須磨子は苛立っていた。 演劇はやりたい、しかし、今はそんなことは望んでもいない、ただ、抱月の真意が知りたいだけなのだ。須磨子の目の中で、何かがはじけた。 「わたしは、先生が好きです」
抱月は呆然となった。わが耳を疑った。が、確かに、須磨子の声がしたような気がする。確かめるように須磨子の方を見る。部屋には須磨子しかいなかった。
馬鹿な、とは思うが、確かに、この目の前にいる須磨子の口から言葉が発せられたようだ。 頭が真っ白になる。しかし、その頭の中で、『何と俺は、女に言わせてしまった、情けない…』と考えている。
情けない、情けないと思いながら、そんな大事なことを女の口から言わせたということが、本当に申し訳なく、抱月は頭を下げている。
「ありがとう」 抱月は、うつむきながら答えた。 しかし、須磨子の好意に報いるには、その言葉だけでは少なすぎると思った。言葉をつむぎ出そうとしている。 「しかし、わたしには妻子がいる。わるいが、君の気持ちには応えられない、かんべんしてください」 抱月は、さらに深々と頭を下げた。 どうしたことだろうか、涙が出てきた。こんな中年で、妻子もあって、しかも才能もない男に、なんで愛される資格がある、そう思ったが、涙が止まらなかった。
須磨子は、抱月の言葉が途切れたので、不安になって、視線を抱月の方に向けた。頭は見えるが、顔が見えない、しかし泣いているような気がするので、なんで泣いているのだろうと、不思議に思え、椅子から立ち上がった。 恐ろしい気がした。抱月の顔が見えず、そこに、幼い子がいて、泣いているように思える。この子は、なぜ泣いているのかを尋ねてみたい気がして、近づいていく。
須磨子は膝をつき、両の手を伸ばし、泣いている子の頭を挟み、顔を上げさせた。 目に涙があふれていた。
抱月は、目を真っ赤にしながら、ゆがんだ顔をして言った。 「ごめんなさい、ゆるしてください…」 須磨子は感動していた。 胸がゆさぶられる。思わず、須磨子は、泣きじゃくる幼子を抱き抱える母親のように、抱月の頭を自分の胸の中に抱え込んでいた。 (つづく)
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