その夜、薬草の絞り汁を持って、安寿尼が部屋に入って来た。
時宗は、薬汁を飲むために、安寿尼に、背を抱きかかえられるようにして、上半身を起こしている。 女の匂いがして、時宗は頬を染めていた。
「御台さまは、ほんに、ご案じなされておりました」 「……」 「それに、わたしのような者に、ほんに、よう、お話くだされました」
『そなたに、何を話した?』 そう時宗は、問いたかったが、何も言わず、安寿尼の顔を見た。
安寿尼が、じっと、こちらを見返している。
「わがままものゆえ、お気をわるくなされますな、と申されました」 安寿尼は、そう言うと、顔を伏せた。
時宗は、恥じた。 そうなのだ、若い頃、評定衆たちの集まりで、己の気に添わぬことが決せられると、 酒を飲んだ。 酒気のせいで、その苛立ちが一層高じる。そして、妻に当たり散らした。
妻に、言葉を投げつけるだけでは足りぬときがあった。 腹の虫が騒ぎ、それが頭にまで登って来ると、物を投げつけたくなった。 いや、実際に、杯を投げ、そばにいた妻の横っ面を、手で殴ったような気がする。 翌朝、目覚めたとき、肩や腕に痛みを覚えるのだ。 何故なのだ、と、いぶかしく思ったことは何度となくあった。 明くる日、息子の貞時が来た。 われの情けない姿を見せたくなかった。 だから、妻の祝子にも、貞時の見舞は無用だと言って来たのだ。 しかし、今、貞時が見舞いに来たとなると、周りの者たちが、われの病は、相当重いと見ているのであろうと思い、不安がよぎる。 心に重いしこりがある。 が、安寿尼に連れ添われて入って来た貞時の姿を見ると、うれしさが込み上げて来た。 時宗は、おのれ一人の力で起き上がろうとした。 しかし、起き上がれない。 と同時に、貞時と安寿尼が近づいて来た。
時宗は、貞時の顔を見た。 (父上、ご無理をなされますな) と、言っているようであった。
貞時と安寿尼が、ふたり寄り添いながら、時宗の肩と背に手を置き合い、そのままゆっくりと、時宗のからだを、床の上に、寝かせつけようとしていた。
貞時に何かを言わねばと思うが、胸が詰まる。 かすかながら、頭が動く。 (貞時、すまぬ。しかし、よう来てくれた) 時宗は、涙がにじみ出ているのもかまわず、目を開けて、じっと貞時を見た。
貞時の目に、心配気な様子が見え、いとおしさを感じる。 安寿尼がそばにいることも気にならず、時宗は、貞時の顔を飽くこともなく見つめている。 貞時の目に涙を見たとき、時宗は、目をつむった。 (貞時には、何もしてやれなかった、これからも、そうであろうな) あまりに、悲しくて、時宗は、手を伸ばし、貞時の手を取り、にぎった。 (あの世に逝っても、そちのことは、見守っていてやるぞ) そうは思うが、あの世がどのようなもので、あの世で、われがどのような有様になるのかもわからぬゆえに、その言葉を口に出しては言えぬ。
(われの一生とは何であったのだ) 貞時の手をにぎる、おのれの手の力が、徐々に弱まっていく…。 (つづく)
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