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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第16回   込み上げるものを止められない

 抱月は、須磨子に勧められるまま、洋風の椅子席ではなく、畳の敷いてある座敷に座った。
 腰を落ち着けさせた。しかし、文楽の舞台は、ほとんど見ることはできなかった。義太夫の節回しのみが、かすかに耳に入る。
 目をつむり、抱月は考えていた。
(どうしたらいいのだろう)

 気がつくと、すでに幕が閉まっていた。
「おもしろかったわ。それに、とっても、ためになったわ」
 女がそう言い、抱月は手を取られて、文楽座を出ていた。
 明るい表情の女が、すぐそばにいた。抱月はその女をまぶしそうに見ている。

(なぜ、こんなきれいな、若い女が、わたしの前にいる?)
 須磨子は抱月の腕を取っていた。

 須磨子と腕を組みながら通りを歩いていて、抱月は恥ずかしく、顔を伏せていた。そして、しきりに、自分の年を考えている。
(もう、四十の坂を越しているのだ。須磨子は、一回り以上も年下なのだ)
 抱月は今にも、消え入りそうな気持ちだった。

 須磨子に連れられて、宿に入っていた。
 抱月は、靴を脱ぎ、敷き台の上に上がったものの、疲れていて、そのまま、玄関の応接の椅子に、崩れ落ちるように座り込み、背をもたせてから、目をつむっていた。
 須磨子は、帳場の人と何やら立ち話をしているようだ。宿代の交渉でもしているような感じが聞き取れた。

「さぁ、部屋に上がりましょう」
 目を上げると、須磨子がいた、いや、若い女がいた。

(わたしは、年寄りなのだ、もう、どこにも行きたくない)
 抱月はすねていた。
 
 須磨子は、いかにも幼子のように、むずかる抱月が腹立たしかったが、二の腕を取って、椅子から立ち上がらせようとした。しかし、抱月は、しっかりと手で肘当ての先をにぎりしめていて、椅子から立ち上がろうとはしなかった。

 須磨子は、あきらめたように、向かいの席に腰を下ろした。

 抱月は静か過ぎたので、うっすらと目を開けた。須磨子が目の前にいる。自分の背の後ろから、宿の者に見られているように抱月は感じた。しかし、体が動かない。抱月はしかし、腕を上げて頭を抱えた。そのとき、熱いものがこみ上げ、目からこぼれ落ちた。

(愛している、しかし、どうにもならない…)
 心のつぶやきが、言葉にならない分、胸から込み上げて来るものがあり、しかも、それを頭の中の理性の力では食い止めようもなく、抱月は、人目もかまわず、肩を振るわせながら、泣いていた。
                              (つづく)


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