身内人(みうちびと)からの批判…。 そして、偉大なる父と比較される苦しみ…。
父の時頼は、われより良かったのではないか、と時宗は思う。 上には兄上がおられて、父上の場合、幼き頃には、重荷もなかったろう。たまたま、兄上が病にかかられ、父上に、執権の座が舞いおりてきた。それまでは、気ままに過ごせたことであったろう。
所詮、父上の場合は、病(やま)いの兄の後に担ぎ出されたに過ぎぬゆえ、執権となって、例え失敗があっても、仕方の無いことと、回りも認めてくれたのではなかろうか。 しかし、われはそうではない。生れながらにして、北条得宗家を継ぐ者として、重荷を背負わされてきた。決してわれの意志ではなかった。 力のあるなしに拘らず、血筋のみで、執権の座に押し上げられ、それから逃れようもないほどに、回りから締め付けられている。 確かに、われも、幼き頃は、回りから可愛がられた。 しかし、長じて見ると、口先では、執権と奉られながら、陰では、『何の、この若増が、生意気な』と、罵られる。 人には表と裏がある、ということを知ってから、われは、自然と、眉間に皺を寄せる陰欝な人間になっていたのではあるまいか。 酒を注ぎに来てくれ、昔の父上のことを話してくれた引付衆の男は、時宗が何もしゃべらず、遠くを見つめているだけなので、機嫌を損ねたらしく、席を立っていく。 時宗は、その男の背に向かって、心の中で、言葉にならぬ言葉を投げつけている。 『誰が好き好んで、この座に居るものか。たまたま、父時頼の子として、この座に居らされているだけのことよ。だが、われは、蒙古と戦おうとする気概だけは、誰にも負けぬ、むろん、そなたらにもな』 時宗は、わずかにしか残っていない酒の杯を大仰(おおぎょう)に干していた。 時宗には、この酒席の場においてすら、蒙古の脅威が頭から離れぬ。 いや、酔いが回るにつけ、ひどく気分が高ぶってくる。 蒙古が3度、攻めて来れば来たところで、よいではないか。 その時は、われが真っ先に立ち向かい、矢をつがえ、蒙古の兵の矢を受ければよい。
対馬や壱岐の者たちは、すでに討ち死をしている。 われは、すぐにでも、あの世に行き、彼の者たちに詫びをせねばならぬ。 蒙古に喧嘩を売ったのは、むしろ、われの方かも知れぬ。しかし、東国の武家の頭領としての意地があった。簡単に、蒙古の皇帝に、頭(こうべ)を垂れて、降伏をしてなるものか、と思ったのだ。 京都の公家どもは、まるで、子猫が、獅子に戦を挑むようじゃと、笑っているらしい。 しかし、われは、本当に勝てると思って、蒙古の使者どもの首を跳ねたのだろうか?。 ただ、武士としての体面を、保とうとしただけなのではないのか?。
時宗は、酒を干した。 宵(よい)のうちは胃の腑の痛みはさほどに感じぬ。 しかし明け方には、きりきりと痛むであろう。 だが、その痛みなど、フビライの前に引き出される屈辱と、首をはねられる時の痛みに比べれば、物の数ではない。臆病な子猫と笑いたいやつは笑え、だ。
(子猫といえども、胆力はある。獅子の隙をついて、喉元に喰らいついてやるわ) 時宗は、酔いが回って来る頭をかかえながら、ふてぶてしく己の思いを、闇の中に、ぶっつけ、不敵な笑いを浮かべていた。(つづく)
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