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作品名:夢物語 作者:風花

最終回   1
〜タクヤ〜

 電灯が闇に支配された通りを照らす。もはや歩く人もいないような通りを、1人の青年が歩いている。茶色い髪、ラフな服装。彼はこの話でなかったら、青年Aとされる位、平凡な人物であろう。
 その彼の目に築数十年の、決して新しいとは言えないアパートが見えてきた。
 なれた足取りで、明かりもない階段を上っていく。辺りには青年が階段を上る音だけが響く。
 階段を上り終わり、自分の部屋に向かおうとした青年は、その場で足をふっと止めた。
(チエ・・・?)
 彼の脳裏には、こんな時間に自分のアパートに来る事のできる唯一の人間の名前が浮かんだ。しかし、その考えはすぐに打ち消された。
 違う。
 瞬時にそう思った。理由ならいくらでも挙げられる。彼女は連絡もなしにくる事などしない。それに、今日は確か店の在庫確認だとか言っていた。来れるはずがない。
 そして、決定的な理由は―――
ドンッドンッ、ドンッ
 中にいる『それ』は明かりのついていない部屋で、先程から―――青年が階段を上がり終わった瞬間から、激しくドアを叩き続けている。こんな事、正気の人間のやることではない。
(誰だ・・・?)
 恐る恐る部屋に近づくと、後数歩の所で急にドアを激しく叩く音が止んだ。いや、中にいる『それ』が叩くのを止めた。
 辺りに急に静けさが戻った。しかしその静けさは、青年にとっては不気味な静寂でしかなかった。
 青年は、意を決して歩き出した。ドアの横まで来て、息をひそめ、中の様子を伺う。ドア1枚を隔てたそこにいる『それ』も、自分と同じように息をひそめているのが分かった。
 ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。
カチャリ
 確かに今朝、自分は鍵を閉めたはずだ。では何故開いている。中の『それ』が開けたのか。ならば何故今、こんなにも回りくどい事をしているのだ。さっさと出てきて、金を要求するなり、襲うなりすればいい。
 半ば自暴自棄な事を考えながら、気を落ち着かせるために深呼吸をする。心臓の音がうるさい。耳鳴りがする。辺りを静寂が支配する中、青年は何時間もそこにいる感覚に襲われる。知らず知らず、背中を冷や汗が伝う。
 覚悟を決め、ドアノブを握った手に力を込める。
バタンッ
 中にいる『それ』を驚かせるよう、自分の気を奮い立たせるよう、勢いよくドアを開ける。
 そこには―――


 そこには何もいなかった。
(嘘だ)
 青年は辺りを見回す。しかし周りには人影どころか、生き物の気配すらない。
 青年の目の前には、完璧な闇が広がっていた。
(中か・・・ッ?!)
 自分がドアを開けた瞬間に中に入ったのか。
怖い怖い怖い怖い怖い―――
 全身が恐怖で粟立っている。頭の中では警鐘が鳴り響く。しかし、止まってはいられない。今も『それ』は部屋の中にいるかもしれないのだ。そう思って靴のまま部屋に踏み込む。
 闇の中で確認もせず明かりのスイッチを押す。2LKの部屋はすぐに明かりで支配され、隠れる所などなくなった。
 それでも、そこには誰もいなかった。
「どういう事だよ・・・?」
「あんた、分かんないの?」
 思わず呟いた声に、カタカタという音と聞いたことのない声が返ってくる。体中に悪寒が走り、鳥肌が立つ中、反射的に後ろを向き、そこにいたものを見て青年は我が目を疑った。
「うわっ!」
 大声を出したと同時に、青年はその場にしりもちをついた。これなら人間に襲われた方がまだマシだ。
 そこにいたのは、紛れもなく西洋人形だった。いや、これを人形と言っていいのか。確かに着ている服も、造作も、西洋のものだ。だが、この人形は小さな女の子が好んで持つような物ではない。むしろ、ゴシック系、パンク系が好んで持ちそうだ。
 右目には瞼がないのに大きく開かれ今にも落ちそうな目、口には腹話術の人形にあるようなヒビが入っている(これが先程の、カタカタという音の原因だろう)髪の長さが違うのもワザとだと思われる。切り裂かれ、血のような染みが入っている服といい、この真夜中に見るには不気味すぎる。しかも、この人形は先程からずっと青年の目線の高さに浮いているのだ。これで泣き出さない子供がいたら、賞賛に値する。
「ちょっと、何よ今の声?まさかこの可愛い私を見て言ったんじゃないでしょうね?!」
 西洋人形は青年の考えなどお構いなしで、青年に詰め寄ってくる。その時、人形から血生臭い匂いがした。これは、いくらなんでもやりすぎだろう。
 青年は思考回路が完全にショートしていた。ただ、目の前の真実が信じられなくて、必死に言い訳を探す。誰かの悪戯だとか、夢だとか―――
 何の反応も示さない青年に、人形はフンッと鼻を鳴らし、腕を組みその場に下り立った。そして青年を見上げながら、こう言い放った。


