ふたりは稽古のあと、夜道を歩いていた。 誘ったのは誰なのか、わからなかった。
しかし、抱月には、自分が声を掛けたことだけはわかっていた。 「遅くなったから、送っていきましょう」 そう言ったとき、須磨子がほほえんだ。 抱月にすれば、本当に、思い切って言った言葉だった。
『大丈夫ですわ、そんなこと、ご心配なさらなくても…」 気の強い人だ。須磨子にそんな風に言われることが抱月は実は怖かったのだ。
しかし、おそるおそる声をかけた時、須磨子の顔に、ぱっと笑みが広がったのだ。 ほっとして、抱月は思わず頬をゆるめた。 抱月は歩いた、平素よりはかなりゆっくりと。 須磨子の歩調に合わせている。
歩く道々、話とてあるはずもない。 いや、抱月には、何とも気が浮き立つような快いものがあって、黙っていても、幸せな気分であった。 須磨子の住む家が遠ければ遠いほどよいと思った。
「ご心配をおかけしました」 見ると、須磨子がおじぎをしていた。
(何と、この人にも、こんな愁傷なところがあったのだ) そう思って、抱月は立ちつくしていた。抱月がなかなか立ち去らないので、須磨子は怪訝な表情をしている。
(そうか、もう着いたのか) 抱月は、清らかに降り注いでいる月の光の中で、赤面している。 「君のうちが、こんな近くだったなんて、気がつかなかったな」 抱月は、地面に視線を落としながら、そう言った。
「……」 須磨子の返事がない。 抱月は心配になって、顔を上げる。 須磨子が笑っている。
「すぐそこなんです、わたしの住まい…」 須磨子が振り向き、その後ろ姿に女を感じ、抱月はどきりとしている。 でも、すぐに須磨子がこちらに向き直したので、抱月は、再び視線を落とした。
暗い地面を見ながら、『ああ、僕は、この人に恋をしているのかもしれない…』と抱月は思う。 黒っぽい土に目をさまよわせながら、 「じぁ、これで、僕は。遅くまで、ごくろうさまでした…」 と抱月は言った。
くびすを返すとき、抱月は、『もしかして、ぼくはあなたのことを好きかもしれない』と、言葉にならぬ言葉を、自分の胸の中でつぶやいた。 すると、頭の中で、須磨子の声がした。 『奥様がいらっしゃるのに?』 その声が、抱月の胸をわしづかみ、痛み覚えた。
しかし、その痛みや苦しみを越えなければ、我が家まで帰りつけない。 抱月は、自分がぎくしゃくした足取りをしていることに気付きながらも、暗闇の中で一生懸命、足を前に運ばせていた。 須磨子は、家に入る前に、後を振り返った。 抱月の姿が闇に消えていく瞬間だった。 抱月が闇に消えたとき、「あーっ」と声を漏らした。
(なんて、さびしそうな) そう思うと、抱月の顔が目の前に浮かんだ。 恥ずかしそうで、気弱げなまなざし。 そんな、少年のように、おどおどとしていて、しかし、ひたむきな顔が、須磨子に切なさを感じさせた。
(まさか、先生がわたしのことを) 否定はしてみるのだが、抱月の、潤んだような、求めるような、それでいてひどく頼りなげなまなざしが、須磨子に、甘ずっぱい、うずくような気持ちを湧きたたせるのだった。 (つづく)
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