抱月は頭痛から逃れるため、あえて、一時、思考を停止しようと思った。 目を瞑る。 そして、深呼吸をしてみる。
と、そのとき、そばから、とても、いい匂いがしてきた。悩ましかった。
(あの人がそばにやってきたのだ…) 心がかきむしられた。
抱月は、無心になろうとした。 そばの須磨子を無視しようとした。
「どこか、歩きたいわ」 須磨子の声がした。 抱月は、目を開けた。
歩くだけならいいのではないか、抱月はそう思った。
須磨子と一緒にどこをどう歩いているのか、わからない。まるで夢遊病者のようだと、抱月はかすかに己を笑った。
陽が傾いている。
夕方の、東京行きの夜行列車はあるのだろうか、と抱月は考えている。
「わたし、ちょっと、疲れたわ」 須磨子の甘えたような声がした。
抱月は、腹立たしかった。 が、歩き続けたせいか、自分もかなり、足腰がだるくなっていた。
抱月は、目で、宿を探していた。
宿についたとき、ほっとした。 須磨子には、何も言わず、どんどん宿の中に入って行った。 それほど、肉体的には疲れていた。
抱月は、宿の湯につかっていた。 頭のしこりはとれず、心もだるく、ため息ばかりをついている。 ため息が出て、息を飲み込むとき、ふと、口の中へ、湯が入り込んできた。胸は苦しかったが、頭のしびれを少し忘れた。
『ああ、このまま、湯の中で死んでしまったら、さぞ、楽であろうに』 と独り言のようにつぶやく。
部屋に戻る。 須磨子がいた。
(なぜ、ここに女がいるのだ。まぁいい。後で、寝るときになれば、もう、ひと部屋取ればいいことだ…)
夕食もほとんど食欲がなかった。見ると、須磨子もほとんど、料理に箸をつけていなかった。少し視線を揚げると、須磨子の顔があり、その顔が青白かった。今は、この女をいたわるしかないのかと思う。妻を裏切ることになる、それはわかっている。しかし、今はこの女を捨てて、わたしがこの部屋を出ていくわけにも行かない。ましてや、この女に部屋を出て行けとも言えない。
抱月は、女の前だが、頭を掻き毟りたかった。大声で叫びたかった。 それほどに、おのれの優柔不断さが、はがゆく、そして、そのような自分が情けなくてしかたがなかった。 (つづく)
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