「あんた、後3日で死ぬわよ。」


 謎の怪奇現象、不気味な人形、死の先刻。まるでホラー映画の中にいるようだ。そう思った時、その考えに自分で笑い出した。
「ちょっと何笑ってんのよ!本当にそうなのよ!」
 人形は笑われた事に相当腹を立ててるようだった。再び浮かび、青年の顔に近づく。
「うるさい。ほっといてくれ・・・。」
 死ぬとか、怪奇現象とか、この人形とか、もうどうだっていい。早くこの悪夢から解放されたい。思う事はただそれだけだ。
 一度開き直ると人間とは強いものだ。先程までは不気味で仕方がなかった人形を、払いのけようと腕を持ち上げた。
 その時、青年の頭上から声がした。
「払いのける気だろ?でも、結局は止めるね。」
「ロコ?!」
 青年より先に、西洋人形が反応した。あっという間に、青年の視界から消える。
 見たくない、これ以上現実から引き離されるのはごめんだ。でも、好奇心には勝てなかった。
 そこには、西洋人形に抱き付かれるウサギのぬいぐるみがいた。西洋人形に比べ、ぬいぐるみは女の子が好きそうな外見だ。だが、何か違和感がある。
 その違和感を突き止めようと、西洋人形からそのぬいぐるみを奪い取る。
「ちょっとあんた、何すんのさ?!」
 西洋人形が頭上でギャーギャーと騒ぐが、ぬいぐるみの方は助かったとでも言いたげに、青年の腕の中でため息をついた。
 手の平から伝わる温もりに、青年は安堵した。この悪夢の中で、このぬいぐるみがまだ自分が無事である事を証明してくれているような気がした。
 近くでぬいぐるみを見た時、違和感の正体が分かった。このぬいぐるみは、手作りの物だ。多分、子供向けに販売されているような『ぬいぐるみキット』。その完成形なのだろう。よく見れば、あちこちに手作りと分かる雑な部分がある。
「助かったよ、タクヤの坊や。」
「俺の名前・・・?」
「びっくりしたかい?ふふ、あたしは何でも知ってるよ。」
 青年が素直に驚くとその反応が嬉しいのか、ぬいぐるみはひげをそよがせて笑う。その横に、西洋人形が移動する。
「ロコ、何であんたまでここにいるの?やっぱり『あれ』のせい?」
「『あれ』?」
 その言葉で、青年の脳裏には先程までの出来事が、まざまざとよみがえってきた。それを思い出すと、急に体中の血がザッと引いて、体が小刻みに震える。
 そんな青年の変化に、手の中に納まっているぬいぐるみはいち早く気が付いた。
「大丈夫だよ。坊やは死なないよ。」
「ロコ、それどういう事よ?!」
 やはり青年より先に西洋人形が反応した。そしてぬいぐるみに詰め寄っていく。
「こいつは3日後に死ぬのよ!私感じたのよ!」
 キーキーした声で半ば狂ったように言い続ける人形に、青年だけでなくぬいぐるみもうんざりしたようだ。
「うるさいねー、この子は!相手から代償を貰わないと何にもできない子が、このあたしにとやかく言うんじゃないよ!」
 ぬいぐるみの言葉に、西洋人形はぐっと詰まる。そして拗ねたようにその場に下りて座り込んだ。
 先程まであんなに不気味だったのに、慣れたせいなのだろうか。その姿が可哀相で、青年は西洋人形も持ち上げ、自分の膝の上に座らせ、その頭をなで始めた。
 しばらくその状態が続いた。その間、誰も何も言わなかった。
 しかしある事をはっきりさせるため、青年が口を開いた。
「で、結局俺は死ぬのか?それとも、生きていられるのか?」
「生きてるわよ。ロコが言うんだもん。」
 青年の膝の上で、自分の意見を覆されて拗ねていたはずの西洋人形が答えた。その言葉にぬいぐるみが続ける。
「ま、ウメがそう思うのもしょうがないよ。確かに、坊やはある奴から恨まれてるね。あー、聞いても意味ないよ。坊やは知らないから。」
 青年が聞こうとしたのを遮り、ぬいぐるみはそう言った。
「でもね、そいつは坊やを殺すために、さっき見ただろ。『あれ』を作ったのさ。でもあいつは坊やを殺さずに、チエを殺すんだよ。その子が坊やの身代わりに―――」
「チエ?どういう事だ?!」
 急に出てきた自分の恋人の名前に、青年は膝の上に西洋人形がいるのも忘れて立ち上がった。西洋人形は床に落ちる寸前に浮かんだから無傷だったが、青年にまたキーキー声で詰め寄る。しかし、今の青年には届いてない。
「どうしてそこでチエが出てくるんだよ?!」
 ぬいぐるみは、青年が驚きすぎて手の加減が出来なくなっているせいで苦しそうに喋る。
「わ、分かんないよ。あたしはただ『知ってる』だけなんだから。『見える』のとは訳が違うんだよ!」
「それのどこが違うんだよ!」
「ちょっと・・・、く、苦しいよ。坊や・・・。」
 ぬいぐるみがそう訴えたお陰で、青年はやっと自分が力を込め過ぎていた事に気が付いた。慌てて手の力を緩める。
「悪い!・・・大丈夫か?」
 ぬいぐるみはやっと呼吸が楽になり、何度か深呼吸を繰り返してから答えた。
「何とかね・・・。まぁ、坊やが驚くのも無理ないよ。恋人が死ぬなんて言われたらね。」
「チエって子だっけ?恋人?」
 西洋人形も、ぬいぐるみの話に耳を向ける。そして今度は自分から青年の膝の上に座った。気に入ったらしい。
「そうそう。そのチエって子だけどね、その子が坊やの身代わりに死ぬ事は間違いないんだよ。でも、あたしにはどうしてそうなるのかまでは分かんないんだよ。さっきも言ったけど、あたしは『知ってる』だけだからね。」
「その、『知ってる』って・・・?」
 ぬいぐるみはしばらく考えた後、ゆっくりと話し始めた。
「例えば、何か実験をするだろ。それがどういう実験をして、どうなったかまで見てるモノ、そいつは『見える』モノ。でもあたしはその結果だけを知ってるモノ。だからどうしてそうなるのかは分からないけど、そうなる事は『知ってる』んだよ。・・・分かるかい?」
 青年と西洋人形は頷く。
 そして青年はぬいぐるみに聞く。
「チエが死ななくてすむ方法はないのか?!」
「あるはずだよ。」
 ぬいぐるみはそう答える。しかし、青年が何か言う前に続ける。
「でも、あたしには分かんないよ。でも、そのチエって子が死ぬ事になる時に、あんたが違う事をするしかないね。でも、あたし達には手伝えないよ。あたしは『知る』だけ。ウメなんて、『感じる』だけの子だからね。でも、時間がないのは事実だね。ウメは3日って言ったけど、実際は3日以内だね。今この瞬間かもしれないんだよ。」
「どうして、チエが・・・。」
 そう呟いて、青年は下を向いて黙ってしまった。西洋人形とぬいぐるみは心配そうに青年を見上げる。
 その視線に気付かない青年は、ただ恋人の事を考えていた。何故、彼女が・・・。何故自分ではないのだ・・・、ここだって分かっているはずなのに・・・・・・?
 青年はある事に気が付いた。弾かれたように顔を上げると、ぬいぐるみに聞く。
「なぁ、何で俺は今、生きてるんだ?さっきいた『あれ』は俺を殺すために来たんだろ。なら、何故さっき俺は殺されなかったんだ?」
「力不足ってところだね。家はつきとめた。でも、まだ坊やを殺すほどの力がなかったんだよ。」
  青年が理解してない顔をしたので、ぬいぐるみは付け加える。
「人を殺すのにもパワーが必要なんだよ。坊やは死のうとしてるわけじゃない。生きようとしてるパワーを持つ者を殺すには、自分にもそれ相応のパワーが必要なんだよ。でも、『あれ』はまだそのパワーがない。だから生きてんだよ。」
「じゃあ、何故チエは?あいつだって、死のうなんて考えてないんだぞ。やっと自分の店を持ったのに・・・。」
 そう言うと、青年は再び黙ってしまった。
 もう何も考えたくない。でも、考えなければいけない。自分が何をするべきなのか、何をすればいいのか。
考えろ考えろ考えろ―――
「?」
 思考をフルに動かしていた時、頭にヒヤリとするものをを感じた。見れば、西洋人形が自分の頭を撫でていた。
「そんなに張り詰めて考えたって、良い考えなんて浮かばないよ。時間がないのは分かってる。でも、落ち付こう。私達も一緒に考える。」
 その言葉に、自分の手の中にいるぬいぐるみを見る。ぬいぐるみは一生懸命何かを考えるかのように下を向いていた。
 その姿を見て、青年は涙がこみ上げてきた。この西洋人形とぬいぐるみが今とても愛しい。
「ありがとう・・・。」
 青年の言葉に、西洋人形もぬいぐるみも驚いたように青年を見上げた。それに答えるように、ポツリと言った。
「自分のためにこんなに悩んでくれる人に出会ったのは2回目なんだ・・・。」
 1回目は恋人だった。その彼女を失うわけにはいかない。
 決意を新たにする青年の耳に、「あたし達は人じゃないよ。」などと照れて言うぬいぐるみの言葉が聞こえてきた。
 それに頷きながら、また3人は考え出した。

 その時、青年の携帯が鳴った。サブ画面には、『チエ』。
 青年は慌てて携帯を開いた。
「チエッ?!」
 しかし次の瞬間、受話器の向こうから聞こえてきた言葉に、青年は凍りついた。

