あわただしく日々が過ぎ去って行った…。 やはり、蒙古がやってきた。 しかし、神の助けなのか、蒙古の軍勢は、1度ならず、2度までも、引き上げてくれたのだった…。 評定衆の集まりのあと、時宗は、家臣の皆と、酒を汲み交わしていた。 しかし、時宗には、虚脱感がある。 (何ということだ、われは、何か、悪い夢でも見ているのではないか) 時宗には、未だ、蒙古軍が風雨に飲み込まれたことが信じられなかった。 浮き立つような、何やら、安堵したような気持ちが、腹の下から、ふつふつと湧いてくるような気もする。
しかし、かといって、いつそれが、恐怖に変わるかもしれぬ。そのような不安が、頭の中を、また、胸の内をよぎる。しかし、不安な心のうちを、皆の前でさらけ出すわけにはいかぬ。 『たまたま、博多に大風が吹いて、蒙古軍が引き上げただけのことよ。未だ、気を緩める時ではない』と、おのれに言い聞かせながら、時宗は、酒をあおっている。 しかし、朝廷や公家ならいざしらず、幕府の評定衆の中にも、心の底からほっとしているような者がいることに、腹立たしさを覚え、酒が苦かった。
(飲んではいけない、飲めば、また、夜中に寝覚め、苦しむ) そうは思うが、手は自然と杯に伸びている。 杯を持ち、顔を上げると、目の前に挨拶に来た男がいた。
(誰であったか?) 目の前がかすんでいる。 新任の引付衆にはちがいない。
突然、引付衆を辞めさせたり、そして、再び彼の者を復活させたりしている。 そのようなことで、今、目の前にいる人間が誰なのか、わからないのだろう。
(われは、一体何をしておるのだろう?) 時宗は、座禅をしている最中でさえ、おのれを責めた。 (上に立つものは、一貫して、おのれの意思を貫きべきではないだろうか?)
安達康盛らに、『引付衆の中に将軍と徒党を組む者がいる』と言われ、引付衆の廃止にうなずいてしまったのだ。 われは、以前から、引付衆、評定衆、寄合衆と、3つの階層の中で、それぞれに議論をしてもらい、それぞれの会合で熟慮され、抽出された貴重な意見というものを、執権が汲み取っていくのがよいと思っていたのに…。
しかし、安達康盛らの進言に従って、易々と、引付衆の廃止に同意をしてしまっていたのだった…。
時宗は、無理に笑顔をつくり、名も思い出せぬ目の前の男に、一礼をした。 「いつも、お役目ごくろうにござる」 時宗は、相手の杯に酒を注いだ。
と、目の前の男が、酒を飲み干し、そして、言った。 「本日の執権殿のお言葉、感じ入り申した。武士たるもの、常に生死を超えた覚悟を肝に命ずるべし。されど、安達康盛殿にしろ、平頼綱殿にしろ、執権殿のお話の途中で、そのようなこと、なるものか、とでも言いたげに、首を横に振っておられましたぞ」 時宗は、胸に冷たいものが走るのを感じた。
(身内の者ですら、もはや、われの言うことなど、聞かぬ、ということか?!) しかし、何と批判されようと、上の立つ者は、穏やかなる表情を保たねばならぬ、と思い、丹田に力を込めた。
「執権殿は、この国を守ろうと、一所懸命になっておられますのに…」 時宗は、面を伏せ、その男の言葉を聞いている。
それでも、われは、安達康盛や平頼綱を頼りにしていかねばならぬ、彼(か)の者たちを責められぬと思っていた。 先日も、われは安達康盛や平頼綱に、『待つだけでよいのか』と詰め寄った。しかし、彼の者たちの反応は、冷ややかであった。 確かに、先手を打つため、こちらから、高麗に攻め入るという作戦が無謀なこととはわかっている。しかし、今は、御家人といわず、非御家人といわず、この国の武士が一丸となって、国難に当たらねばならぬ。このまま、座して待つだけでよいのか。
いや、われは、先頭に立って、高麗に攻め入りたい。むしろ、われが高麗で討ち死にすれば、かえって御家人たちが、危機感を募らせ、一致団結してくれるのではあるまいか。
時宗が、己との問答から覚め、それでも家臣の安達康盛らを弁護しようと思ったとき、すでに、目の前にいた男の姿はなかった。回りを見ると、皆は、機嫌が良さそうに杯を傾けている。 (平和だな、しかし、これでよいのかもしれぬ) 時宗は、一抹の寂しさを感じながら、つぶやいている。 すると、また、引付衆の一人が時宗の前にやってきた。 「執権殿、飲みなされ」 時宗の杯に酒を注ごうとしている。 飲みたくなかった。 「われは、先程より、かなり戴いておる」 そうは言いながら、断るのもわるいかと思い、杯を差し出している。
「そなたの父上殿は、豪快であられた…」 時宗は、きっとして、向かいの男を見た。 時宗の眉がつり上がったのに構わず、その男は続けた。 「なにせ、あの頃は、酒席がにぎやかでござった。父上殿は、場を盛り上げなさるのが上手でござったからのぉ。その点、今の執権殿はおとなしい」 時宗は、視線を男の顔から宙に移し、杯を持ちながら、怒りを押さえている。
(父は父よ。われは、さほど、明るくもなく、社交的でもない。だが、われは、父以上に、書を読み、下文をしたためねばならぬ。豪放磊落だけでは済まされぬ) 時宗は、執権たるものは、家臣に鷹揚なところを見せねばと、苦笑いしながら、杯を空け、男にそれを差し出し、あらためて、酒を注いでやった。(つづく)
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