須磨子は、おかしくて笑っている。 目の前で、大(だい)のおとなが泣いているのだ。 見たこともない、聞いたこともない。 まるで、子どものようだと思った。
(わたし、こんな情けない男のことを好きに…)
宿の人がこちらを不思議そうに見ている、須磨子は恥ずかしかった。 早く、部屋に上がりたいと思った。
「泣くのは、部屋に上がってからにしてください」 抱月は須磨子の声を聞いた。
須磨子に立つよう、促されている。 恥ずかしい、泣き顔を見られるのは。 わたしは、年寄りなのだ。その年寄りが、これ以上恥ずかしがってもいられないのではないか。 須磨子に迷惑がかかる、そう思って、猫背になりながら、よたよたと、須磨子の肩も借りながら、抱月は、宿の階段を一段ずつ上って行く。
抱月は、這うように部屋に入った。そして、うずくまり、畳に顔をくっつけるようにして寝そべった。泣いた、恥ずかし気もなく泣いた。 抱月は、目の前で、何やらヒラヒラするものがあるのに気がついた。 須磨子が、宿の手ぬぐいを目の前にかざしているのだ。 見上げると、須磨子が、あきれたような顔をしているのに気がついて、抱月はドキッとした。 (須磨子さんに、あきれられている…) 抱月はあわてて起き上がり、窓側の廊下の隅にある洗面台に向かう。 蛇口をひねって顔を洗った。鏡を見た、目が赤くにごっていて、みくにいと思った。 洗面台に顔を伏せ、それでもその両端を両手でにじりしめながら、 (勇気を出さなくては) と思った。 深呼吸をして、部屋の中に戻る。 が、須磨子の姿がない。 拍子抜けがした。せっかく、追い返してやろうと思ったのに、くそっと舌打ちしたいような気持ちであった。 窓辺の椅子に座り、須磨子が戻るのを待つことにした。
『分別をわきまえないといけないよ』 『わたしは、大学にしがみついて生きるしか能のない男なんだよ、わたしに、演劇の才能があるなんて、幻想を抱いてはいけないよ』 抱月は、しきりに、須磨子を追い返すセリフを考えていた。 (つづく)
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