「えっ―――」






〜ユリ・タカ〜

 深夜の駅前。残業帰りのサラリーマンを、水商売の人間が必死になって取り合っている。
 その横で、1人の女が客を待っていた。長いストレートの髪、体の細さを強調した服。女はそこに立っているだけで、人々の視線を集めていた。
 その女に1人の男が近づいて行った。
「『Moon』のユリさんですか?」
 男の言葉に、女は頷いた。
「あなたが有名なタカさん?」
 女がそう言うと、男は困ったような照れたような顔を浮かべた。
「有名と言われると・・・、困ってしまいますけど、でも、はい。私がタカです。はじめまして。」
 そう言って、水商売の女に丁寧に頭を下げる。噂通りの人、なんて事を思いながら、女も頭を下げる。
 男は最近店に来るようになったが、今では一番有名な常連客となった。表向きは飲み屋としているが、最終的に女を買う事を目的とした店にあって、女を買ったことは一度もなかった。それに、こうして店の女の子を駅前に待たせる。毎回、新しい子を頼む以外、本当に何もしない人だった。
「では、行きましょうか?」
「やっぱり歩くの?」
 女が冗談交じりにそう聞くと、男は困ったような笑顔を浮かべた。
「やはり、ここからお店まで歩くとなると大変ですか?それとも、やはり私のこの方法にお店の方から、皆様何か言われてしまったのですか?」
 ここまで腰の低い人も珍しいなどと思いながら、女は慌てて否定する。
「いいえ。店は何も言わないわ。お客様のする事に、基本的に店はノータッチ。タカさんに関しては礼儀もいいし、マナーもあるから、何か言われる事なんて絶対にないわね。」
「そうですか。」
 そう言ってほっと息をついたが、それは今までの女の子が怒られなかった事を喜んでいるのだろう。少ししか話してないが、この男はそういう人だろうと女は思った。
「あなたは不思議な人ね。」
 女の素直な感想に、男は笑って答えた。
「そうですか?私は私を、つまらないだけの男だと思ってますがね。」
「勿体ない。折角、格好いいのに。」
 女が言った言葉は決してお世辞ではないだろう。女にしては背が高い女よりさらに高い身長、それでいて体は引き締まっており、高級そうなスーツが嫌味の一つもなく似合っている。前に店の女の子に歳を聞いたが、それよりも数段若く見える。
 しばらくそんな事を話しながら、道を行く。表の道を行くのかと思っていたが、男は裏の住宅街を歩いて行く。
「イタッ。」
 ある曲がり角に差し掛かった所で、女が声を漏らす。その声に、男は敏感に反応した。
「どうしたんですか?」
 振り向くと、女が自分より2、3歩後でハイヒールを脱ぎ、足首をさすっていた。
「怪我をなさったんですか?」
「えぇ。」
 女の足首には、ハイヒールと皮膚がすれて出来た傷があった。うっすらと血まで滲んでいる。
 男は慌てて女の元に駆け寄る。
「すみません。私が歩きたいなどと言ってしまったせいで・・・。」
「違うの!」
 男が自分を責めるのを、女は即座に否定した。突然の大声に驚いた男に、女は一気にまくしたてる。
「これ、本当はサイズがちょっと小さいの。でも、今日は気合を入れようと思って、それでこれを履いたの。だから、こうなること分かってたの。だから、タカさんのせいじゃないから!」
 女の言葉に、最初は驚いた顔をしていた男は頷き、そしていきなり女の前にひざまずいた。
「タカさん?!」
「動かないで下さいね。こんな事しか出来ませんが・・・。」
 そう言って、男は女の足首に自分のハンカチを巻き始めた。マークを見れば、明らかにブランドの物。それに気付いた女は慌てた。
「そのハンカチ、ブランドでしょ?!別にこれ位・・・!」
「女性に怪我をさせてしまっては申し訳ありませんから。」
 男はそう言い切って、女に笑い掛ける。そう言われてしまっては、女ももう何も言えなくなった。静かに男がハンカチを巻き終わるのを待つ。
「さ、終わりましたよ。少し歩いてタクシーを拾いましょうか?それとも、この近くにある靴屋に行きますか?あまり若い女性用の靴は置いてないと思いますけど・・・。」
「靴屋がいい。」
 そう答えた後で、何気なく辺りを見回すと、住宅街で、しかもこんな深夜にも関わらず開いている店を見つけた。
(ファンシーショップ・・・?)
 はっきりとは分からないが、店の雰囲気がそんな感じだ。少しこの店に興味が湧いた。
 男もそんな女の視線に気が付いたらしい。店を見て「あぁ。」と呟く。
「『LiLiCo』ですか?最近・・・、と言っても数ヶ月前ですけど、ここに出来たんですよ。」
 店の名前を聞いた瞬間、女は弾かれるように男を見た。
「『LiLiCo』?!」
「はい。」
 男が頷いたのを聞いた瞬間、女はその店に向かって駆け出していた。
「ユリさん?!」
 男の驚いた声も、今の女の耳には入っていなかった。
カランッカランッ
「いらっしゃいませ〜。」
 女が店に入った瞬間、店員は人の良い笑顔を浮かべて女を迎えた。こんな夜中でも本当にやっていたのかとか、客は来るのかとか思う所だが、女はそのどちらでもない事を口にした。
「チエは?!」
「はっ?」
「この店、チエの店でしょ?!チエは?!」
 最初は女の剣幕に驚いた店員も、女の口からチエの名前を聞くと、「あぁ。」と声を漏らし、顔に悲しい色を浮かべながら口を開く。
「店長のお知り合いの方でしたか。」
「そうよ!チエは?!」
 女の言葉に、店員は今にも泣き出しそうな顔をして告げる。
「店長は・・・、亡くなりました。」
「えっ?」
「2ヶ月前に、突然・・・・。」
 悪い冗談じゃないの。あのチエが、死んだ・・・。
 信じたくない。しかし店員の態度に、それが真実だと実感させられる。
『エナー』
 頭の中に、自分を呼ぶ親友の声が響く。
「そうか・・・、」
 突然後ろから聞こえた声。振り向けば、寂しそうな、嬉しそうな、そんな複雑な顔をした男がいた。そしえ、男は女の顔を見つめながら言った。
「あなたが『エナ』・・・。」
 男の声が、顔が、女の思考の全てを支配して、女は男の言葉に疑問を感じなかった。
 エナ―――それは男が知るはずのない、女の本名だった。


「チエコは、私の大切な娘でした。」
 あの後、男に促されるまま店を後にし、今は近くにあった公園のベンチで2人で並んで話していた。
「娘?じゃあ、チエのお父さん・・・?!何で・・・、」
 その後は続かなかった。聞きたい事はいっぱいあった。ありすぎて、どれから聞けばいいのかも分からない。
 男もどう話せばいいのか分からず、しばらくお互いの間には沈黙が流れた。
 先に口を開いたのは女だった。
「私の事、知ってたんだ・・・?」
「えぇ。チエコはいつもあなたの事を話していましたから。」
 その言葉に、女は心の底が温かくなったのを感じた。
「チエは・・・、チエだけが、私を見てくれたの。」
 女が話し始めた事で、男は女の方に視線を向けた。女は立ち上がり、少し歩きながら話を続けた。
「私の親はいっつも喧嘩ばっかりで、お父さんもお母さんも他に好きな人が出来て、でも別れなかったの。世間体気にして。バカだよね。近所の人が何て言ってたか知らないんだから。『愛がないのに別れない、体だけの夫婦だ』って。お陰で、子供の私までそんな目で見られて。まぁ、こんな仕事してたら反論できないんだけど・・・。でも、でもね、チエは違ったの。私の事、『大好き』って言ってくれたの。親にも言われたことなかったんだ。私、チエにだったら何でも話せた。チエは私の学校時代の唯一の友達だったの。最近は連絡とってなかったけど、この仕事するって言った時も『後悔しないならいいと思う。エナは自分の事ちゃんと大切にする子だから、心配ないね』って言ってくれたんだ。私はチエの事忘れた日なんてなかった・・・。なのに、なのに・・・・・・。」
 女が言葉を詰まらせ、その場に立ち止まった。暗くてよく見えないが、女の顔には涙が流れていた。
「エナさん・・・?」
 男が話しかけると、女は勢いよく顔を上げた。その顔に涙の影はなかった。
「ブランコの方行っていい?」
 女の言葉に、男は頷いて、2人は並んでブランコへと移動した。
 男はブランコの周りの柵に腰を下ろしたが、女はブランコに腰掛ける。子供用のブランコはやはり低い。だが、このブランコがちょうど良かった子供時代、その頃の記憶には必ずチエがいた。
「チエ、ブランコが好きだったの。知ってた?」
「いえ、初めて知りました。」
 女が言った事に、男は本当にはじめて知ったという表情を見せた。
 そして、今度は男がポツリ、ポツリと話し始めた。
「私の家庭は、冷め切っていました。チエコが生まれる前、私と妻はお互いの顔をほとんど見ない生活だったんです。でも、チエコが産まれた時、私と妻は一緒に喜びました。その瞬間、夫婦になれるかもしれないと感じたんです。でも・・・、それも夢物語でした。チエコが産まれても、妻の生活に何一つ変化はありませんでした。」
 女もその事は親友から聞いていた。『お母さんは、私の事嫌いなの』そう言った時の彼女の顔、子供のものとは思えないほど大人びていたのを、今でもはっきり覚えている。
「今も、妻は娘が亡くなった事を悲しみはしたものの、もう自分の恋人である男性の事しか考えていないんです。私はチエコを愛していました。だから妻の行為が許せない。今度こそ、終わりでしょう・・・。」
 そういった男の顔は辛そうで、今にも泣き出しそうに見えた。女はブランコから立ち上がり、思わず男を抱きしめていた。
「エナさん・・・?」
「私も、辛いよ・・・。チエがいなくなったのが、本当に辛い・・・。」
 女の言葉に、男は目頭が熱くなる。ここにいた。娘がいなくなった事を、死んでしまった事を心から悲しんでくれる人はここにいた。
 そして、2人はしばらくその場で悲しみにくれた。


