須磨子は、坪内逍遙の研究室にいた。
坪内逍遙は、やや弱ったような顔で言った。 「この間、理事長に呼ばれましてね。部下の指導は、きちんとしていただかなくては、と注意を受けましてね」 坪内逍遙は少し照れているように見えた。 須磨子は小首を傾げている。
「君と島村君とは、どういう付き合いをしているのかね」 須磨子は相手の言っていることの意味がわからなかった。
坪内逍遙にすれば、実は、先日、理事長に呼ばれ、『あの生徒はふしだらな女との風評がありましてね、島村先生にも気をつけるよう、あなたから注意をなさってください』と言われたのだ。 しかし、そんなことを松井須磨子に面と向かって言えるはずもない。それに松井須磨子という女性は、私生活でもしっかりした人間だと坪内逍遙は思っている。
「別に、お付き合いをしているわけではありませんけど…」 「しかし、大学の事務室の者が、君が島村君の研究室に入っていくところを見かけている」 「近くに来たので、ちょっと寄ってみただけですわ」 それだけなのだろうか、と坪内逍遙は疑っている。 しかし、これ以上何を聞けようかと思った。後は、島村君を呼び、彼に分別のある行動を促せばよいと思った。
坪内逍遥は、矛先を変えようとしている。 「ところで、劇団の三田村君と付き合っているのかね?」 須磨子は、あきれていた。 劇団員同士の恋愛はご法度なのだ。そんなことは百も承知なのに。 しかし、それにしても、誰がそんなことを坪内先生の耳に入れたのだろうか?。
「彼とは、演劇をやる仲間同士としての付き合いですわ」 実際、夫との別れ話があって、それがもつれ、彼に相談に乗ってもらっただけの話なのに…。
澄ました顔で答えた須磨子を、坪内逍遙は、にくいと思った。 「理事長が言っていましたよ、島村君に君のことを注意したら、島村君の顔が見る見る青ざめたとね。あれは、結構純情な男でしてね。あまり大のおとなをからかってはいけませんよ」 須磨子は、慄然となった。 理事長は島村先生に何を言ったのだろう。 「大学っていうところも、田舎の村とちっとも変わりませんのね」 須磨子は捨てぜりふを吐き、坪内逍遙の研究室を辞した。 帰り道、胸が騒いだ。島村先生に誤解をされたくないと思った。しかし、大したことではない、劇団の三田村とは何でもなかったことなのだから、それにもう済んだことなのだからと思った。
下宿先に戻ってからも須磨子は考えていた。島村先生が、わたしが研究室を訪れたことを咎められただけで、顔色を変えられるだろうかと思った。たったそれだけのことで。きっと何か、そのほかのことでも、理事長に言われたにちがいない。それは島村自身のことではなく、自分のことだったかもしれない。人は、とにかく、うわさ好きなのだから…。人の口から口へ伝わっていくたびに、小さなことでも、大きくなっていく…。 須磨子は明日にでも島村に会いに行かなくては、と思った。 (つづく)
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