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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第28回   少年から青年になってく抱月
 
 少年の顔が再びゆがんでいる。
 少年は耐えていた。さなぎから蝶になるように。少年は薄暗い客席に立っていた。しかし、ライトを浴びた舞台が見える。少年はそこに向かって歩いていった。数段ばかりの踏み台をあがって舞台の上に立った。客席は見えない。少年は体が徐々に浮遊をしていくような気がした。少年が一歩足を踏み出したとき、今度は心身とも青年へと変身していた。そして、青年が舞台にすっくと立ち、セリフを言い放った。
「何の、体験などいるものか。想像力と、その想像を表現する力さえあれば…」

 須磨子は不思議そうに抱月を見ていた。抱月の姿がひどく若々しく見えたのだ。

「わたしには、才能がない、しかし、わたしは挑戦してみたいのだ」
 抱月の声が、抱月でないように須磨子には思えた。しかも、物言いが、芝居がかっていると思った。
 そして、抱月が自分のことを指して『才能がない』というのは、嘘だと須磨子は思った。
 普通の人間なら、洗面具や着替えを鞄に入れて旅に出る、しかし、この人は万年筆と原稿用紙だけを持って出かけたではないか。これは、普通ではない。この尋常ではないところが、才能のある人間であることの証ではないのか、と思った。

「才能もないくせに、僕は、あがいている。そんな男など当てにせず、君は大きく飛躍して欲しい。もし、これからも君が演劇をやりたいのなら、いくらでもよい人を紹介してあげよう」
 抱月は、小山内薫の顔を思い浮かべていた。

 須磨子は抱月の顔を、やや口を開けつつ見ていた。
 この人は、何をくだらないことを言っているのだろうと思った。
 わたしは確かに演劇はやりたい、でも、この人のそばでやりたいのだ、演劇か、この人か、どちらかを選べと言われても、それは無理なことだ、このふたつが一遍に叶わなければ意味がない、と須磨子は思っている。

「わたしは、先生とお芝居がやりたいんです」
 須磨子がきっぱりと言った。

 須磨子の勢いのある言葉に、抱月は、ちょっと躊躇した。しかし、胸をそらすようにして、須磨子に言った。
「なぜ?」

「なぜって、先生には、お芝居の才能があるから」
「ない、と言ったはずだよ、わたしは…」
 抱月が言葉を荒げているのが須磨子にはわかった。
 眉が釣り上がっている。
 それに、険しい目つきでこちらをにらんでいるのだ。

 抱月の剣幕に負けぬよう、須磨子は言い返した。
「そんなに、ご自分を卑下なさるものではありませんわ。それに、先生は、心の底からそうだとは思っていらっしゃらないと思いますわ」
 
 抱月は、須磨子の言葉を反芻している。
(そうなのだろうか?。そうではない。そんなことが、なぜこの女にわかる?。この女は女優なのだ、脚本のことなどわかるはずもないではないか。脚本を書くには一定の才能がいるのだ。例えば、脚本家は心の内に、多様な人物を生かさなくてはならぬ。そして、それぞれの人物に、それぞれの性格に応じたセリフを述べさせなくてはならぬ…)
                                (つづく)


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