抱月は、京都に居た。 金閣寺や清水寺を訪ねた。歩き疲れた。 旅館に戻り、夕食を取ったが、食欲もなかった。風呂にも行けず、疲れた足腰を休めていた。 宿の人が、心配をして、布団を敷いてくれた。 早々と寝床に就く。 しかし、頭は冴えていて、なかなか寝付かれなかった。
明くる日、目覚めた。 それでも、明け方には、うとうとしたらしい。少しだが、昨日よりは気分がいい。 大阪に行って、文楽でも見、それから奈良にでも行って、法隆寺を見に行ってみようと思った。
京都駅で、大阪駅までの切符を買い、売店で新聞を買った。下りの発車まで、時間があって、待合室の椅子に腰を下ろした。 新聞を読んでいると、目の前に人が立ちはだかっているような気配が感じられる。上から新聞を盗み見ているのかもしれない、そう思って、放っておいた。すると新聞が持ち上げられ、失礼な人もいるものだと思って、目を挙げた。 そこに女がいた、須磨子だった。
「どうして?」 「先生を追っかけて来たんです」 抱月は、息を止めていた。 しかし、胸騒ぎを感じ、顔は、だんだんに青ざめてくる。
須磨子はあきれていた。冗談なのに、どうして、この人は、こうも言葉を真面目に受け取るのかしらと思った。 しかし、抱月の苦しみの広がっていく顔の様を見るのは、心地良かった。 (ひょっとして、この人は、わたしのことを愛しているのかもしれない……) 須磨子はそう思った。
抱月は固まったように動かない、視線を落したままで。
「先生、どちらにいらっしゃるんですか」 「いや、その、大阪に…」 「あれっ、もう下りは、発車の時間ですわ。さぁ、早く…」 「君、切符は?」 「そんなもの、乗ってからでもいいことですわ」 抱月は、小走りに先を行く須磨子の後をついていく。 さほどに急ぐ旅でもないのにと思うが、須磨子が次の下りに乗りたいのなら、それに合わせてやろうと思った。 汽車の席は空いていて、須磨子と真向かいに座った。それがひどく恥ずかしくて、抱月は、汽車が走り出して後も、窓の外に顔に向けていた。
(後を追ってきたなんて言っていたが、あれは、本当なのだろうか…。もし、それが本当なら、どうしたものだろう) 須磨子がすぐそばに居るというのに、そのことばかりを考えている。 そのことを考えながら、でも、うれしくて、胸がどきどきする。その胸の鼓動を須磨子に悟られるのではないかと思うと、本当に、頬がほてってくるようだった。 (つづく)
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