20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第18回   情けない自分に苛立つ抱月

 須磨子が戻ってきたようだった。
 抱月は椅子から立ち上がった。
 と、自分が見知らぬ女がいた。
 
『誰だ?。この人は部屋を間違えたのでは?』
 抱月は頭を傾げた。
 が、その人物に近づこうと、一歩を踏み出したとき、その人物が須磨子なのだと気がついた。

『この人は、こんな長い髪をしていたのか?』
 不思議そうに立ちつくしたまま、須磨子を見ていた。

「風呂に入ってきちゃった。だって、昨日は、夜行だったんですもの」
 何と言う甘えた声だろう。しかし、紛れもなくそれは須磨子のものだった。

 夜行で来たのか、それでは揺れて眠れなかったろう、そんな同情心が芽生えて、抱月はたじろいでいた。

(そうか、この人は、そんなにまでして、ここにやって来たのか)
 抱月は、ちょっと神妙な気分になる。踝を回し、再び窓辺の椅子に戻って、椅子の背に身をもたせかけ、目を瞑った。

「先生は、お入りにならないんですか」
 須磨子の声が耳に届く。
『わたしは、いい。今、そんな気分になれるわけがないだろぉ。湯に浸かるなんて!』
 そう叫びたかったが、声が出なかった。
                              
 夜行列車に乗ってまでやって来た須磨子がいじらしく思える。
 そんな須磨子のことを思うと、胸に込み上げるものがある。
 その上、須磨子の洗い髪の匂いが、抱月の心をかき乱している。

 が、師弟という関係を保たねばならない。

 勇気を持たねばと思って、抱月は、再び、椅子から立ち上がった。
 須磨子の顔を見た。
 にっこりと笑っていた。少女のような、かわいらしい笑顔だった。これではいかんと、弱気な自分を振り捨てるかのように、頭を左右に強く振った。

 勇気を持て、と己に言った。
「おれは、別の部屋を取る。君はゆっくり休んだらいい」
 抱月は、須磨子のいる方角に向かって、言葉を放つ。

「おれ?」
 須磨子は、抱月の言葉を反芻していた。抱月には珍しい、蓮っ葉な物言いに須磨子は笑っていた。

 抱月は、自分が何か変なことでも言ったのかと思い、小首を傾げながら、部屋を出て行こうとする。下の帳場に向かわねばならない。
『この際、どうしても、もうひとつ、部屋を用意してもらわねばならぬ』
 そう抱月は決意したのだ。

 が、その抱月の背中に、須磨子が言葉を投げつけている。
「さっき言っていましたよ、お帳場の方が…。お部屋はひとつしか空いてないって…」
                                 (つづく)


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 7579