あくる日、安達泰盛がやって来た。
「執権殿、困りますな」 見れば、安達泰盛の額(ひたい)に、皺が寄っている。
(何のことだ?) 不審気に、時宗は尋ねた。
「執権殿は、昨日、早くあの世に逝きたいと、申されたような。そのような気弱なことを口にされてはなりませぬぞ」 時宗は、苦笑している。 あの付き添ってくれている若い女が、何か安達泰盛に告げ口をしたのであろうかと思った。
しかし、あの若い女に、われは早く死にたい、などと言ったのだろうかと、記憶を辿 りながら、安達泰盛に答えた。 「そのようなことを申した覚えはないが」 「士気に関わりまするぞ」
「いやいや、気をつけよう」 時宗にすれば、お主らは、病の床にある者にも監視の目を働かせておるのかと、腹立たしかった。 しかし、われの一言、ひと言が回りを騒がせるのだ、気をつけねばならぬと時宗は己を得心させようとしている。 だが、時宗はそれから、その若い女に口をきかなくなった。
すると、安達泰盛が気を効かせたのか、付添いの女が代わった。
やはり尼僧で、前の女よりは、しかし、年増であった。 しかし、今度は、女の身で仏門に入るなど、稀な女よと、時宗は、内心、感嘆しているのであった…。
われなどは仏門に入ろうとしても回りが許してくれぬと思い、女がうらやましかった。 年増ゆえに、多少は話やすい。 聞けば、女は、安寿尼という。 しかし、時宗も己を禅宗の徒と思っており、はじめは「安寿尼殿」と呼んだ。 やや気の強そうな女に見えたが、よく気の効く女であった。 しかし、しゃべり出すと、とめどがない。
女に、時宗は、『必要なことだけを言えばよいのじゃ』と、できるだけやさしく諭すように言った。 多少、気分が落ち着いた時、時宗は座禅堂に入った。すると、安寿尼もやってきて、座禅を組んだ。 気が散った。
「気分がわるくなれば、そなたを呼ぶ。われのことはよいから、下がって休んでいなされ」 そう言っても、安寿尼は聞かなかった。 女にすれば、己に課せられた仕事をまっとうにしたいと思っているのであろう。
そう思って、それからは女のことは捨て置いた。 そして、時宗は、女の存在に慣れはじめた。
座禅を組んで、胃の腑の痛みが消えるわけではない。 しかし、何も思い煩わず、お粥を食べられ、胃の腑に物があると感じられる日には、起き上がることもできた。 そして、そういう時は、一時にせよ、禅に没頭することもできた。
安寿尼がそばにいることを忘れると、命あるまでに、あと、こうして、いかほどの勤めができようか、そんなことを考えていた。 そして、やがて、己れが死んでいこうと、この世は、何事もなく動いていくのであろうと思うと、少し、さびしい気持ちがした。 床に寝ていると、安寿尼が花を持ってきて、活けてくれている。 時宗は、花でなく、安寿尼の横顔を見ていた。
(美しい) と思った。 しかし、己を振り返ってみると、確かに三十歳の坂は超えたものの、四十歳には、まだほど遠い。 にもかかわらず、頭には白いものが目だってきた。それに、頬がこけ、剃りで髭を当たれば、皮膚から血が出ることもあった。顔の肌の張りも無くしているにちがいない。
「いかがなされましたか?」 安寿尼にまともに見られ、時宗は、うろたえている。
「いや、花をこうして、ゆっくりと味わうことなぞ、ついぞなかったように思えてな」 安寿尼はにっこりと笑っている。 (つづく)
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