抱月は、須磨子に勧められるまま、洋風の椅子席ではなく、畳の敷いてある座敷に座った。 腰を落ち着けさせた。しかし、文楽の舞台は、ほとんど見ることはできなかった。義太夫の節回しのみが、かすかに耳に入る。 目をつむり、抱月は考えていた。 (どうしたらいいのだろう)
気がつくと、すでに幕が閉まっていた。 「おもしろかったわ。それに、とっても、ためになったわ」 女がそう言い、抱月は手を取られて、文楽座を出ていた。 明るい表情の女が、すぐそばにいた。抱月はその女をまぶしそうに見ている。
(なぜ、こんなきれいな、若い女が、わたしの前にいる?) 須磨子は抱月の腕を取っていた。
須磨子と腕を組みながら通りを歩いていて、抱月は恥ずかしく、顔を伏せていた。そして、しきりに、自分の年を考えている。 (もう、四十の坂を越しているのだ。須磨子は、一回り以上も年下なのだ) 抱月は今にも、消え入りそうな気持ちだった。
須磨子に連れられて、宿に入っていた。 抱月は、靴を脱ぎ、敷き台の上に上がったものの、疲れていて、そのまま、玄関の応接の椅子に、崩れ落ちるように座り込み、背をもたせてから、目をつむっていた。 須磨子は、帳場の人と何やら立ち話をしているようだ。宿代の交渉でもしているような感じが聞き取れた。
「さぁ、部屋に上がりましょう」 目を上げると、須磨子がいた、いや、若い女がいた。
(わたしは、年寄りなのだ、もう、どこにも行きたくない) 抱月はすねていた。 須磨子は、いかにも幼子のように、むずかる抱月が腹立たしかったが、二の腕を取って、椅子から立ち上がらせようとした。しかし、抱月は、しっかりと手で肘当ての先をにぎりしめていて、椅子から立ち上がろうとはしなかった。
須磨子は、あきらめたように、向かいの席に腰を下ろした。
抱月は静か過ぎたので、うっすらと目を開けた。須磨子が目の前にいる。自分の背の後ろから、宿の者に見られているように抱月は感じた。しかし、体が動かない。抱月はしかし、腕を上げて頭を抱えた。そのとき、熱いものがこみ上げ、目からこぼれ落ちた。
(愛している、しかし、どうにもならない…) 心のつぶやきが、言葉にならない分、胸から込み上げて来るものがあり、しかも、それを頭の中の理性の力では食い止めようもなく、抱月は、人目もかまわず、肩を振るわせながら、泣いていた。 (つづく)
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