抱月は、いつ、どうして宿を出発したのか、わからなかった。 考えごとをしていたせいだろう。 そして、たぶん、それは、須磨子を不幸にしないようにするには、どうすればいいのだろうと考えていたのだろう。
気がつくと、須磨子が大阪駅で、奈良までの汽車の切符を買ってくれている。 が、考え事から冷めたばかりの抱月は、頭の中がぼんやりとしていて、それを止めることもできない。 いや、自分には、さほどお金がないからかもしれない。 いや、須磨子の前でひどく緊張しており、自分の思うような行動が取れないのかもしれない。
すでに、奈良行きの汽車はホームに入っていた。須磨子が汽車に乗り込んでいく。抱月もそれに続いている。が、ゆっくりと。 見ると、須磨子は足早に進んでいて、席を取っているらしい。
抱月は、須磨子の隣りに遠慮がちに座る。 と、席につくや否や、須磨子は人目も気にせず、自分に寄り添ってくるではないか。 抱月は、上気して赤くなった頬を消すこともできず、身を固くしながら、車窓の外を見ている。
このままではいけない、何とかしなくては、このまま行けば、地獄に落ちる。が、そうは思いながらも、心は浮遊していて、何か夢の世界に遊んでいるように感じられた。 須磨子に片腕を取られ、身を寄せられていると、須磨子の柔らかい体が感じられ、その上、須磨子の匂いがしてきて、胸の中にうずきが生まれ、それが徐々に広がって行き、この身さえ、溶けていきそうな気持ちになる。
抱月は目を瞑った。 (どうしたらいいんだろう)
目をしっかりと閉じているにもかかわらず、熱い目が滲んで来る。
(この人を幸せにしたい、そういう気持ちは持っているんだ…。でも、僕には無理だ…。僕には妻子がいる…) (つづく)
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