須磨子は疲れが出て、目をつむっていた。
(この人は、ぐだぐだと、くだらないことを言っているが、何かがやれる人だわ。戯曲が書けなくても、語学ができるから翻訳ものならできる、演出だって、できたわ。それに、文芸協会の若い団員だって、あの人には付いてきた。結構、苦労人で、気を使う方だから、みんなも、ついてきてくれるわ。わたしは、この人についていけば、女優の仕事にはありつける。この人に、わたしの芝居を見てもらいたいのだわ)
須磨子は、自問自答を繰り返していた。
(この人は芝居が好き、わたしも好き、だから、一緒にやるんだわ。この人はわたしを見捨てたりはしない、だって、芝居が好きで、それにちょっぴりは、わたしのことを好きなんだもの…) そう思って、須磨子は安心した。
抱月は、目の前の人間が、大人しくなったので、不審に思い、須磨子の方を見た。何と、須磨子は、スヤスヤと眠っているではないか。『あきれた奴だ』と、抱月はあんぐりと口を開け、目を大きく見開いていた。
(この大事なときに、何という奴だ。僕が真剣に訴えているというのに…) 抱月は、しかし、思い直した。 (この人は、疲れているのだ、昨日は夜行の汽車で揺られて来たのだもの…) 抱月は、押入れから、敷き蒲団を出し、それを畳の上に敷いた。須磨子を胸に抱えて、敷布団の上に寝かせ、上から掛け布団をかけてやった。 抱月が、そばから立ち去ろうとしたとき、何かに引っかかって立ち上がれない自分に気づく。
『どうしたんだろう?』 が、抱月はすぐに、自分の手がにぎられているのに気がついた、掛け布団から、白い腕が伸び出ているのだ…。 見ると、寝ていると思っていた須磨子が、目を開けてこちらをじっと見ているのだ。抱月は、照れ隠しに微笑みかけている。 (なんだ、起きていたのか。だったら、抱いたのはまずかったかな?)
抱月は、手をにぎられて、内心は困惑しているのだが…。でも、落ち着いて、須磨子に告げた。 「わたしは、そばにいるから」
須磨子は安心したように、こっくりと、頷いた。そして、目を閉じた。
抱月は、年下の妹を見るように、須磨子の寝顔を見ていた。 幸せにできるはずもないのに、なんて馬鹿な女だと思った。実際、自分には何もないのだ、あるとすれば、演劇への情熱だけだ。しかし、情熱だけで、飯が食っていけるわけでもないのだ。 この人を女として扱えば、妻は悲しむであろう。子どもたちは何と思うだろうか。それに坪内先生を裏切ることになる。早稲田にも居づらくなるだろう。早稲田を辞めれば、どこか専門学校の教師の口を探さねばならぬが、わたしのような不倫男を雇ってくれるようなところがあるだろうか、ありはしない。日雇いでもしながら、戯曲を書くしかあるまい、しかも、売れる当てもない戯曲をだ。
抱月は、とりとめもなく未来のことを考えながら、いつの間にか、畳の上に、伏せていた。
須磨子は目覚めた。体をよじると、抱月の背中が見えた。うれしかった。 この人は、このままそっとしておいて、もう少し寝かせてあげようと思った。起き上がって、抱月の肩口に、蒲団をそっと掛ける。 (つづく)
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