時宗は、父の笑顔に、かすかな笑みをもって応えている。 父の口許をじっと見つめていた。 「時宗、あの世では、親子ではないのかもしれぬ。じゃが、おぬしのそばにいて、おぬしを守ってみせようぞ」 父の目を見た。
時宗には、父の目が濡れているように思えた。 時宗は胸を熱くして涙を流した。
「父上、しっかりしてくださりませ」 時宗はふと、己が呼ばれているのに気がついた。
(われは、どこにいるのだ?) 時宗は、暗闇のなかにいる自分に戸惑っている。
「父上!」 再び、耳元で声がした。 われの声ではない、貞時の声だと思った。
しかし、まぶたを開けることができなかった。 時宗は、頭のどこか一点のみがまだ、息づいており、そのわずかな神経のみで、今、己があの世にいるのか、この世にいるのかを推し量ろうとしていた。 その、か細くなった神経すら、その命の灯火を消そうとしている。
しかし、今、貞時と、永遠の別れをしようとしているのでないことがわかった。今は、父の許に行くだけだと思った。 そして、父とともに天にいて、天から、貞時を見守ってやれるのだと思った。 心にやすらぎがひろがっていく。 しかし、その中で、うずくような気持ちがぽつんと、芽生えていた。
と、時宗は、寺の庭を歩いていた。 どこの寺なのか、わからない。
安寿尼が近寄って来る。 安寿尼の顔がよく見える。 その顔には、われのことを案じてくれている様子がはっきりと読み取れた。
『時宗さま…』 声はなかった。 が、安寿尼のくちびるは、そう告げていた。
時宗は、じっと見つめた、安寿尼を。まるで、今生の別れでもするかのように。 いや、安寿尼とは、永遠の別れになるような気がした。 悲しかった。
(何を言えばいいのであろう?) 安寿尼に言うべき言葉が見つからない。 が、時宗は、さらば、とでも言うように、少し、頭を下げていた。
安寿尼のすがりつくようなまなざしに、時宗は胸が熱くなった。
(これは、何なのだ。多少は、天が恩賞でも与えたもうたのか?) 衆目の面前で、小笠懸で的を射て、父上に褒められた時と同じような、うれしさがあった。 安寿尼がそばに居てくれたときの、浮き立つような心のざわめき、そして、一時のやすらぎ。それが、今でもはっきりとよみがえる。 そのうれしいような、うずくような気持ちは、きっと無間地獄の中でも、われを慰めてくれるような気がした。 時宗は、おのれの心に微笑んだ。 (われの心のなかには、いつも安寿尼がいる…)
と、突然、目の前が暗くなった。 時宗は、頭の中の、か細い神経の火が燃え尽きようとしている瞬間、おのれの体が浮遊し、肉体も魂すらも、宇宙のかなたに、吸い込まれていくような気がした。 (おわり)
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