「執権様は、これまで、ご多忙であらせられたのですから、それは、ご無理というものでございましょう…」 安寿尼が、笑っている。 しかし、時宗は、『執権』という言葉に、思わず眉をひそめた。
(執権という言葉は好きではない、かといって、正寿丸という呼び名も。あえて、言えば、父が存命の頃、父から、太郎と呼ばれることだけが好きだった) 時宗は、己の思惑にとらわれていた。
しかし、それでも、安寿尼に何事かを答えねばならぬと思い、口を開いていた。 「わしには、周りが見えぬ」
安寿尼は、時宗のひとりごとのような言葉に、きょとんとしたような顔をして、時宗の顔をぼんやりと見遣っていた…。 夜半、かみなりの音がして、時宗は目覚めた。 障子を見ると、外では稲妻が光っているのがわかる。 胃の腑が痛い。腸がちぎれるようであった。 身をよじりながらじっと耐えていると、額に脂汗がにじみ、腋にも汗を感じた。 さらに耐えていると、背に、そして、胸のあたりにも汗を感じる。 下胸の骨のあたりに、突き上げるような痛みを感じた時、思わず、『うーっ』と、うめき声を上げていた。 気を失っていたのであろうか、時宗が目覚めたとき、目の上に女の顔があった。 部屋がほの暗かった。
薄闇の中で、やっと、時宗の目の焦点が合う。 女が安寿尼であることに気づく。 「われは、そなたを呼んだのか?」 「いいえ、ひどく、お苦しみのようで、お声がしたものですから」
「そうであったか。夜中になると、痛む。情けないことだ」 床に寝ているにもかかわらず、時宗はおのれの肩が、がっくりと下がるように感じた。
すると、女の顔が近づく。 何か、よい匂いがした。 女は両の手で、おのれの頬を包み込んでくれるのだ。 その手が、暖かい。が、時宗は、うろたえている。
その時、腰にずきりとした痛みが走り、両足にもその痛みが伝わって、時宗は、思わず顔を顰めた。 女の手を払おうとするが、腰にしびれと鈍痛が交互に訪れ、手を動かすことができない。下肢も痺れていて、おのれの下肢ではないように感じられる。 情けなさに、思わず目を瞑る。 その目に、涙がにじんで来るのがわかった。
やや、腰や足の痛みや痺れが薄らいできた時、この女はこうも優しく、しかも、われのそばに近づこうとするのか、時宗は、不審な面持ちをしながら考えている。
心のうちで、何と、勤めに熱心なことよと、女を嘲笑うが、そのことで、不審な気持ちが払拭されたわけではない。
(この女、何が欲しいのか?) と時宗は思う。
(この女は尼なのだ、この世に欲しいものは何もないはずだ。あるとすれば、禅における、空の境地か?) そう思って、時宗は、かーっと目を開きながら、女の顔を見た。
しかし、時宗は、そこに夜叉の顔を見た。 思わず、目を背けたが、背筋がぞーっとして、身が固くなる。
薄暗い闇の中である。 目を背けたが、恐る恐るもう一度女の顔を覗く。 が、やはり、そこに夜叉の顔があった。
尼僧であれば、すでに、情欲を消しているはず。 何故であろう?。
われの情欲をかきたたせ、われから、何かを奪い取ろうというのであろうか?。
時宗は目をつむった。 と、女が掛け布団の中に手を入れてきた。 女の手が、寝衣をかきわけている。しかし、時宗は反応しない。
「あーっ」 という、女のため息が耳に入った。 時宗は、闇の中で、不敵な笑いを漏らしていた。 女が、部屋を立ち去っていく気配がした。 あくる日、女は顔を出さなかった。 時宗は、寄合衆の平頼綱を山荘に呼んだ。 平頼綱の家は、長く、北条得宗家(=北条氏の本家)の執事を務めて来た。
平頼綱の妻は、時宗の長男、貞時の乳母をしている。 時宗にとって、気の置けぬ男であった。 今は、安達泰盛より、何事かを頼みやすい相手である。 「執権殿、いかがなされました?」 優しい声色であった。 評定衆の者たちに聞けば、平頼綱の評判は決して良くはない。
しかし、時宗は、この男を可愛がった。 執権としてのわれを立てている。
たぶん、平頼綱は、執権職という権力の座にひれ伏し、それを盾にして、他の御家人たちには、いばり散らしているのであろう。
しかし、それがわかっても、平頼綱の従順さを買っていた。 時宗は、平頼綱に、安寿尼の身元を調べるよう命じた。 (つづく)
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