時宗自身としては、親孝行をなし得たと思うことが、ひとつだけあった。 あれは、確か、極楽寺流北条重時大叔父の館(やかた)の落成式のときだった…。 時宗は、急に、呼び出された。 『小笠懸(こかさがけ)を披露せよ』ということであった。
急ぎ駆けつけてみると、父がいた。そして、宗尊(むねかた)将軍もおられた。 時宗は、舞いあがった。 (何故に、われが呼び出されたのだ) 頭が真っ白になった。 その時、父の声が耳に入った。 「一度、馬を走らせよ」 (なぜだ?。われは、一度切りで小笠懸をやってみせるのに…) 時宗は、動揺しながらも、自尊心だけはあったようだ。
が、しかし、父の言うことには従わざるを得なかった。 時宗は、馬場を走った。馬足が早い。 時宗は、小笠懸の的(まと)を、右目の端でわずかにしか捕らえられなかった。
小笠懸の的は、その名のとおり、的が小さい。 5寸(約15センチ)の篠竹の先が2つほどに割ってあり、そこに4寸(約12センチ)四方の板が挟んであるが、その小さな板こそが、的なのだ。
時宗は、胸がどきどきと波打っているのがわかった。 馬場を引き返す。 引き返させながら、的に当てることを考えるなら、馬足は少々遅くするしかあるまいと思った。 そして、幼き頃、父の言われていたことが甦った。 『時宗、的を迎えに行くな』 そうだ、討とうとしてはならぬ、的が討ってくれという時まで、待てばよい、そう思うと、心が落ち着いた。 父は、幼き頃から、われの弓の稽古を見てくれたものだ。 遠笠懸(とおかさがけ)は、的まで、8丈(約18メートル)もある。 時宗は上背がなく、短い弓しか繰れないせいもあって、なかなか飛距離が出ず、的に当たらない。 そのとき、父は、『矢を上向きにつがえ、空に弧を描くつもりで放て』と教えてくれたものだった。 小笠懸は、弓目(左目)の遠笠懸と違い、馬上で、弓を右手にまわし、馬目(右目)の方向に放つ。
『敵は左手のみならず、右手より襲って来ることもある、小笠懸にも熟達せねばならぬ、それに左ばかりにひねっていては腰を痛める。小笠懸は右手に腰をひねる。小笠懸の稽古は腰のためにもよい』 と、父は教えてくれたものだ。 馬上から馬場の道が見えた。かすかに小笠懸の的が見える。時宗は、その的が近づいて来るのを待つような気持ちで、静かに馬を走らせた。走りながら、左目に矢をつがえる。足で馬の腹をたたく。馬がやや首を下げてくれる。矢を右目(馬目)に移す。矢をつがえつつ、的が己のふところにやって来るまで待つ。的が近づく。的が近くに迫り来て、大きくなる。 時が止まった。 時宗は、息を止め、ゆっくりと、矢を放った。
的のそばを通り過ぎた。その瞬間、的となっていた板切れが、空中に飛び散るのを時宗は、目の端で捕らえていた。
(父上、やりましたぞ) そうつぶやいたとき、馬に跨っていた足が震えはじめた。それがなかなか止まらない。たかが、このようなことで、とは思うが、唇すら震えはじめていた。馬が馬場を駆けぬけていく。
(まあ、よいわ、われが射たわけではない。馬の方が上手に駆けてくれたのだ) 時宗は、ちらりと頭の隅で、宗尊将軍にご挨拶をせねばならなかったか、と思ったが、父上に己れの動揺を見られたくなかった。それで、馬が走るに任せ、そのまま、得宗館に向かって走り去って行った。 その夜、時宗は父に呼ばれた。 時宗は、将軍に挨拶もせずに、やぶさめ馬場を退場したことを叱られると思った。心はびくついていたが、あやまるしかない、と思い定め、父の居間の戸を開けた。 時宗は、頭が上げられず、視線を落とし、板間の目を見ながら、進む。 顔を上げた。 父上は、機嫌の悪そうな顔ではなくて、時宗は、ほっとした。
「申し訳ありませぬ」 「何か?」 「いえ、皆々様にご挨拶もせず退散いたしたこと、お詫びいたしまする」 「ああ、そのことか、それなら、気にするでない。しかし、でかしたぞ、時宗。あのような場で、よう、的を射た。わしなら、はずしていたやもしれぬ」
「父上なら、そのようなことは……」 「いや、わしは近頃、弓を持っておらぬゆえな」 「しかし……」
「よいか、時宗、慢心するでないぞ。今日は、たまたま、当たったと思え、常日頃の精進こそ、大事なのじゃ」 「父上、われは……」 「われは上がっておった、ということか。わしに、わからいでか。馬上のお主の顔は、血の気を失い、真っ青であったわ」 父が笑っている。 時宗は顔を赤らめていた。 (父上には、すでに見抜いておられたのだ…) 時宗は、ほっと溜息をつく。肩から力が抜けていくのが、はっきりとわかった。 (つづく)
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