抱月は奈良の駅に降り立っても、体がふわふわと浮き上がって、まるで地面から五寸も上でも歩いているように感じられた。
奈良の公園に着いていた。 ベンチに二人で腰をかけている。
抱月は、そっと横を見る。 須磨子は楽しそうな顔をしていた。
駅からここまで来る途中、ある程度、自分は須磨子の言いなりになり、優しくしてきた。もう須磨子に本当のことを言ってもいいだろうと抱月は思った。
座っていると、風があって、熱っぽい頬にあたって、心地良い。 抱月はフーッと、ため息をつく。横に須磨子がいることを目の端で確かめてから、抱月は、語りかけていた、須磨子に。 「わたしは、大学を辞めたくない。妻を裏切りたくもない。あとは、良い翻訳劇の脚本を仕上げ、坪内先生にも頼んで演出をさせてもらおうと思う。そのときは、君も女優として、是非、手伝って欲しい」 抱月は、横目を使って、須磨子が頷いてくれるのを待っている。 が、須磨子は首を縦に振る仕草を示さない。 しかも、じっと沈黙を守っている。
抱月にすれば、精一杯、優しく言ったつもりだった。 しかし、須磨子の沈黙に、抱月は耐えられなかった。 それで、さらに抱月は、横に座っている須磨子をしっかり意識して、言葉を継ぐ。 「君はまだ若いし、これから未来が大きく広がっている。それをつぶすようなことはしないで欲しい。わたしには、友人や知り合いがいる。きっと、君が女優としての仕事があるように、お世話をさせてもらうから…」
そう言うと、抱月は口をつぐんだ。 『だから今日のところは、おとなしく、東京に帰って欲しい』と抱月は言いたかった。 しかし、賢い須磨子のことだ、そこまで言わなくても、わかるだろうと思った。
抱月は、目を瞑った。 須磨子の返事を待つ。 が、沈黙は続く。
わかってくれる、須磨子ならわかってくれる、きっと、と思い、抱月はベンチを立ち上がった。 と、正面の少し先に、鹿が歩いていた。で、その鹿を見ながら、須磨子に言った。 「ねぇ、鹿にえさでもやってみないか?」 (つづく)
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