抱月は、このたびの「人形の家」の公演に賭けていた。 がしかし、時々、頭を抱えた。 三男の真弓の、胸の具合が悪かったのだ。それが気になる。
(しかし、今は公演のことに集中しなければ…) 抱月は、心にムチを打っていた。
時々、須磨子は、稽古の途中で、抱月のそばにやってきた。 そして、声をかけてくる。 抱月にすれば、それは他愛もない質問だった。
(僕は、芝居全体のことを考えている。たったひとりの俳優にばかり気を取られるひまはないのだ…) それよりも、抱月にとっては、須磨子のにおいがするまで、須磨子が身を寄せてくるのが、苦しかった。
その胸の苦しさは、須磨子にはわかっていないのか…。 近頃は、時々、芝居の稽古に夢中になっている須磨子に、心を奪われているような気がする。 だから、須磨子がそばにいると、気もそぞろになり、須磨子の質問に対して、心の中で反芻していない、いいかげんな答えしか返せないことがあった。
「ここの台詞、何か、うわずってしまうんです」 抱月は、須磨子の紅いくちびるしか目に入らない。 抱月は、気づかれないよう、少し、息をした。 練習をすれば直せることだと思うのだ。しかし、抱月は苦し紛れに言った。
「自分はノラなのだ、そう何度も言い聞かせて、ノラの魂が自分の体の中に入ってくるまで気持ちを集中して、それからセリフを言ってみたらどうでしょう」 何と、通俗的な、そう抱月は思って、額に皺を寄せている。
「でも、どうしたら、ノラの気持ちになれるのでしょう」 須磨子の顔に、いい加減さは見られない。 抱月は、それで、もう一度、答えようと、もがいていた。 「あなたの演劇を見て下さるお客様が、そこに松井須磨子がいるっていうじゃなくて、そこにノラがいるって思わせる、そんな魔術師のような手管(てくだ)が、必要なのだと、僕は思いますよ」 「そんなこと、できるはず、ありませんわ」
なんという蓮っ葉な言葉だ。 これが逍遙先生の買っていた女優なのか。抱月は思わず激した。それに何とか、早く、この女を、自分のそばから遠ざけてしまいたかった。そうでなければ、自分はこの女を何とかしてしまうかもしれない…。
「あなたは、本を読まないのですか。恋する女が手練手管で男の心を惑わす、それと、どう違うというんです」 「わたしは無学な女ですから」 須磨子は、怒ったような顔をした。が、やっと立ち去ってくれた。抱月は、ほっとしている。 しかし、しばらくすると、自己嫌悪に陥る。 (いい年をして、女の色香に迷うなど…。しかも、わたしには妻子がいるというのに…) (つづく)
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