「奥さん、別れてくれるの?」
 女の正直すぎる質問に、男は苦笑いを浮かべ答えた。
「そうですね。どちらかというと、妻が別れたがっていたのを私が引き止めていたというのが正しいでしょうからね。喜んで別れるでしょうね。」
「そっか・・・。寂しい?」
「・・・。家にいることがほとんどない妻でしたが、いなくなってしまったら寂しくなるでしょうね。」
 その言葉を聞いて、女はベンチから立ち上がり、男の前に立った。
「?」
 いぶかしげに見上げる男に向かって、女は小さな声で呟いた。
「私じゃ、奥さんの代わりにはならないかな・・・?」
「えっ?」
 冗談かと一瞬思った。しかし女の表情は、その言葉が冗談ではない事を確信させた。
「私、タカさんの事、ずっと見てたんだ・・・。気付かなかったでしょ。私、隠れてたから・・・、タカさんがお店に来た時。」
「どうして?」
 やっと男が声を発した。その問いに、女は照れたように笑いながら答えた。
「きっとすごく、嫌な顔をしてたから。鏡見た事なかったけど、タカさんが、別の子とお店に来たら、私嫌な気分がしてその場にいたくなくなったの。タカさんは、女の子を1回で変えるのでも有名だったけど・・・、でも、でももしも次の子を気に入ってしまったら、この子がタイプだったら・・・、ってそんな事ばっかり気になって。」
 そこで女は一息ついた。男は何も言わないで、女の次の言葉を待っている。女は話し続けた。
「私は、ずっとあなたを見てきたの。あなたがチエのお父さんでもいいの。ただ・・・、ただあなたの傍にいたいの。あなたと一緒に生きたいの。」
 そこで女は視線を男から逸らした。そして、寂しそうに笑いながらこう言った。
「・・・・・・ごめんなさい。こんな話、迷惑なだけだよね。」
「何故、」
 男が口を開いた。再び自分の顔を見た女の顔を、しっかりと見返しながら続ける。
「何故、私が『Moon』に通い詰めたか分かりますか?チエコから聞いていたんです。『エナという親友が、そこで働いている』と。私はあなたを探していたんです。」
「えっ?」
 今度は男が、少し照れたように笑いながら話す。
「チエコが小さい頃からずっとあなたの事を聞いていて、私はあなたに会いたくなった。・・・いえ、はっきり言います。あなたが私の中で大きな存在になったんです。私は・・・、私は会ったこともないあなたに惹かれていたんです。チエコが死んでしまって、私は1人になりました。そして、あなたに会いたくなったんです。この道を通るのは、待っていたんです。あの店に気付いてくれる『エナ』という少女に会うのを。そして、私はあなたに会えました。」
「それって・・・?」
 男は立ち上がり、女の前に立って聞いた。
「軽蔑されますか?娘の友達に恋愛感情を抱いてしまった父親を。それとも、この気持ちを受け入れてくださいますか?」
 男の言葉に、女は涙があふれ、目の前で困ったように立っている男に抱きついた。
「決まってるじゃない。私は、私はずっと、・・・ずっとあなたを・・・。」
 真夜中の公園で、2人の男女は初めてお互いを必要としてくれる異性に出会った。






〜チエコ〜

「やっぱり、ウサパンダは人気があるなぁ。」
 深夜の住宅街。そこにあるファンシーショップの店長である女は、店を従業員に任せて在庫の確認をしていた。
「よし。やっぱり、この商品は大量入荷決定。絶対売れる。」
 在庫の確認をしながら、女は次々とメモを取っていく。
 その時、女は後ろにかすかな気配を感じた。
「誰?」
 返事はない。気のせいかと思い、再び在庫の確認をしようと思った女の耳に、聞いた事のない声が聞こえた。
「チエコ・・・。タクヤの思い人・・・。」
 今度は気のせいなんかではない。女は勢いよく後ろを振り向くが、やはりそこには誰もいなかった。
 いや、女は見た。棚と棚の間に、微かだが『何か』がいるのを。人の入れるようなスペースではない。では、何?
「何?」
「我は、ヘド。人に作られしモノ。」
 女に問いに、影は素直に答えた。しかしその言葉は女には理解できなかった。
「ヘド・・・?」
「我は、ある者に作られた。我は、タクヤを殺すためにこの世に生を受けた。」
「タクヤッ?!」
 女は驚いた。女の恋人を殺す、そう影は言った。
「どうしてッ?!」
「我はそのためにこの世に生を受けた。」
 影は先程と同じことを繰り返した。
 女はさらに、影を問い詰める。
「何故?誰に作られたの?どうしてタクヤを?」
「知らぬ。」
 影の答えに、女は絶句した。理由も知らずに人を殺すと言うのか、この影は・・・。
 乾いて声が上手く出せない。それでも女は声を絞り出して質問した。
「あなたは、それでいいの?」
「・・・、どういう事だ?」
 今度は影が質問した。女は影に近づきながら、震える声を抑え答える。
「あなたは、人を殺したいの?」
「考えた事などない。我はその為にだけ、この世に生を受けた。人を殺すためだけに。」
 この言葉を聞いた瞬間、女は思わず怒鳴った。
「そんな訳ないでしょ!」
 女がいきなり大声を出した事で、影はびっくりしたように小さくなった。
 しかし女はそんな事も気付かず続ける。
「人を殺す為だけに生きてるなんて、そんな訳ないじゃない。この世に生きるものは全て、神様から生かされているのよ。それを・・・。お願いだから、そんな悲しい事言わないで・・・。」
 最初は怒って大声で話していた女の声は、最後の方は、消え入りそうな程小さくなっていた。そして、女は知らず知らず涙を流していた。影はそれに気付き、女に近寄った。
「泣かないで欲しい。我は、あなたを泣かせるために生まれたのではない。」
 女は影を見た。小さな、子犬のような形をした生き物だった。いや、これを生き物と呼んでいいのかは、分からない。だが、影だと思ったのは正しかった。真っ黒で、目も、耳も、口すらなかった。でも、この生き物は確かに喋っている。
 影はもう一度、女に向かって言った。
「泣かないで欲しい。」
 その言葉には、困惑の感情が読み取れた。この影は困っている。女はそう思った。そして、その思いは疑問となって、口から出てきた。
「どうして、困っているの?」
「あなたが泣いたからだ。」
 影は顔(と思われる所)を上げて、女の顔を見上げる。
「タクヤを殺さないで・・・。」
「それは出来ない。」
「どうして・・・ッ?!」
「我は人を殺す為に生まれた。そして、我を作りし者は『タクヤを殺せ』と命じた。だから、その者を殺す。」
 何の迷いもなく影は喋る。先程までの困惑の感情など、一切感じなかった。本当に、自分はその為に生きていると思っているのだ。
 女はそんな影が可哀相だった。そしてその思いは、涙となってまた溢れた。
「あなたは、可哀相・・・。」
「我が?」
「そう。人を殺す為に生きるだなんて、それが生まれてきた意味だなんて・・・、可哀相・・・。」
 一度その思いを口にすれば、次から次へと言葉が溢れて止まらなかった。
「人は、何か意味があって生まれてきたの。でもそれは人を悲しませる為じゃなくて、人を幸せにする為。だけどあなたは、人を殺す為に生まれてきたって言う。私は、それが悲しい。」
「何故?我からそれを奪ったら、我は何のためここにいる?意味のない存在だ。」
 影の言葉に、女は悲しそうに笑いながら呟く。
「同じ事言うのね。」
「同じ・・・?」
 女の言葉を繰り返した影に、女は頷く。
「タクヤと、同じ事言うのね。」
 影がピクリと反応したのを見ながら、女は話し始めた。
「タクヤは、両親がいないの。ううん、いたけど、タクヤを置いて2人で逃げたの。タクヤ言ってた。『朝起きたら、母さんも父さんもいなくって、帰ってくるのずっと待ってた。でも、何日待っても帰ってこなくて、近所の人が警察に通報して、俺はそれから施設に預けられた』って。タクヤは、自分は必要のない人間だと思ってたの。何のために生きてるのか分からない、どうして自分が生きてるのか分からない、って言ってた。」
「その時、・・・・・・その時、お前は何と言ったのだ?」
 影が呟くように女に尋ねる。女は昔を懐かしむように喋り始める。
「『私の為に生まれてきたんだよ』って言ったの。『私は、とっても純粋なタクヤが大好きよ。置いていった両親を恨まないで、『苦しかったんだ』って、『子供だったとはいえ、俺は気付いてやれなかった』って、そう考えられるタクヤの純粋な心が大好きだよ。私は、あなたとなら幸せになれる。だから、私の為に生まれてきたの』って。納得してくれたかは分からないけど、タクヤ『そっか』って。」
 女が喋り終わると、沈黙が流れた。


