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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第35回   抱月をあやす須磨子

 須磨子は、わが胸に、抱月の頭を抱え込んでいた。

『ごめんなさい。ごめんなさい』
と、抱月が、まるで子どものように、泣きながらあやまっているようなのだ。

『いいのよ、いいのよ』
 須磨子は、そう言葉に出して言いたかったが、抱月の、子どものような純朴な心だけを抱きしめていたくて、ただ頷くだけだった。

 抱月は、頭の中が朦朧としていて、痴呆のような状態になっていると思った。ただ、須磨子が抱いていてくれることへのお返しがしたくて、何か言葉をと思っていた。

「芝居が書けても、君には、一枚の着物も買ってあげられないよ。でも、今の僕が言えるのは、君がそばに居てくれたら、いいものとは言えないけど、きっと、芝居が書けそうな気がするんだ」
 抱月の、ものの言い方は、何か子どものように感じられて、須磨子は内心、おかしかった。

 しかし、須磨子は信じようとした、自分がこの人のそばにいたら、きっと、この人はお芝居を書いてくれる。そして、そのお芝居で、自分は何かを演じられる、きっと、そうなるわ、と。

 須磨子は、手提げからハンカチを取り出し、それで抱月の、頬に伝わっている涙をぬぐってやった。

 抱月は、その間、とても、おとなしかった。
 そして、少年のような澄んだ目で自分をじっと見つめている。
 そんな抱月を、須磨子は、好きだと思った。
 が、須磨子は突然、ベンチから立ち上がって、鹿のいる方へと、歩み去って行き、その後姿をながめながら、抱月は、ちょっと不満そうな顔をした。
(もう少し、君のそばに居たかったのに…)

 抱月は、鹿と戯れている須磨子を見つめながら、また、熱い涙を流していた。
『幸せにしてやりたい、この女を幸せにしてやりたい…。だが、そんなことができるだろうか?』
 抱月は、再び流れ出した涙を、手の甲でぬぐっていた。
                              (つづく)


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