須磨子が戻ってきたようだった。 抱月は椅子から立ち上がった。 と、自分が見知らぬ女がいた。 『誰だ?。この人は部屋を間違えたのでは?』 抱月は頭を傾げた。 が、その人物に近づこうと、一歩を踏み出したとき、その人物が須磨子なのだと気がついた。
『この人は、こんな長い髪をしていたのか?』 不思議そうに立ちつくしたまま、須磨子を見ていた。
「風呂に入ってきちゃった。だって、昨日は、夜行だったんですもの」 何と言う甘えた声だろう。しかし、紛れもなくそれは須磨子のものだった。
夜行で来たのか、それでは揺れて眠れなかったろう、そんな同情心が芽生えて、抱月はたじろいでいた。
(そうか、この人は、そんなにまでして、ここにやって来たのか) 抱月は、ちょっと神妙な気分になる。踝を回し、再び窓辺の椅子に戻って、椅子の背に身をもたせかけ、目を瞑った。
「先生は、お入りにならないんですか」 須磨子の声が耳に届く。 『わたしは、いい。今、そんな気分になれるわけがないだろぉ。湯に浸かるなんて!』 そう叫びたかったが、声が出なかった。 夜行列車に乗ってまでやって来た須磨子がいじらしく思える。 そんな須磨子のことを思うと、胸に込み上げるものがある。 その上、須磨子の洗い髪の匂いが、抱月の心をかき乱している。
が、師弟という関係を保たねばならない。
勇気を持たねばと思って、抱月は、再び、椅子から立ち上がった。 須磨子の顔を見た。 にっこりと笑っていた。少女のような、かわいらしい笑顔だった。これではいかんと、弱気な自分を振り捨てるかのように、頭を左右に強く振った。
勇気を持て、と己に言った。 「おれは、別の部屋を取る。君はゆっくり休んだらいい」 抱月は、須磨子のいる方角に向かって、言葉を放つ。
「おれ?」 須磨子は、抱月の言葉を反芻していた。抱月には珍しい、蓮っ葉な物言いに須磨子は笑っていた。
抱月は、自分が何か変なことでも言ったのかと思い、小首を傾げながら、部屋を出て行こうとする。下の帳場に向かわねばならない。 『この際、どうしても、もうひとつ、部屋を用意してもらわねばならぬ』 そう抱月は決意したのだ。
が、その抱月の背中に、須磨子が言葉を投げつけている。 「さっき言っていましたよ、お帳場の方が…。お部屋はひとつしか空いてないって…」 (つづく)
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