 しばらくしてから、影がポツリポツリと話し始めた。
「我は、形より先に思考を持った。『殺す為、人を殺す為に我は作られている』と。実体を持った時、我は初めて我を作った者に会った。そして聞いた。『お前は我に誰を殺して欲しいのか?』と。『タクヤ』。そう答えた。我は、そなた達とは違う。だから、人を殺す為に作られた以上、殺さねばならない。それが、タクヤだったのだ。」
 影の声には、先程とは違う響きが感じられた。悲しいような、困っているような・・・。
(戸惑い・・・?)
 女はそう感じた。影は自分が持っていた『そうしなければいけない』という使命感と、女の言葉とのギャップの間で戸惑っている。
 だが、使命感だけは選んで欲しくない。もしそちらを選んだのなら、恋人は死んでしまう。
 最後の望みをかけ、女は影に聞く。
「ねぇ、ヘド。どうしても、殺さなきゃいけないの、タクヤを?その気持ちだけは変わらないの?」
 一瞬の間を置いて、影は答える。
「タクヤでなくてはいけないという事はない。それは我を作りし者が望んだから、そうするだけだ。だが、誰かを殺さなければいけないという事だけは変わらない。」
 その言葉を聞いた時、女は静かに言った。
「じゃあ、私を殺して。」
「?!」
 影がバッと、女を仰ぎ見る。女の表情は真剣で、思わず言ってしまったという訳ではない事を、言葉以上に感じさせた。
「なぜそなたが死ぬ?」
「タクヤを死なせたくないから。」
「怖くないのか?」
「怖いわ。」
 女の声は微かに震えていた。それでも女は言葉を続ける。
「死んだらどうなるのかなんて分からないし、まだやりたい事だってある。お店だってオープンさせたばかりだけど、でもそんな事よりも、タクヤの事の方が大事だから。だから、私を殺して。タクヤには死んでほしくない。」
「タクヤが悲しむのにか?」
「ヘドはさっき、タクヤを殺そうとしたよね。私が悲しむの分かってても。それと同じかもしれないね。」
 影はハッとした。先程までは、どんなに静止されてもタクヤを殺そうとしていた。
「私は、我が侭だね。タクヤが死ぬのは私が悲しいから嫌。でも、タクヤが悲しんでも、私は死ぬ。・・・でもねヘド、私はタクヤに生きてほしいんだ。生きる意味を見つけてほしいんだ。私があげた『その場しのぎ』の薄い言葉じゃなくて、本物の、心からタクヤがそう思える、自分の生きる意味を。だから、ヘド。」
 女に促されても、影は踏み切れなかった。何故、この女を殺す事がこんなにも躊躇われるのか。影は分からなかった。
「どうしても、死にたいのか。タクヤの変わりに?」
「うん。」
 決意は揺らがない。ヘドは数秒間迷い、そして決断した。
「了解した。お前を殺す。・・・・・・タクヤに別れの言葉を言う時間くらいならやろう。」
 影の言葉に、女は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。そしてポケットから携帯を取り出し、慣れた順序でボタンを操作した。
 一瞬の呼び出し音の後、慌てたような恋人の声。彼はもしかしたらこれから先の事を、何となく気付いているのかも知れない。
「・・・・・・タクヤ?ゴメンね。私、今から死ぬの。・・・驚くよね。でもね、私が選んだ事だから、気にしないで、っていうのは無理だよね・・・。タクヤのせいじゃない事だけ、分かっててほしかったの。私、あなたに会えて幸せだった。あなたは私のために生きてるって言った気持ち、嘘じゃないよ。私、あなたと過ごした時間を、絶対忘れない。でもね、もう自分で生きてる意味を見つけて。私はもう、あなたの意味にはなれないから・・・、だから、だからね、何言ったらいいか分かんないけど、これだけははっきり言えるよ。」
 女の頬に涙が伝うのを、影は少し離れた所で見ていた。
 女は影の視線に気付かず、最愛の人に最後の言葉を掛ける。
「ありがとう。さようなら。」
 そして女は携帯を切った。
「終わったか?」
 影の声に、女は伏せていた顔を上げ、影に笑顔で頷いた。涙で濡れたその顔を、影は美しいと思った。
「痛みはない。魂を抜くだけだ。」
「うん。・・・ヘド、ありがとう。」
 影が女を見た時には、女にはもう表情がなかった。静かに目を伏せ、その場にまるで眠るようにして息を引き取っていた。
「ありがとう・・・?我に?」
 影はもう何も言わない女の前から、しばらく動かなかった。そして、自分の中に芽生えた新しい感情を感じていた。しかし、それが何と言うものなのか、影には分からなかった。






〜シゲ〜

 あるマンションの一室。そこに1人の男がキャンパスに向かっていた。
 男は目にかかる髪を気にも留めないで、一心不乱にキャンパスに絵を描き続ける。そこには、1人の女性の姿が描かれていた。
(チエコ・・・)
 それが女の名前だった。女はこの近所にあるファンシーショップの店長だった。
 男が最初に女に会ったのは、姉に生まれた女の子にプレゼントする物を買いに来た時だった。男は女に一目惚れした。
 それから男は何かと理由をつけてその店に通った。絵を描く為の題材になりそうな物、色がたくさん使ってある物など、そこに行く理由があれば何でも良かった。
 女も男を覚えてくれたらしく、買いに行けば話しかけてくれるようになった。それだけで良かった、それだけで男は満ち足りていた。
 しかし、男は見てしまった。女が、別の男と楽しそうに話しながら歩いているのを。何も知らない人間が見たって、2人が恋人同士であるのは一目瞭然だった。
 それからは、男の女に対する気持ちは変わった。会えれば幸せだった日々が、苦痛以外の何ものでもなくなった。恋人がいる。自分がいるのに、きっとあの男以上に女を愛している男がいるのに・・・。
(奪ッテシマエバイイ、イヤ、取リ返スノダ。タダソレダケノ事)
 その考えはあっさりと男を支配した。
 男はありとあらゆる事を調べ上げた。女の事だけでなく、恋人気取りのあの男の事も。
(タクヤ・・・、チエコヲ奪ッタ男。許サナイ)
「うっ・・・!」
 キャンパスに向かっていた男が、急に椅子からすべり落ちるように倒れた。
 油絵の具の匂いがより濃くなる。少し先に筆が落ちる。しかしそんなことにも気付かず、両手で心臓を押さえながら、男は苦しげにもがく。
「ッはぁ!!あっ、・・・はっ!・・・・・・はぁ、はぁ・・・。」
 しばらくして痛みは引いた。その場に倒れたまま、浅い呼吸を何度も繰り返す。ここ最近、ずっとこの胸の痛みに襲われている。
 病院に行っても原因は分からなかった。多少の栄養不足はあったが、男の体は健康そのものだった。
「・・・死ぬわけにはいかない。」
 体を支配した痛みは消え、男はまだダルさで悲鳴を上げる体を何とか起こした。額や背中、全身に脂汗が伝っていた。
 とりあえず、目の前に落ちている筆を拾い、キャンパスや道具を片付け、男はシャワーを浴びた。服も換え、気分もすっきりしたが、体を支配するダルさは拭い去れなかった。
 空はまだ夕方も告げてはいなかったが、男はベッドにその身を預ける。
 すると疲れがじわじわと体の奥から湧いてきて、男をあっさりと眠りの世界へといざなった。


