少年の顔が再びゆがんでいる。 少年は耐えていた。さなぎから蝶になるように。少年は薄暗い客席に立っていた。しかし、ライトを浴びた舞台が見える。少年はそこに向かって歩いていった。数段ばかりの踏み台をあがって舞台の上に立った。客席は見えない。少年は体が徐々に浮遊をしていくような気がした。少年が一歩足を踏み出したとき、今度は心身とも青年へと変身していた。そして、青年が舞台にすっくと立ち、セリフを言い放った。 「何の、体験などいるものか。想像力と、その想像を表現する力さえあれば…」
須磨子は不思議そうに抱月を見ていた。抱月の姿がひどく若々しく見えたのだ。
「わたしには、才能がない、しかし、わたしは挑戦してみたいのだ」 抱月の声が、抱月でないように須磨子には思えた。しかも、物言いが、芝居がかっていると思った。 そして、抱月が自分のことを指して『才能がない』というのは、嘘だと須磨子は思った。 普通の人間なら、洗面具や着替えを鞄に入れて旅に出る、しかし、この人は万年筆と原稿用紙だけを持って出かけたではないか。これは、普通ではない。この尋常ではないところが、才能のある人間であることの証ではないのか、と思った。
「才能もないくせに、僕は、あがいている。そんな男など当てにせず、君は大きく飛躍して欲しい。もし、これからも君が演劇をやりたいのなら、いくらでもよい人を紹介してあげよう」 抱月は、小山内薫の顔を思い浮かべていた。
須磨子は抱月の顔を、やや口を開けつつ見ていた。 この人は、何をくだらないことを言っているのだろうと思った。 わたしは確かに演劇はやりたい、でも、この人のそばでやりたいのだ、演劇か、この人か、どちらかを選べと言われても、それは無理なことだ、このふたつが一遍に叶わなければ意味がない、と須磨子は思っている。
「わたしは、先生とお芝居がやりたいんです」 須磨子がきっぱりと言った。
須磨子の勢いのある言葉に、抱月は、ちょっと躊躇した。しかし、胸をそらすようにして、須磨子に言った。 「なぜ?」
「なぜって、先生には、お芝居の才能があるから」 「ない、と言ったはずだよ、わたしは…」 抱月が言葉を荒げているのが須磨子にはわかった。 眉が釣り上がっている。 それに、険しい目つきでこちらをにらんでいるのだ。
抱月の剣幕に負けぬよう、須磨子は言い返した。 「そんなに、ご自分を卑下なさるものではありませんわ。それに、先生は、心の底からそうだとは思っていらっしゃらないと思いますわ」 抱月は、須磨子の言葉を反芻している。 (そうなのだろうか?。そうではない。そんなことが、なぜこの女にわかる?。この女は女優なのだ、脚本のことなどわかるはずもないではないか。脚本を書くには一定の才能がいるのだ。例えば、脚本家は心の内に、多様な人物を生かさなくてはならぬ。そして、それぞれの人物に、それぞれの性格に応じたセリフを述べさせなくてはならぬ…) (つづく)
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