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作品名:抱月と須磨子 作者:沢村俊介

第1回   どちらが先に誘ったのか

 ふたりは稽古のあと、夜道を歩いていた。
 誘ったのは誰なのか、わからなかった。

 しかし、抱月には、自分が声を掛けたことだけはわかっていた。
「遅くなったから、送っていきましょう」
 そう言ったとき、須磨子がほほえんだ。
 抱月にすれば、本当に、思い切って言った言葉だった。

『大丈夫ですわ、そんなこと、ご心配なさらなくても…」
 気の強い人だ。須磨子にそんな風に言われることが抱月は実は怖かったのだ。

 しかし、おそるおそる声をかけた時、須磨子の顔に、ぱっと笑みが広がったのだ。
 ほっとして、抱月は思わず頬をゆるめた。
 
 抱月は歩いた、平素よりはかなりゆっくりと。
 須磨子の歩調に合わせている。

 歩く道々、話とてあるはずもない。
 いや、抱月には、何とも気が浮き立つような快いものがあって、黙っていても、幸せな気分であった。
 須磨子の住む家が遠ければ遠いほどよいと思った。

「ご心配をおかけしました」
 見ると、須磨子がおじぎをしていた。

(何と、この人にも、こんな愁傷なところがあったのだ)
 そう思って、抱月は立ちつくしていた。抱月がなかなか立ち去らないので、須磨子は怪訝な表情をしている。

(そうか、もう着いたのか)
 抱月は、清らかに降り注いでいる月の光の中で、赤面している。
「君のうちが、こんな近くだったなんて、気がつかなかったな」
 抱月は、地面に視線を落としながら、そう言った。

「……」
 須磨子の返事がない。
 
 抱月は心配になって、顔を上げる。
 須磨子が笑っている。

「すぐそこなんです、わたしの住まい…」
 須磨子が振り向き、その後ろ姿に女を感じ、抱月はどきりとしている。
 でも、すぐに須磨子がこちらに向き直したので、抱月は、再び視線を落とした。

 暗い地面を見ながら、『ああ、僕は、この人に恋をしているのかもしれない…』と抱月は思う。
 
 黒っぽい土に目をさまよわせながら、
「じぁ、これで、僕は。遅くまで、ごくろうさまでした…」
と抱月は言った。

 くびすを返すとき、抱月は、『もしかして、ぼくはあなたのことを好きかもしれない』と、言葉にならぬ言葉を、自分の胸の中でつぶやいた。
 すると、頭の中で、須磨子の声がした。
『奥様がいらっしゃるのに?』
 その声が、抱月の胸をわしづかみ、痛み覚えた。

 しかし、その痛みや苦しみを越えなければ、我が家まで帰りつけない。
 抱月は、自分がぎくしゃくした足取りをしていることに気付きながらも、暗闇の中で一生懸命、足を前に運ばせていた。
 
 須磨子は、家に入る前に、後を振り返った。
 抱月の姿が闇に消えていく瞬間だった。
 抱月が闇に消えたとき、「あーっ」と声を漏らした。

(なんて、さびしそうな)
 そう思うと、抱月の顔が目の前に浮かんだ。
 恥ずかしそうで、気弱げなまなざし。
 そんな、少年のように、おどおどとしていて、しかし、ひたむきな顔が、須磨子に切なさを感じさせた。

(まさか、先生がわたしのことを)
 否定はしてみるのだが、抱月の、潤んだような、求めるような、それでいてひどく頼りなげなまなざしが、須磨子に、甘ずっぱい、うずくような気持ちを湧きたたせるのだった。
                                  (つづく)


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