『哀れよのぉ…』 ふと、人の声がした。 足を組み、目を瞑っていた時宗は、ゆっくりと目をあけた。
目の前に、黒の僧衣をまとった、ひとりの僧侶がいた。 時宗は、目を凝らす。
(はて、どこかで、見たような…。そうだ、日蓮…。われに忠告の文を届けた…) 時宗は、少し、胸を張った。
『哀れと申されるか』 時宗は、高所から声を出した。 しかし、おのれの声が、ややかすれ、力がないように感じられた。
『おそれながら、執権殿におかれては、いまだ、餓鬼、畜生の境涯にござる。声聞(しょうもん)、縁覚(えんかく)の世界にも達しておられませぬ』 日蓮の目は鋭かった。 時宗は、日蓮の言葉よりは、その視線のきらめきに、はっとする。 (この僧侶、見抜いておるのか。われは、自分ながら菩薩道にはとうてい達せぬと思っていた。しかし、せめて、声聞・縁覚の境涯まではと、思っていた。がしかし、それすら叶わぬのか。父と同じように、執権の座を捨て、出家すれば、それもできると思っていたが)
『心の迷いは、執権殿の信仰の対象が誤っているからにござる。正しき教えに帰依なされませ。さすれば、迷いが解けましょうぞ』 日蓮の言葉に、時宗は、わずかに笑った。
いまさら、後戻りなどできるものかと時宗は思い、 『われの迷いは、われの信じる禅宗にあらず、われの信仰の未熟さにござる』 と、答えた。
日蓮は、諭すように時宗に言う。 『声聞・縁覚の道を探ろうとなさるのなら、釈迦牟尼仏の説かれた法をすべてお読みくだされ。そこから、正しき道を見極めなさるがよろしいか、と存ずる。それなくしては、声聞・縁覚の道すら覚束無いと、おぼしめされるが肝要か、と』 時宗は日蓮の顔をじっと見た。 日蓮の眼差しは、先ほどよりは、ずいぶんと優しいものになっていた。
(この僧侶、思ったほどには怪僧ではない。やはり、仏教の徒には間違いがない) そう思って、時宗も、日蓮に向けた視線を少し、和らげていた…。(つづく)
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