父が語りかけているように思えた。
父親の許しを得たのが、抱月に多少の勇気を与えたのかもしれない。女の許しは得られなかったが、抱月は女の肩に置いた手に力を込め、己の首をかすかに傾けながら、女のくちびるに、自分の唇を重ね合わせていった。
女は後ろに身を引こうとはしなかった。しかし、素直に受け入れているとも思えなかった。けれども、抱月の頭の中では、すでに道行きの筋書きがはじまっていた。
抱月は、唇を当てながら、 『付いて来て欲しい』 そういう、祈るような気持ちを心の内で、女に打ち明けていた。
女は身じろぎもしない。 しかし、男とすれば、みそぎをしておかねば旅立つことができぬ。
抱月は、覚悟をした。 そして、女を、ひしとわが胸に抱いた…。
抱月は、東京に向かう汽車の中にいた。 そばには、須磨子がいた。自分の肩に顔をつけて眠っている。 昨夜、須磨子に自分の愛を告げた。そして須磨子を抱いた。もうその時から自制がきかなくなっていた。 涙ながらに須磨子に詫びを言い、しかし、意を決するように須磨子の躰の中に入り込んで行ってしまったのだ…。
もう、後には戻れなくなっていた。 苦しくても、つらくても、須磨子と一緒に地獄への道を歩いていかねばならない。
行き着く先は地獄、それがわかっていながら、道を踏み外してしまったのだ。
地獄に着き、ふたりが地獄の釜にゆでられるに至ったときは、せめて、須磨子の躰を上に上げ、自分が踏み板になってやろう、と思った。
窓の外が明るくなる。白々と、夜が明けつつあった。
『ああ、やっと、夜が明けた』 抱月はそう思いながら、ほっとした。
(いいではないか、良い芝居が書けなくても、この女と一緒なら…) 抱月は、まなじりを決するように、思い定めていた。 戯曲家として、演出家として、たとえ成功しなくても、わたしは、この女と一緒に生きていくのだ、と。 (完)
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