 夢の中で、男は暗い空間を歩いていた。上下の感覚も確かでないそこを、男は何の躊躇いもなく歩いて行く。
 そして、男の目の前に扉が現れた。男は重厚そうなその扉の取っ手に手を掛けた。そして、勢いよくその扉を開けた。


「・・・・・・ッ!!」
 男は弾かれる様に飛び起きた。扉の中から『何か』が現れ、男の体を通り抜けるように消え去っていったのだ。
 どれほど眠っていたのだろう。いつの間にか外は真っ暗になっていた。
 ひどく喉が渇く。体が熱い。風邪でも引いたか・・・。
「水・・・。」
 水を飲もうと、足を床につけた時、
ドクンッ
「ッ!!・・・ーーーーーッ!!」
 体の奥で何かが脈打った。そう感じた瞬間、体中を痛みが駆け巡る。男はあまりの痛みに声にならない叫びを上げる。
 柔らかいベッドの感触すら男には苦痛の道具にしかならなかった。体が痛い。目が霞む。目の前が真っ白になる。頭がズキズキする。この体が疎ましい。この体を捨ててしまいたい。この痛みから解放されたい。
 今までの胸の痛みとは違う。今度こそ死ぬのか、そう思った時、男の脳裏には最愛の人の姿が浮かんだ。
(チエコ・・・)
 そして次に浮かんだのは、勝ち誇った顔をしてチエコを肩を並べるあの男の顔。
 男の顔が浮かんだ瞬間、男の体を痛みではなく、憎しみが支配した。
(死ねない。・・・・・・チエコヲ取リ戻スマデ・・・アイツヲ殺スマデ!)
「・・・あいつを・・・、あいつを殺すまで、死んだりなんかしない!」
 痛みを打ち消すかのように叫ぶと、男の影が膨れ、その中から黒いものが飛び出した。
 それはまさに影だった。犬のような姿をしていたが、目も、口も、耳もなかった。影は男の前にふわりと浮かんだ。
「我を作ったものはお前か?」
 驚きと、疲労と、非現実すぎるこの光景に、男は一瞬言葉を失った。影はもう一度繰り返す。
「我を作ったものはお前か?」
 男は首を上下に振るだけしか出来なかった。まだ男の肩は激しく上下に動いていた。
「我はお前に作られた。ならばお前の願いを叶えよう。誰を殺して欲しい?」
「!何、だと・・・ッ?!」
 影の言葉に、男は乾ききって張り付く喉を無理に震わせて声を絞り出した。
「我はお前に作られた。誰かを殺す為に。しかし、我はまだ不完全なままこの世に生まれてしまった。故に、誰を殺すのか分からぬ。我は誰を殺せば良い?」
 影の言葉は男にはほとんど理解できなかった。しかし、一つだけ飲み込めた。
(俺の変わりに、誰かを殺してくれる―――)
 そんな者、この世に1人しか思い浮かばなかった。
「タクヤ。」
「タクヤ。・・・了解した。」
 そう言うと、影はフッと消え、辺りに静寂が訪れた。
 しかし、男には影がどこへ行ったのか分かった。殺しに行ったのだ。タクヤを、チエを奪ったあの男を。
(コレデ彼女ハ救ワレル。俺ノモノニナル)
 そう思うと心の底から笑いが起こってきた。彼女が手に入る。いや、戻ってくる、自分の下に。
 ベッドに腰掛けたまま、男は勝利の快感に笑い続けた。
ピンポーン
 男の部屋に、インターホンの音が響く。そして次に聞こえてきたのは、男のよく知る女の声だった。
「シゲ。私よ。開けて。」
「アケミ・・・。」
 男は皮肉なほどのタイミングで現れた女の名前を口にし、玄関まで歩いていった。
 扉を開けると、見慣れた白のワンピースに品のいいカーディガンを羽織った女性が立っていた。栗色の髪に軽くパーマをあて、ほとんど必要のない化粧をうっすらした顔は、女の実年齢よりも10歳は余裕で若く見える。女は、男の最愛の人の母親だった。
 女は男が玄関に姿を現した瞬間、嬉しそうに微笑みながら抱きついた。
「シゲ、会いたかった・・・。」
 自分よりも頭2つほど小さいその人の腰に手を回しながら、男は優しい声で語りかける。
「俺も。・・・入って。」
 男の言葉に、女は幸せそうに頷いた。


「あの人、別れてくれそうなの。」
 男の部屋に入り、慣れた動作で紅茶を淹れながら、女は唐突に切り出した。
「・・・そう。」
「嬉しくないの?やっと、私達一緒になれるのに・・・?」
 女の不安そうな顔に、男は一瞬で笑顔を張り付かせ答える。
「嬉しいさ。長かったな、って思ってね。アケミに出会ってから、もう半年も経つんだね。」
「えぇ。」
 女は男の笑顔に笑顔で返し、紅茶をトレイに載せて持ってくる。アールグレイの匂いが、油絵の具の匂いを打ち消す。
 男は仮初めの恋愛の中で、この時間は好きだった。女の淹れる紅茶は、女の雰囲気をそのまま移したようだった。控えめでいて、自分の存在を決して埋もれさせない。この匂いが部屋に漂うと、男は自分の目の前にいる女を好きなのかもしれないと感じてしまう。
 だが、あくまでもこの恋は偽物なのだ。女は男の最愛の人に生き写しのように似ている。当たり前だ。女は最愛の人の母親なのだ。だから男は女と関係を続ける。
 だがそれも終わりだ。
 自分に寄り添いながら、自分達の将来を語る女に適当に相槌を返しながら、男は次に女が来た時に上手く女との関係を断つ方法を考えていた。
 この女はもう必要ない。何故なら、モウ最愛ノ人ハ手ニ入ルノダカラ―――。


 チエコが死んだ。
 それはあまりにも唐突で、あまりにも静かだった。テストも終わり、数ヶ月ぶりに店に行くと、女がいるはずの時間に閉まっていた。不思議に思っていたら、丁度良く店から顔馴染みになった店員が出てきた。男が質問をぶつけると、店員は悲しそうに女の死を告げた。
 何故、何時、どうして。そんな事男にはどうでも良かった。いくら考えても女はかえってこない。それに、男は考える事をもう放棄していた。
 何故なら―――男ノ世界ハ崩壊シタノダ
 少しでも最愛の人に近づきたくて、男はマンションの屋上へ上がった。
 柵にもたれながら、男は世界を見渡した。下の方では、女の死を知らない人間達が今日も自分の人生を歩んでいた。
(何故世界は変わらない・・・?)
 女が死んで、男の世界は色を失った。何も美しいと感じない、何の希望もない、そんな世界で生きていけと言うのか。
 ふと空を見上げれば、女のいるであろう世界が見えるかのような澄み渡った青。女がいる世界が向こうにある。そう思うだけで、色を失った男の世界で唯一鮮やかに主張する青。
 男はそこに行きたいと思った。この世界はもう男に何の希望もくれない、最愛の人はあそこにいる。
 ふ、と男は女が微笑んでいる幻を空の彼方に見た。きっと女は自分を待っていてくれているはずだ。
「今行くよ。」
 そう呟くと、男は柵を越えた。
 澄み渡る青い空の彼方にいる女に会う為に、男の体は色のない世界に落ちていった。






〜アケミ〜

 目の前に差し出された紙を、女はとても落ち着いた気持ちで見つめていた。
 2ヶ月前、男に渡した時には、女の名前しか書いてなかった。しかし、今女の前に差し出された紙には男の名前も書いてあった。
 何度この瞬間を夢見ただろう。そう思いながら、女はその紙を前にして、ひどく落ち着いている自分に驚いていた。
「やっと、ですか・・・?」
 男に問いかける声にも、嬉しさや喜びの種類の雰囲気は感じられない。女は自分の声を、誰か他人の声のような気分で聞いた。
「あぁ・・・。すまない。」
 対する男の声には、本当に申し訳ないと思っている雰囲気が感じられた。


