泣いた、抱月は。 好きな女を目の前にしていながら。
抱月は、情けない、だらしないと思っている。しかし、泣いた。涙が止まらなかった。かすかに須磨子の匂いを感じている。 須磨子は、こんな自分を、しかし、抱きとめてくれている。
須磨子の優しさに抱月は、言葉で応えようとしていた。 「すまない、こんな僕で。僕には、何もない。でも、好きだよ、でも、それだけで許してください、お願いです」
須磨子は、あまり抱月がかわいいので、ゆるしてあげようと思った。しかし、この子どもを励ましてやるのも、母親の務めだと思った。 「あなたには、才能があるわ、努力よ、努力すれば、きっといいお芝居が書けるわ」
抱月は、自分が須磨子に甘えているのではないかと思った。早く、須磨子の胸から離れるべきだと思った。しかし、離れられない自分もいた。 「いや、書けない。他人(ひと)様の書いた物を翻訳するのが精一杯なんだ」
「いいえ、あなたは、たくさんの本を読んでいるのだもの、きっと、その中からあなたの作品が生まれるわ」 抱月は、身を起こした。 須磨子の声に元気があった。少し感動したのだ。 しかし、涙はまだ止まらない。
かすむ目で女を見た。愛しい女だった。 泣くのを止めなくては、と思った。にもかかわらず、次々に涙が目からあふれ出た。もはや、恥ずかしさにひるむときではなかった。目に涙を溜ながら言った。 「それは違う、読むことと書くことはちがうんだ、書くことには才能がいる」 抱月は、必死で、涙のあふれた目では、よくは見えないが、目の前の、愛しい人に訴えている。
須磨子は、目に涙を溜めた男を見ていた。が、その顔には純朴さがあふれていた。ひょっとしたら、目の前にいるのは、小学生ではないか、と思った。 この子は、教師であるわたしに逆らっている、と須磨子は思った。許せなかった。 「作文はたくさん書いて、上手になるのよ、あなたは、いくらも、まだ、その練習をしていないでしょ」
少年は、少し、たじろいでいた。それがおかしくて、女教師は、少し、いたずらっぽく笑いながら言った。 「それに、作文には、いい体験が必要なのよ」
「体験?」 少年は、不思議そうな目をして小首をかしげた。そして、目の前の女教師をまぶしそうに見た。教師の目が輝いている。その光っている視線で見つめられ、少年は恥ずかしそうに、視線を落とした。
が、そのかしこそうな少年は、顔を伏せながらも、物を考えていた。 (そうか、実体験も必要なのかもしれない、たくさんの本を読み、たくさんの人に会って話を聞く、そうすれば、あるいは、自分にも何か、書けるかもしれない) 抱月は、少し体の中から、力がみなぎって来るように感じた。
須磨子は驚いていた。少年の目に輝きが出てきている。なぜ、何が、この子を導いているのかしら?。しかし、目の前の教え子が、わたしという教師を乗り越えようとしている。そんな気がして、少年の心に探りを入れていた。 「いい体験をしようっていう、勇気が、あなたにはあるのかしら?。その勇気もなかったら、おやめなさい。才能もない、勇気もない、そんなんだったら、作文でいい点を取ろうなんて、生意気なことは考えないことよ」 (つづく)
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