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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第37回   歩きつかれて宿に入る抱月
 
 抱月は頭痛から逃れるため、あえて、一時、思考を停止しようと思った。
 目を瞑る。
 そして、深呼吸をしてみる。

 と、そのとき、そばから、とても、いい匂いがしてきた。悩ましかった。

(あの人がそばにやってきたのだ…)
 心がかきむしられた。

 抱月は、無心になろうとした。
 そばの須磨子を無視しようとした。

「どこか、歩きたいわ」
 須磨子の声がした。
 抱月は、目を開けた。

 歩くだけならいいのではないか、抱月はそう思った。

 須磨子と一緒にどこをどう歩いているのか、わからない。まるで夢遊病者のようだと、抱月はかすかに己を笑った。

 陽が傾いている。

 夕方の、東京行きの夜行列車はあるのだろうか、と抱月は考えている。

「わたし、ちょっと、疲れたわ」
 須磨子の甘えたような声がした。

 抱月は、腹立たしかった。
 が、歩き続けたせいか、自分もかなり、足腰がだるくなっていた。

 抱月は、目で、宿を探していた。

 宿についたとき、ほっとした。
 須磨子には、何も言わず、どんどん宿の中に入って行った。
 それほど、肉体的には疲れていた。

 抱月は、宿の湯につかっていた。
 頭のしこりはとれず、心もだるく、ため息ばかりをついている。
ため息が出て、息を飲み込むとき、ふと、口の中へ、湯が入り込んできた。胸は苦しかったが、頭のしびれを少し忘れた。

『ああ、このまま、湯の中で死んでしまったら、さぞ、楽であろうに』
と独り言のようにつぶやく。

 部屋に戻る。
 須磨子がいた。

(なぜ、ここに女がいるのだ。まぁいい。後で、寝るときになれば、もう、ひと部屋取ればいいことだ…)

 夕食もほとんど食欲がなかった。見ると、須磨子もほとんど、料理に箸をつけていなかった。少し視線を揚げると、須磨子の顔があり、その顔が青白かった。今は、この女をいたわるしかないのかと思う。妻を裏切ることになる、それはわかっている。しかし、今はこの女を捨てて、わたしがこの部屋を出ていくわけにも行かない。ましてや、この女に部屋を出て行けとも言えない。

 抱月は、女の前だが、頭を掻き毟りたかった。大声で叫びたかった。
 それほどに、おのれの優柔不断さが、はがゆく、そして、そのような自分が情けなくてしかたがなかった。
                                (つづく)


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