 女はつい15分くらい前に、家に帰ってきた。そして家の中の様子に少なからず驚いた。
 元々、家具も置物も必要最低限の物しかなく、広い印象だった家がもっと広く感じられた。いや、あまりにも閑散とし過ぎていた。
「アケミ・・・。」
 名前を呼ばれて階段を見上げると、踊り場で男が困った様にこちらを見ていた。腕にダンボールを抱いている。よく見れば、玄関の隅に同じようなダンボールが何個も積み重なっていた。
「・・・・・・。出て行かれるんですか、あなた?」
 女は久しぶりに男に対して口を開いた。男は女が自分に対し口を開いた事に驚いたようだった。
「あぁ。・・・・・・アケミ、話がある。」
 久しぶりに見た男の顔には、何かを決意したような雰囲気が感じられた。


 そして今、目の前には女が何よりも心待ちにしていた状況が現れた。
 男はこの家を出て新たに暮らし始めるらしい。誰か新しい女と。
(どうでもいいわ、そんな事。本当に律儀な男)
 女は最初から男を好きになろうなどと思わなかった。合わない。最初の印象は間違ってはいなかった。最後の最後まで、女にはこの男が理解できなかった。
「それで、アケミ。お前はどうする?この家にいるか、出て行ってたとして、その当てはあるのか?」
 答えなど決まっている。この家になど、残るものか。それに、自分にはもっと素敵な未来が待っているのだ。
 女は初めて笑って、男に向かって言った。
「出て行きます。当てはありますから、ご心配なく。」
「・・・そうか。」
 それで話は終わりだった。女と男の間に、これ以上の会話は生まれなかった。その雰囲気を2人は感じ、すぐにその場をたった。
 女は自分の部屋に。男は荷物の整理に。


 その週の日曜、男は最後の荷物を車に乗せた。助手席には、男の新しい妻が座っていた。長いストレートの髪に、細身の体、最近水商売をやめて、どこかのファンシーショップだかに就職したらしい。
(水商売に行く甲斐性はあったのね)
 その事実にも、女は何も感じなかった。同じ家に住む他人、2人の関係はそれ以下だった。
「それじゃあ、お前の方も引越しが終わったら連絡してくれ。手続きは私の方で済ませる。」
「分かりました。」
 それだけの会話で、車は去っていった。去り際に、助手席に座っていた女が自分に対し頭を下げたように見えた。
「いいのに。元々、愛がない夫婦だったんだから・・・。」
 そう、愛がない形だけの夫婦が、お互い愛を見出せる相手を見つけ離れるのだ。むしろ、彼女には感謝をするべきだろう。やっと自分は解放されたのだ。
「シゲ、やっとあなたと一緒に・・・。」
 家の整理など、しなければいけない事があったが、女はまず何より、自分が自由になった事を男に言いたくなった。ここ2ヶ月近く、彼はテストが忙しいといって会う事が出来なかったのだ。
「きっと喜んでくれる。」
 そう思うと、いてもたってもいられず、女は身なりを整えると家を出て、慣れた道を歩き始める。
 男の住むマンションが近くなって、目で確認できる。走り出したい衝動を抑え、女は自分が幸せな顔をしている事を感じていた。
 信号待ちをしている時、横にいる女達の話し声が聞こえた。
「飛び降り自殺ですって。」
「いやねぇ、最近こんな事ばっかりで。」
「しかも、近所で。怖いわねぇ。」
「1人暮らしだったんでしょ。溜まってたのかもしれないわねぇ。」
 そんな話を聞きながら、女は笑っていた。自殺してしまった人には悪いが、その事実すら、女が幸せを感じる要因となった。自分は幸せになるのだ、彼と。
 信号が青に変わる。女は歩き出す、輝ける自分の未来に向かって。後100メートルの所で、救急車とすれ違った。
 しかし、女はその事にも気付かなかった。






〜タクヤ〜

 チエが死んだ。その事実を、青年は思いのほか冷静に受け止めていた。
「『私が選んだ事だから気にしないで。あなたの生きる意味をあなたが見つけて』か・・・。」
 青年がポツリと呟いた言葉を聞いた者はいなかった。そうだろう、深夜の住宅街に人いたらその方が不自然だ。
 アパートへの角を曲がろうとした瞬間、住宅街に突然大声が響いた。
「タクヤ!大変大変!」
 その声と同時に、自分の胸に飛び込むようにぶつかってきた不気味な西洋人形を、青年は呆れたように持ち上げる。
「ウメ、うるさい。夜中なんだから、もう少し静かにしなさい。それに、今俺は考え事を・・・、」
「そんな場合じゃないんだってば!」
 子供に言い聞かせるように注意を始めた青年の言葉を、人形は更なる大声で止める。
「・・・、何が大変なんだ?」
「『アイツ』がいるの!」
 その言葉に、青年は凍りついた。チエが死んで半月が経った。何故今また現れる。
「どうして・・・?」
「わかんない。でもいるの。あいつ、部屋の中にいる!」
 青年はとりあえず、アパートの前まで戻ってきた。そこには、ウサギのぬいぐるみがいて、青年達を待っていた。
 ぬいぐるみは、青年が戻って来たのを見ると、青年の所まで飛んでくる。
「ロコ、アイツが・・・ッ?!」
「まだ部屋にいるよ。」
 青年の言葉に、ぬいぐるみは答える。青年は自分の部屋を見上げる。
「どうするの?」
 青年の腕の中で、人形が不安そうに尋ねる。青年は一度人形とぬいぐるみに微笑み、そっとその場に下ろす。
「坊や?」
「行って来る。」
 青年の言葉に、2体はもちろん驚いた。
「どうして?!だって、あいつ・・・ッ!」
「だから行く。聞かなきゃいけない事がある。」
 それだけ言って、青年はアパートの階段を上がり始める。
「ロコ。聞かなきゃいけない事って・・・?」
「まぁ、あの子の事だろうねぇ。」
 それきり、2人は青年が戻ってくるのを物陰で待つことにした。


