抱月は振り向いた。 見ると、須磨子はまだベンチに座っていて、顔を伏せていた。 抱月が立ったまま、不審げに見ていると、須磨子の肩が震えているのがわかった。
どうしたのかと、抱月は須磨子に近寄り、膝を折って、須磨子の顔に近づいた。須磨子は泣いていた。 どうしようもない奴だ、と思ったが、かわいそうな気がして、尋ねている。 「何か、して欲しいことがあったら、言いなさい。できるだけのことはするから、泣かないで…」
と、うつむいている女から声がして、それが耳まで届いた。 「先生は卑怯です、自分から逃げていらっしゃる。先生は自分でお芝居を書き、その芝居を自分で演出したいと思っていらっしゃるくせに…」
顔は見えない。しかし、何という、傲慢なことを言う女だ、と抱月は思う。 わたしには、そんな芝居の脚本を書く才能などあるものか、それに多少、その才能があったにしろ、その芝居が売れるかどうか、わかりもしない。しかし、抱月は、冷静さを保ちながら、答えていた。 「わたしには、せいぜい翻訳ができるだけのことですよ」
「でも、先生のお鞄には、外国の本は入っていませんでしたわ、万年筆と原稿用紙だけでしたわ」 女が顔を上げた。睫毛が濡れている。 (やはり、泣いていたのか) 抱月は、胸をつかれた。
がしかし、『見たのか、この女、わたしの鞄の中までも』と、抱月は一瞬、頭の中の思考の歯車が止まったような気がした。
気を取り直して、抱月は言った。 「いや、あれは、書けないくせに、何かを持ち歩く癖があるだけなんです」 「でも、先生は、小説を書いておられるじゃありませんか」 女は濡れた目をしながらも、しっかりとしゃべっている。 抱月は、内心、女の芯の強さに感心していた。
抱月は、一方では、心の中で、ギクリとしたものも感じている。
小説を書いているということは、大学の関係者や文芸協会の者にも言っていないことだ、知っているのは坪内先生のみなのだ。この女が、なぜ、そんなことを知っているのだ。いや、知られても構わないが、あれは稚拙なもので、何の価値もないものだ、書いてはいるが、書いているだけのものなのだ。
「時には、変わったこともしたくなってね、ほんの手慰み程度のものだから」 抱月は恥ずかしそうに答えていた。 「わたしは、先生のお書きになったお芝居で女優の役をやりたいだけですわ」 そうか、そうなのか、抱月は、顔が一瞬、晴れていく。脚本家、演出家と、女優の関係でよいのか、この女はそれだけを求めているのか、それならそれで、耐えられるかもしれない。
「少し、時間をくれないか、やはり、新しい芝居を書くとなると、それなりに、熟成させていく時間というものが必要だからね」 抱月は中腰になっている自分に気づき、立ち上がろうとした。確かに、中腰だと、何だか、足もだるくなってきたような気がする。早く、腰を伸ばしたい。 しかし、自分の肩に女の手があるのがわかった。右手を伸ばして、それを払おうとした。しかし、女の手が肩からなかなか離れないのだ。 抱月は右手に力を入れる、顔が真っ赤になる。はずしてもらうよう、懇願するように、女の目を見た。その目がきれいだ、きれいすぎる。涙が女の瞳を美しくしているのだろうか。 が、抱月には言葉が出ない。そして、女が何かを求めているように思えて、胸がドキドキする。目を落としながら、時間が過ぎるのをじっと待っている。この女に好きだなどと言えば、地獄に落ちてしまうし、この女を不幸にするだろう…。
「先生は、わたしのことをどう思っていらっしゃるの?」 抱月は、顔を上げた。まっすぐに見つめられている。胸が痛い。 好きだが、そう答えられるはずもない。抱月は、再びうつむいていた。 「わたしは、先生が好きです」 抱月はハッとした。胸が熱くなる。うつむきながら、抱月は、目に涙をにじませていた。 (つづく)
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