須磨子は起き出していた。 よく寝たような気がした。 顔を洗っていると、おなかが鳴った。そういえば、夕べは食べたようで食べていないような気がした。階段を下りて、一人分だけ朝食を注文した。もうひとつ頼むと、それが冷えてしまいそうな気がした。
抱月は目覚めた。見ると、須磨子がいた。なぜ須磨子がここにいるのか、そして、自分がなぜ須磨子と同じ部屋にいるのかわからないまま、起き上がった。
須磨子は、こちらを見ない。一生懸命、ご飯を食べているようだ。 抱月は、苦笑した。 (この人は元気なものだ、こんな時に食欲があるとは…)
「あら、起きてらっしゃったの」 「ああ」 「顔でも洗ってらっしゃったら、夕べはお風呂にも入っていらっしゃらないでしょ」 「そうだったかな」 抱月は、気だるさを感じながら、洗面台に向かった。顔を洗うと、ザリザリとした肌ざわりがして、髭が伸びているのがわかった。
「帳場で、かみそりを借りて来るよ」 抱月は、誰に言うともなく、そう言った。
「それじゃ、朝食も頼んで来てね」 これでも自分は、一応、あの人の師匠なんだから、ふたつ、一緒に頼んでおいてくれてもよかったのに、と不服に思いながら、抱月は、下に降りて行った。
髭を剃った。 ちょうど、仲居の人が部屋に朝食を運んでくれていた。 食膳の前に座る。 食べるしかないと思う。
が、何とも、そばで須磨子に見られながら、食事をしているのが、面はゆい。 飯も喉に通らない。 この人、どこか、散歩にでも出て行ってくれないかな、と抱月は思う。
「あっ、その焼いたおさかな、おいしいでしょう?」 須磨子の声が耳に入る。 やかましいと思うが、放っておいた。
何か、しゃべってやらなくてはと思う。 でも、何を話していいか、わからない。 しかし、この人は妹みたいなものなのだ。妹なら、いつまでも突き放しておくわけにもいくまい。 抱月は、おなかに力を込めて、言った。 「今日は、奈良に行くんだ、よかったら、一緒に行かないか。俺から君に話したいこともあるし…」
須磨子は笑った。 抱月が「俺」と言ったのが、似合わないと思った。それに、抱月がいかにも、偉そうに突っ張っていて、その様子がおかしかった。 (確か、この人、夕べ、子どもみたいに泣いてなかったかなぁ) と、須磨子は、ぼんやりと考えていた。 須磨子がくすくすと、笑ってばかりいるので、抱月は言った。 「嫌なら、とにかく、大阪の駅まで、送っていくよ」
「誰も、いやだなんて、言っていませんよ」 須磨子に、にらまれた。その顔がかわいくて、抱月は、胸にうずくものを感じている。黙った。
この人は、わたしをきらっていない、そんな確信が、抱月の心を浮き立たせている。 でも、そんな心を須磨子に知られたくない。うつむきながら、うれしさを、じっと噛みしめている。 しかし、しばらくすると、昨夜の悲しみや苦しみが、よみがえり、俺はどうしたらいいのだろうと、頭を抱えたい気持ちになるのだった…。 (つづく)
|
|