19 良き師匠になること
抱月は、須磨子の言葉を背に受け、ギクッとなった。 やや斜め方向にまで、振り向いた。 「ならば、別の宿を探すさ」
しっかりとは振り向けない。 だから、須磨子の顔をはっきりと見ることができた、というわけではない。しかし、抱月は、須磨子が怒っているように思えた。しかし、それも須磨子のためだと思い、抱月は目だけをきょろきょろさせながら、須磨子がいる場所以外の部屋のあちこちを見回していた。
抱月は、背中に須磨子の視線を感じつつも、やっと手提げかばんを見つけ、ちょこちょことぎこちない歩みで、そこに行き、かばんを拾い上げた。
「意気地なし」 須磨子の声がしたような気がした。 抱月は考えている。 確かに、あれは、須磨子の発した声にちがいない。
『意気地なし』 抱月は、須磨子の言った言葉を自分の心の中で反芻している。
すると、なぜか、怒りが込み上げてきた。 抱月は、怒りを抑え、できるだけ冷静になろうと思った。立ったまま、畳の目を見つめていた。
抱月は、須磨子の顔は見ずに、言葉を発した。 「世の中には、してよいことと、してはいけないことがあるんです」
抱月は、言い終えてから、視線を上げ、ゆっくりと、須磨子の方に顔を向けた。が、須磨子の顔をまともには見れない。しかし、そのまま、視点の定まらないような目をしながら、続けた。
「あなたは、わたしのことを意気地なしと言うが、あなたはどうなんですか。あなたは、自分の役が欲しくてここまでやってきたんじゃないんですか?」 「いけませんか」 須磨子の声はしっかりとしている。
抱月にすれば、言ってはいけないことを言ってしまったのではないかという悔いがある。 しかし、なぜ、そんな露骨なことを言われてもなお須磨子が気丈なままでいるのか、それが知りたくて、須磨子の目を見ようとするのだが、目は宙をさまよい、未だ焦点が合わない。
「いけなくはないかもしれないが。でも、あなたには女優としての才能がある。その才能を安っぽく売ってはいけない。もっと自分の才能に自信を持ち、それを大切にするべきだと、わたしは思う…」
「わたしには、才能なんてありませんわ。ただお芝居が好きで、それに先生と一緒にお芝居をやれたとしたら、これ以上のことはありませんわ」 須磨子は言い終えて、顔を伏せていた。
抱月は、須磨子の、さっきとは違った、しおらしい声に、心を奪われている。須磨子の方に視線を向ける。須磨子の姿を、少しは視覚に捉えることができるようになっている。
「そうか、君は芝居が好きなのか」 抱月は仲間を得たようでうれしかった。それに、須磨子のうなだれた姿に同情心が芽生え、自分のいる位置が、須磨子のよりは、少し優位なところに立ち戻ってきたような気がした。
抱月は言った。 「ぼくも、新劇がやりたい、もっとも、劇作家として、演出家として、僕に才能があるかどうかは疑わしいのだが…。でも、やはり、新劇は好きなんだ、僕は…」
(そうなのだ。わたしは師なのだ。須磨子は弟子なのだ。師と弟子の関係でなくてはならない) 抱月は、しきりに、須磨子にとって、良き師匠であらねばならない、と自らに言いきかせていた。 (つづく)
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