抱月は、自分の中から湧き上がろうとする男を、消し去ろうと努力していた。 男としてではなく、師匠として、共に演劇を志す仲間として、この須磨子を見ようとしていた。 じっと、こぶしをにぎりしめながら、突っ立って考えている。
が、この女は、いつもはしっかりとしているのに、なぜこんなにも今はなよなよとしているのだ。 涙を拭き、毅然としてくれればいいのに。
なぜこの女はこうも、わたしを苦しめるのだと、抱月にすれば、腹立たしい気もする。 女に涙はつきものだというではないか、泣きたいだけ泣かせてやろう、まあ、それまではここにいてやろう、ふてぶてしく、そう思いながら、抱月は大股に歩いて、女のそばをすり抜け、窓辺の椅子に行き、背を持たせかけた。
実際、わたしに才能さえあれば、須磨子を活かし、自分も活かせるのだが、と窓の外の遠くを見遣りながら思う。
賭けるか、しかし、賭けるほどの勇気が持てないのだ。仮におのれに脚本家としての、また、演出家としての才能があったとしても、若い女を不幸にし、そして妻を悲しませて、いいものだろうか。 それに、もし、今、劇団の、三田村とかいう若い男が須磨子のことを好きなら、彼は若いがゆえに、わたしなんかより、もっと苦しんでいるのかもしれない…。
須磨子は、手の甲で涙をぬぐいながら、ちらりと、窓辺に腰掛けている、抱月の方を見遣った。 抱月の横顔が、電燈の明かりが行き届かないのか、黒ずんでいるように見える。そして、何かを一生懸命考え、苦しんでいるように思えた。
(この人は、何かに苦しんでいる、ひょっとして、わたしのことで…) そう思って、須磨子はちょっぴりうれしかった。 しかし、一方では、その苦しみが自分への愛のためだけではないように思えるところもあって、腹立たしさを感じる。
(なぜ?。こんなにもわたしが悲しんでいるのに。この人は、わたしのことなんぞお構いもなしに何かに悩んでいる) この人は、きっと、奥様のことを考えているんだわ、そんなこと、ちっとも構わないのに。ただ勇気がないだけのことよと須磨子は思いながら、面を伏せ、涙の乾くのを待った。 (つづく)
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