抱月は、気もそぞろだった。 そばに須磨子がいるのだ。
(化粧の匂いなのだろうか?、それとも須磨子自身の匂いなのだろうか?)
車掌が来て、須磨子が切符を買っていた。 車掌がかなり向こうに行ってから、抱月が言った。 「中でも買えるんですね」 須磨子は、怪訝な顔をしている。
「君は、どうやって改札口を出たんですか?」 抱月が問うている。
須磨子は、うつろな抱月の視線が腹立たしい。 抱月は、須磨子の真剣なまなざしに合って、怯えた。
心の震えを振るうようにして、抱月は、窓の外を見ながら、言った。 「なぜ、君は来たんですか?」 返事はなかった。
(わたしは、困るのだ) 抱月は、しきりに、心の中でつぶやいているが、それは言葉に出しては言えなかった。 ひょっとして、この女は、自分を追って来たかもしれないからだ。その女に、突き放したような、冷たい言葉が言えるのだろうか。 ガタンと音がして、汽車が止まった。見ると、須磨子が座席から立ち上がっている。 須磨子に抱月は腕を取られていた。車中の通路を引っ張られている。
ホームに降りて、やっと、ここが大阪駅なのが抱月にはわかった。 ほっとため息を吐く。
ふたたび須磨子に腕を取られ、そして、彼女の腕が自分の二の腕に巻かれていくのを抱月は見た。 二の腕に柔らかな感触を。そして、いい匂いを。 抱月は、顔を赤く染めていた。
(ああ、やはり、この女はわたしを追ってきたのだ) 抱月はそう思った。
うれしくて、涙が出そうだった。頭の中につらさがまだ残っていたが、胸から込み上げてくる熱いものが、そのつらさを消し去ってしまったように思えた。
「どこに行きます?」 「文楽を見たいんだが」 「行きましょう」
ふたりは、文楽座に入った。 須磨子と一緒にいるという、それだけで気もそぞろになり、抱月は、財布を出すことすらできずにいた。須磨子が手提げから財布を出しているというのに、抱月は、体が固まったようになっていて、それを止めることができないでいた。 (つづく)
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