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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第10回   抱月は大学の理事長に呼ばれていた

 抱月は、理事長に呼ばれていた。
「やってくれましたね」
 冷ややかな声音だった。
 抱月は、腋に冷たいものを感じる。
(何のことだろう?)

 呼ばれるには、それだけの理由があるはずだ。しかし、抱月には、まだ、理事長の真意がつかめない…。

「あれだけ、申し上げていたはずなんですが…。大学人にとっては、大学の講義や研究がいかに大切なものであるか、前にご忠告を申し上げていたはずなんですがね」
 
(ああ、大学の研究以外のことに熱中してはならぬ、ということか…)

 確かに、公演をやったのは、師の坪内逍遙に頼まれたことなのだ。しかし、自分としてもやりたかったのだ。しかし、それにしても、演劇のどこがわるいというのだろうか。

「演劇など、大衆の慰みものにすぎません。そのようなものに関わり合っていたら、大学の研究者としては、堕落していくのではありませんか」
 理事長の言葉に抱月は失望した。
 そして、心の中では怒りすら覚えた。
 師の坪内逍遙だって、わが郷里の森鴎外先生だって、文芸に対する深い造詣がある。彼の先生たちが堕落しているというのか?。それは、とんでもない話だ。むしろ、彼の先生たちの方が、世の中の知識人たちを引っぱっている。

 抱月は弁解もしなかった。あやまりもしなかった。
 しかし、抱月は、頭をうなだれていた。
(理事長は、確かに経営者としてはすぐれている方かもしれない。しかし、文芸に対する理解は薄いのかもしれない…)

 と、頭の上の方から理事長の声がした。
「あなたの研究室に、近頃、新劇の女優が来ているというではありませんか」
 ぎくっとする。
 事務室の誰かが告げ口したのだろうか?。

「あの、松井須磨子とかいう女、お気をつけになってください。文芸協会の某若い劇団員と恋仲というじゃありませんか。大学人たるものが、そういうふしだらな女を相手にしてはいけませんよ」
 抱月は、衝撃を受けていた。
 
 暗がりの中で、若い男と女が接吻を交わしている情景が思い浮かんだ。頭から血が失せて、立っていることができぬほどだった。
 早くこの場を去らなくては、ぶっ倒れ、理事長の前で醜態を示すことになるのではないか。動悸が激しく打っていた。

「少し、考えさせてください」
 抱月は、自分の顔が真っ青になっているのを感じていた。
 そして、おのれのことを笑っている。理事長に演劇活動を批判されたことではなく、須磨子に若い恋人のいることを知らされ、動揺したおのれが浅ましかった。

 もう自分は41歳にもなる。それが、15歳も年下の若い女に心を奪われている。そんな若い女が中年の男を相手にするはずもないのに、自分はのぼせていたのではあるまいか。
 須磨子には、他に好きな男がいるのだ、自分に近づいてきたのは次の芝居の役が欲しいだけなのだ、それもわからず、この女はわたしに気があるかもしれないなどと思い上がっていたのだ。

 抱月は、わが家に戻った。
 家の中が暗い。電灯をつける。卓袱台(ちゃぶだい)の上に、書き置きがあった。妻の字だった。

『真弓を連れて、病院へ行きます』

 抱月の顔が青ざめている。抱月は家を飛び出した。天罰だ、若い女に心を奪われている間に、わが子が死の病にとりつかれたのだ。
 その夜、三男の真弓は息をひきとった。
                              (つづく)


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