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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第34回   抱月をかき抱く須磨子

 抱月は、顔をやや赤くしながら、考え込んでいる。
 女の方から、先に『好きです』と言わせてしまった。
 悔いがあるが、それも仕方がない。

 好きでもどうしようもない、というようなことが、この世の中にはある。
 そういうことが、この女にはわからないのだ。
 しかし、この女に、どう答えたものであろう。

 抱月は、さらに考え込む。

 この女は、わたしのことを好きだと言った。どの程度のものかはわからない。
 しかし、女の身でそういうことを言うのは、勇気の要ることではないのか。とすれば、多少の返答はしなくてはならないのではなかろうか。

 女優としての才能をわたしは買っているのです、とでも答えておこうか、それとも、魅力のある女性だと思っていますよ、とまで言わなくてはいけないだろうか。

 が、抱月は思いがけなくも、自分の口から言葉が発せられるのを聞いていた。
「わたしには、人を好きになる資格がない」
 頭の中で考えたこととは、少し違う言葉が発せられていたのだ。
 むしろ、『わたしとて同じなのだが、そのようなことは世間が許してはくれないのです』とでも言おうと考えていたような気がする。

「じゃあ、わたしは……」
 須磨子の声がした。
 抱月は、即座に答える。
「君は、素敵な女性ですよ、そんなに自分を卑下することはない」

 抱月は、目に涙がにじんでくるのを感じた。なぜだ、なぜなのだと自分に問いかけている。

 須磨子は、間近にいる抱月の顔をしっかりと見た。

 抱月の目に、涙が滲んでいる。
 この人はわたしを好きなのだ、そう思った、そう思ったとき、体を浮かせ、ベンチからずり落ちるように、抱月の頭を胸に抱きかかえていた。

 抱月は、驚いた。
 しかし、女の柔らかなからだを感じていた。

 どうしたらいいのだろう、抱月は頭の中が真っ白になっていた。

 抱月は、深呼吸をしている。自分を落ち着かせようと躍起にはなっているのだ。

 しばらくして、抱月は、女にささやく。
「わたしは、あなたを幸せにはできませんよ」
「……」

「大学を辞めたら、何の収入もない、仕事を見つけても、妻への仕送りに消えてしまう、そんな風になってもいいんですか」
「……」

「仮に、芝居が書けても、その芝居をお客さんが見に来てくれるかどうか、わからないんですよ」
「……」

 須磨子は、抱月の問いかけには、何も答えなかった。
 しかし、須磨子には、抱月のすべての言葉が、自分への愛の告白だと感じられた。
                               (つづく)


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