ふと、目覚めた。薄暗い。 しかしよく見ると、右上の方で、燈心が燃えているのがわかった。 人の気配がある。 頭をさらに横によじると、確かに、誰かがいた。 目を見開く。 安寿尼であった。 「貞時はどうした?」
「もう、お館(やかた)に、おもどりになられました」 安寿尼の落ち着いた顔が見える。 「そうか、そうであったか」 時宗は、また頭を元に戻した。 暗い天井が見える。
「ご気分はいかがでございます?」 「眠っていたのか…。それでは、貞時にわるいことをしてしまったな」
「お気になさってはいけませぬ。父上のこと、よろしくお頼み致しますと、おっしゃられて、気丈にお帰りおそばしました」
(13歳か…。われが、父上を亡くした時と同じくらいだな。貞時は、執権としての職を全うできるであろうか) 時宗は暗く沈んでいた。 時が止まっているような気がした。 もう、夜更けではないかと思う。 安寿尼が、まだ、われのそばに付いていてくれるのがわかった。 安 寿尼に、『引き下がって、休むように』と言いたかった。
しかし、安寿尼に行ってしまわれると、寂しい気がして、心の裡で引き止めていた。 女が身じろぎをした。出ていくと思った。 「もう少し、ここに居ぬか」 と言ってしまった後で、時宗はあわてた。
女が少し笑ったような気がした。 それは、居ても良いという意味なのか、もう部屋を下がっていきたいという意味なのか、よくわからなかった。それで、時宗は、女を引き止めるために、体を起き上がらせようとした。 その気配を察したのか、立ち上がりかけていた女が、そばに寄って来た。 「ご無理をなさってはいけませぬ」 しかし、女は背に手をあてがって、体を起こすのを手伝ってくれた。 今は、胃の腑の痛みや、腰の痛みから解放されていて、上半身を起こし、座っていることができた。 いや、身を横たえることなく、できるだけ安寿尼のそばに、身を置いておきたかった。
(たとえ、このまま、われが死んだとしても、安達康盛が、この女のことについても後始末をしてくれよう。まだ、われの本家には、伊豆の山中に、分け与えることのできる山林がある。いざとなれば、書きつけさえ残しておけば、女を裏切ることもあるまい) 時宗は、そのようなことを、頭の中に思い巡らせながら、安寿尼のそばにいる己をいたわっている。 時宗は、今、己が執権としてではなく、ひとりの男として、安寿尼のそばにいるような気がした。 (執権でなくば、われは、一体何者であろう。さほどに、弓矢ができるわけでもなく、戦のかけひきができるわけでもない。もし、ただの御家人の家に生まれていれば、狩をして獲物を採り、刀や矢じりは、自ら砥石で研ぐ日々送ったことであろうに…) 時宗は、面を挙げた。燈心が揺れているのか、女の白い顔に陰が揺らめいていた。 その顔を美しいと思った。飽かず、恥ずかし気もなく、その顔を見ている。 もはや、執権ではない。 仮りに生きたとしても、執権の座は、早晩、安達泰盛か貞時に譲ることになろう。 時宗の胸に虚しさが込み上げて来る。 もう、このまま、無限地獄とやらに旅立つのかと思った。 蒙古との戦が終わらぬまま、戦場から身を引かねばならぬことが悔しかった。 「執権様……」 安寿尼の声がした。 時宗は驚いて顔を挙げた。 女は、まだそばに居てくれたのだ。 それなのに、われは、己だけの想念の世界にいた。 そばにいてくれた女に対して、申し分けないと思った。 しかし、『もう、下がってよい』という言葉が、なかなか口にできない。
「もう、お休みなされては……」 女の声が、そばでした。
「いや……」 時宗は、やや背を曲げながら、女に答えるでもなく答えていた。
昼間、貞時に会えて、うれしかったのか、今は、多少、気分が良い。 「もう少し、いてくれぬか…」 時宗は、落としていた視線を少し上げ、首を回し、女の方を見ながら言う。 女が笑っている。 「執権様の、貞時様をご覧になった時のお顔、あのうれしそうなお顔は、はじめて拝見いたしましたわ」 時宗は、照れている。しかし、明るい顔で女に答えている。 「何といっても、われの子、あやつのおかげで、無限地獄の苦しみも多少は、救われようぞ」 「何を申されます」 「いや、なに、これは戯れ事よ」 時宗は笑って答えたが、見ると、女の顔がこわばっている。時宗はその表情に真剣さを看た。 視線を落とす。 女の真剣そうなまなざしは、庄園寄進の力を持つわれを失うことへの失望心からなのか、それとも、病を持ち、早や死もまじかいわれへの哀れみなのかと、考えていた。 急に、燈心が明るくなったような気がして、顔を上げる。 そして、横を見た。女の顔がよく見える。その目に涙が見えた。 女に、いとおしさを感じた。 「そなたには、世話をかけた。がしかし、何も報いることはできなかった。許してくれ」 時宗は、頭を下げた。 熱いものが胸に込み上げて来る。 これは何なのであろう、妻があり、子があり、今、病になって、執権の座すら危うい、われが、何を求めているのであろうか?。
「執権様、わたしのような者に、もったいないお言葉を……」 「いや、もはや、われは、執権などではない。ただの、ひとりの男に過ぎぬ」 時宗は、己の言葉に力がないことに気がつく。
(そうなのだ、ひとりの男になってみれば、われには何もない) そう思って、呆然となった。 正面を向く。 暗い。 そう思って、今度は、右斜め方向にある燈心の方を見る。 炎が小さくなっている。
(もう、しばらくすると、この炎のように、われの命も消えるのか) 無となることへの恐ろしさに、頭が締めつけられ、心が震えた。 その震えから逃れようとして、時宗は炎に向かって両の手を伸ばした。 女がにじり寄ってくる。 時宗は、身を少しよじる。 安寿尼の頭が、額が見えた。 安寿尼のかすかな吐息が、耳を打つ。
安寿尼の肩が見えた。 か細い。 時に、キリッとした、強気の言葉を吐く女の割には。 その肩が、少し、震えているように見えた。
その震えを少しでも落ち着かせてやりたかった。 おそるおそる、その肩に、時宗は、わが手を置いた。
女は、逃げなかった。 いや、むしろ、こちらの方に身を傾けて来たように感じられた。
時宗は、女の肩を抱きとめている。 いい匂いがした。 肩に置いた手に、力がこもる。 しかし、女のからだに固さがあった。 その固さが何から来るのか、時宗にはわからない。 (つづく)
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