 アパートの階段を上りきると、そこには見慣れた自分の家のドアがあった。
 半月前、青年はここで恐怖を味わった、そして絶望を。このドアの向こうにいるものから、青年は大切なものを奪われた。
「確かめなきゃいけない。」
 誰にというわけではなく、己に向かって青年は呟き、ドアを開ける。
 そこには暗闇が広がっていた。
「灯りくらい点けてくれていてもいいんじゃないか?」
 青年の言葉に、部屋の中にいるそれが息を潜めたのが分かった。
 何の反応も返ってこないので、青年は靴を脱いで部屋に上がった。慣れた動作で灯りを点ける。
 そこには、影がいた。
(これが・・・、)
 それは犬のような影だった。しかし、顔も、耳も、口もなかった。その影は、今は部屋の隅で小さくなって(これが普通かもしれないが)座っている。青年は影に近づいた。
 青年が近づいた瞬間、影はビクリッと震えた。その反応に、思わず青年も歩みを止める。
 しばらくお互いはそのまま動かなかった。しかし、痺れを切らして青年が再び口を開く。
「お前が、チエを殺したのか?」
 『チエ』の言葉に、影は先程より大きくビクつく。
「?・・・どうし・・・、」
「確かに、我が殺した。」
 必要以上にビクつく影を不審に思った青年が話し掛けようとした時、影から声が聞こえた。そしてその答えは、青年が一番聞きたかった事だった。
 冷静に、次々浮かぶ疑問を理性で抑え、先程までの距離を保ちながら、青年は腰を下ろす。
「どうして?」
「チエが望んだ。お前の代わりに自分を殺してくれ、と。」
 影の言葉に、青年は顔をバッと上げる。驚きで声が裏返る。
「俺の代わり・・・?!」
「そうだ。」
 言葉が出てこなかった。様々な思いが頭には浮かんで消える。何を考えているのか自分でも分からない。
 でも一つだけはっきりした。ずっと疑問だった、女の最後の言葉。
「だから『俺の所為じゃない』って言ったのか・・・。」
 青年の呟きに、影は何も言わなかった。ただ、じっと青年を見ているように見えた。
 そして、またしばらくの沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは、意外な方の意外な言葉だった。
「すまぬ・・・。」
「えっ?」
「我が恨めしいなら、そう言えばいい。お前にはその権利がある。」
 あまりにも唐突な謝罪と、意外な言葉に、今度こそ何も言えなくなった。影はただ淡々と言葉を続ける。
「我はお前を殺すため作られた。それは間違いない。だが我は、不完全なままこの世に生まれた。誰を殺すのかははっきりしないまま生まれてしまった。だから、我を作りし者に尋ねた。我を作りし者はお前を殺して欲しいと言った。だからお前を殺しに来た。だが、我にはまだその力がなかった。だから去った。そして、ふと思った。チエを見てみたいと。」
「何故?」
 意外と冷静に目の前にいる影と話している自分に、青年は素直に驚いた。
「恋人がいる者を殺す。残された者はどう思うものなのか。それが何となく気になった。」
「何となく?珍しいな、曖昧だなんて。」
「珍しくなどない。チエという女に会い、我は自分でも理解できない感情ばかりが出てきた。」
「理解できない、感情・・・?」
 影は一層自信なさ気に答える。
「チエに会い、我は全てを語った。するとチエは我の為に泣いた。『人を殺す為に生まれてきた我が可哀相』と。我はそう思った事などない。なのに、チエはそれすらも可哀相だと泣いた。・・・我にはそれが理解できなかった。そして、女が泣いた事が申し訳なく感じた。・・・我にそんな感情はないはずなのに。」
「そんな事はない。」
 青年の言葉に、影は青年を見上げるような動きをした。いつの間にか青年は、影に触れられる距離まで近づいていた。
 そして、小さな影の小さな背中を撫でながら、青年は再び言った。
「そんな事はない。感情のない生き物はいない。例えお前が作られたものだとしても、ここに生きてるなら、お前にも感情はある。」
 青年は目の前にいる生き物が、不思議と可哀相に感じた。この感情をきっとチエも感じたのだろう。
 目の前にいる生き物は、自分の感情に困惑している。感情がある事にも、その感情を説明できない事にも。当たり前の事を知らない。当たり前の事を誰も教えなかったのだ。いや、知らずに生まれてしまった。それが可哀相に感じた。
「俺は、確かにチエが死んだことが悲しい。でも、お前を恨めない。恨んだら、きっとチエが悲しむから。」
 青年がこう言うと、影は青年の前に浮かんだ。
「チエが?」
「あぁ。人を殺さなきゃいけない。俺が殺されるのは嫌だ。だから、自分を殺してくれ、ってチエは言ったんだろ?」
「そうだ。」
 影が頷くと、青年は影を優しくつかみ、自分の膝の上で再び撫で始めた。その行動が、普段人形にしている行動だな、と思いながら、青年は続ける。
「チエは死んだのは自分の責任だ。お前は悪くないって言ってる。なのにお前を恨んだら、チエが怒るよ。それに、チエも言ってたけど、俺はお前が可哀相だと思う。恨めない。」
 影は青年の膝の上で、緊張で体をこわばらせていたが、青年の言葉にピクリと反応する。
 その反応を確認しながら、青年はふとこう聞いた。
「お前、これからどうするんだ?」
「どうもしない。何もせず、どこかで消えるのを待つ。」
「ここで暮らすか?」
 青年は何も考えずこう言った。その言葉に、自分でも少し驚きながら、今度は自分の意思で続けた。
「お前は何も知らない。世界の事も、自分の事も。人を殺す為に生まれ、それが終われば自分はもう用なし。それは悲しいことだよ。いつまでもいればいいよ、この家に。出て行きたければ出て行けばいいし、生きる意味を一緒に探そう。」
「生きる意味・・・。」
「俺も探してるんだ。チエはもういないから、チエの為っていうのはもう無理だから。・・・一緒に探さないか?」
 影は長いこと沈黙していた。今度は青年も、陰が何か言うのをずっと待った。
「ここに、居ていいのか?」
「いいよ。」
 その言葉に、影は顔を青年の服にこすり付けた。青年は犬のようだと笑いながら、影を抱いて外に出た。もう2体の同居人の下へ。










Another story ―タクヤとエナ―
 夜の繁華街。ここは昼は主婦や学校帰りの子供達で賑わいを見せる反面、夜にはもう一つの顔がある。
「いってきま〜す。」
 裏路地の店から1人の女が出て来た。長いストレートの髪、体の細さを強調した服。女は他の店より幾分か落ち着いた佇まいを見せる店のNo.1だった。
 後ろを振り向きそう告げる女に、店の女の子達が声を掛ける。
「今日はタカさん、ユリさんを指名なんですね。」
「気に入られるといいですね。」
 女は笑いながら答える。
「無理よきっと。私も1日限りの指名よ。」
 店に来るようになった常連客の男。1日で指名する女の子を変えると有名だった。だが女好きというような類の言葉は、彼に関しては一言も聞かなかった。皆口をそろえて「いい人」と彼を形容する。
 女はもう一度だけ「いってきます。」と告げると、店の扉を閉めた。
 駅までの道のりは短いとは言えない。片道15分は掛かる道のりを女は歩く。男は指名した女に駅前まで来るようにと言う。何故かは知らない。しかしその事に不満を挙げる者はいなかった。
 そしてもう一つ。女の店はバーの他に、女たちの色を売る。しかし男は一度も女を買わなかった。
(新しいタイプ・・・)
 そう。今まで誰もしなかった事をする男。それが店の女の子達には新鮮なのだろう。
 ぼんやりとそんな事を考えながら歩き、角を曲がろうとした瞬間、女は何かにぶつかった。
「きゃっ!」
「わっ!」
 2人同時にあがる声。次に聞こえたのは、大量に何かが落ちる音。
 見れば目の前に1人の青年が立っていた。青年は女に気付くと「すいません。」と謝り、急いで落ちた物を拾い始めた。
 女もその場にしゃがみこみ、一緒に落ちた物を拾う。
「ありがとうございます。」
「いいえ。私も前見てなかったから。」
 ウォークマンや文庫本の他、就職情報誌やバイト情報誌など、青年がフリーターである事が分かる。
 一通り集め終わり、立ち上がろうとした女は、未だに何かを探す青年に気がついた。
 不思議に思いながらも周りを見渡すと、女はある物を見つけた。
「これ、あなたの・・・?」
 それは子供用の手作りのぬいぐるみキットで作れるような、ウサギのぬいぐるみだった。青年が持つような物には思えないが、とりあえず聞く。
 すると青年は安心したような声を上げる。
「そこにいたのか。あ〜、良かった。見つかんなかったらうるさいんだよな〜、後々。」
 そう言いながらぬいぐるみを受け取る青年の鞄を見て、女は少し驚いた。
 鞄の中には、女は持つのも遠慮したいような不気味な西洋人形と、真っ黒な犬と思われるぬいぐるみも入っていた。
 その2体の横にウサギのぬいぐるみを入れ、青年は頭を下げる。
「ありがとうございました。」
 それだけ言うと去って行った。
「・・・いた?」
 先程青年はウサギのぬいぐるみを「いた」と言っていた。「あった」ではなく、間違いなく「いた」と。
 少しの間不思議に思い、青年の消えた先を見ていたが、時間が迫っていることに気付き女は慌てて駅前に向かう。
 この後、女は青年の事など何もかも忘れるような出会いが待っている事をまだ知らない。

「まーったく!あんたったら、ホントそそっかしいんだから!」
「だから、悪かったって。」
「悪かったですむなら、警察はいらないのよ!」
「そんな言葉どこで覚えてくるんだ?!・・・全く、しかもウメ。お前は関係ないだろ。」
「関係ないですって?!失礼しちゃう!その口がそんな事言うのよ?!」
「タクヤ。謝った方が早いのではないか?」
「坊や、ヘドの言うとおりだと思うよ。」
「確かに・・・。」
 誰もいない住宅街に、4つの声が響く。
 しかし人は1人の青年の姿しか確認できないだろう。誰が青年の鞄の中のぬいぐるみにまで意識を向けるだろうか。


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