須磨子は、わが胸に、抱月の頭を抱え込んでいた。
『ごめんなさい。ごめんなさい』 と、抱月が、まるで子どものように、泣きながらあやまっているようなのだ。
『いいのよ、いいのよ』 須磨子は、そう言葉に出して言いたかったが、抱月の、子どものような純朴な心だけを抱きしめていたくて、ただ頷くだけだった。
抱月は、頭の中が朦朧としていて、痴呆のような状態になっていると思った。ただ、須磨子が抱いていてくれることへのお返しがしたくて、何か言葉をと思っていた。
「芝居が書けても、君には、一枚の着物も買ってあげられないよ。でも、今の僕が言えるのは、君がそばに居てくれたら、いいものとは言えないけど、きっと、芝居が書けそうな気がするんだ」 抱月の、ものの言い方は、何か子どものように感じられて、須磨子は内心、おかしかった。
しかし、須磨子は信じようとした、自分がこの人のそばにいたら、きっと、この人はお芝居を書いてくれる。そして、そのお芝居で、自分は何かを演じられる、きっと、そうなるわ、と。
須磨子は、手提げからハンカチを取り出し、それで抱月の、頬に伝わっている涙をぬぐってやった。
抱月は、その間、とても、おとなしかった。 そして、少年のような澄んだ目で自分をじっと見つめている。 そんな抱月を、須磨子は、好きだと思った。 が、須磨子は突然、ベンチから立ち上がって、鹿のいる方へと、歩み去って行き、その後姿をながめながら、抱月は、ちょっと不満そうな顔をした。 (もう少し、君のそばに居たかったのに…)
抱月は、鹿と戯れている須磨子を見つめながら、また、熱い涙を流していた。 『幸せにしてやりたい、この女を幸せにしてやりたい…。だが、そんなことができるだろうか?』 抱月は、再び流れ出した涙を、手の甲でぬぐっていた。 (つづく)
|
|