―蟷螂に語る始まりの日の諸相― ……だからさ、そいつは壮大なバケツリレーってわけだ」 フカヤはそう言って、おかしそうにくくっと笑った。キラーな酒で頭がぼんやりとしている。最後の部分にしか話に集中できなかった。自分がどうしてここにいるのか分からなかった。ずっと上司の結婚式の二次会のことを思い出していた。四十人がその会に出席して十八人が三回以上吐き、グラスが八十個ぐらい割れ、アンダーワールドとプロディジーがかかっていて、トイレは随時酔っ払いに対応中だった。どうしてそんな事を思い出しているのか分からなかった。 「何の話しをしていたんだっけ? バケツリレー?」 「何にも聞いてなかったのかよ。だから人間ってやつを、いや世界を情報ってやつで見ると、無駄ばっかりって話だよ」 「ふーん。それで、その無駄はどうバケツリレーと結びつくんだよ」 彼は目をこすり、なんだったけなぁ、を五回も言い、ウィスキーかバーボンか何か知らないが、とにかく琥珀色した飲み物(きっと飲み物だと思う)を一気に飲み干した。 「そうそう、コンピューターってのは無駄が一切無いんだ。なぜかというと想定されていない環境に対処しなくてもいいからだ。そんな状況が出現すればただフリーズして固まっちまえばいい。それは理解できる? うん。それで、人間ってやつは無駄ばっかりなんだ」 「どうしてそう言えるんだ?」 「つまり生命現象というものは予測されていない自体にも対処しなくちゃいけない。コンピューターみたいにただ固まるってわけには行かない。対処できないって事はつまり死ぬって事だからさ。その結果我々ホモ・サピエンスはお猿さんから進化したといわれている。文化とか思想とかってやつもそういう不測の事態に備える一面もあるんじゃないかな? 分かる? 遺伝子もそういう種類があるらしい。遺伝子も、情報だもんなぁ。なんていうやつだったっけな。ジャンクなんとかRNA? まあ詳しい事はさっぱり分からないけど。とにかくそんなガラクタがいっぱいあるんだ。環境に適応していくためのクッションみたいなものであると高名な分子生物学者の論文に書かれていたらしいという話を聞いて、受け売りをそのまま話している最中という訳。何の話だ? ああ、そうか。つまりはそんなガラクタは悪路を走る車のバッファーみたいな役割なんだ。そのおかげで突然の障害物にも楽々と対処できる」 「それじゃあ、別にガラクタでもなんでもなくて必要なものなんじゃないか。保険みたいなものだろう?」 「それはそうだけど、進化なんて一万年ぐらいのスパンで起こる現象なんだぜ。さしあったては全く必要ない。少なくとも俺が生きている間には必要性の欠片もないものと見受けられる。けどおおかた人はそんなジャンクなお荷物で容量が一杯になっているんだ。そしていつか太陽系が消滅するまで脈々とガラクタを運ぶバケツリレーが続くという話」 「それはつまり…宇宙だとか世界だとかが、時々乗り手が変わる貨物列車みたいに長大にそのジャンク品を運び続けているといった内容を意味しているのかな?」 「感じとしては、まあそうだな。その通り」 「それは実に壮大、まさに圧巻的の一言に尽きるね」 話しながらどうしてこのような話題になったのかを僕は辿ろうとする。 「まったく世間はべらぼうに壮大すぎて神のみぞ知るってやつだね。そりゃ万物の創造主ってやつを信じたくなる気分にもなるさ。オレの疑問はというと…はたしていったい誰が何をどのような基準で無駄というものを定義するのか謎に満ちているということだ」 フカヤはろれつの回らなくなった怪しい舌で話し、顔をごしごしこすり、自問自答を繰り返している。スピーカーはサンプリングされたドラムのループを鳴らす。ぼんやりと働く女の子の姿を見ていた。バケツリレーと言う言葉は戦時中の防火訓練を思い出させた。もんぺと防空頭巾を被った人々が写っている、そんな白黒の写真をずっと昔に見たような気がした。人々は爆弾(油脂焼夷弾とかそういうやつだ)にバケツで立ち向かおうとしていた。 「無駄って言うか、非論理的なことだな。コンピューターは論理的なこと以外出来ないんだ。0と1で構成されている世界なんだ」 「何の話をしてるんだ?」 「世界のありかたの話をしているんだ」 頭ががんがんした。誰かが頭の中で鐘でも突くみたいに。僕は眠りたかった。 「世界はだから、バケツの中でいろんな物をぐちゃぐちゃとミキサーにかけてそれを伝えていってんだよ、ずっと昔から」彼は店員に日本酒の冷を注文する。 「だから俺もお前も、そのバケツの中に入ってんだ、それと同時に何かをどこかに持っていく役割を果たしているわけ。意味も分からず闇雲に」 「何のために?」 「さあ。意味があるかどうかすら分からないって今言ったところだよな。オレの話、聞いているのか?」 「うん、まあ。それなりに」 フカヤの溜息が響き、お待たせしましたといって、店員が日本酒を置いていった。空いた皿を数枚持って、立ち去ろうとする店員にお猪口をもう一つ持ってきてもらう。最悪な気分だった。そして、その最悪な気分を少しだけ楽しんでいた。 フカヤは眠そうな目をしてあくびをした。 「頭の卑しいやつが、そのガラクタの中から何かを取り出して、そいつを磨き上げてもっともらしい意味をつけるんだ。精神的ルンペン。そして、訪問販売員が奥さんを騙すみたいにこう言うんだ。『これを信じれば上手くいきますよ、これは本当に大事な事ですよ。これは真理ですよ。これがなかったらまともに生活できませんよ。』ってな具合にね」 彼は淡々と眠そうに語っていた。どうしてこんな話になったんだろう。 「じゃあ物理の法則とか、そういったものもガラクタなのか」 「そいつは意味なんか言ってないじゃないか。そいつは、人間の生きる環境について語ってるんだ。たとえば、何故物は落ちるんですか、重力があるからです、重力は何故あるんですか、大きな質量があるからです、質量って何ですか、質量とはエネルギーです、エネルギーとは何ですか、エネルギーとは大昔に起こった大爆発です、なぜ大爆発は起こったんですか。どうして爆発なんか起こったんだ?」 「さあ、どうしてだろう」 「大爆発」もう一度その単語を彼は声にしている。 「確かに物理の法則みたいな絶対的と思われているものも未来ではガラクタなのかもしれないな。けど、そういうのは、人間は何からは逃げられて、何からは絶対に逃げられないか明確にしてくれるような気もする。そういうものと出会うたびに発見者を尊敬するよ、そういうのはいろいろ示唆してくれる。そしてその多くには葛藤がある。けどここで問題にしているのはそういうことじゃないんだ。もっとクソみたいな話だ。そしてもっと現実的な話だ。世界中の罵りの言葉を集めてもまだ足りないくらいクソみたいな事についてだ。問題はそのジャンクを盲目に信奉している人々についてだ」 日本酒を口に運び、世界中の罵りの言葉を集めてもまだ足りないぐらいの事について考えた。いったいそいつはどんな形をしているんだろうな? 少しも思い浮かばなかったので、世界中の称賛の言葉を集めても称えきれないことについて考えた。それもやはりまったく思い浮かばなかった。 「やっぱりよくわからないな。そのクソについて具体的に話してくれないか?」 彼は少し考え込みながら神経質に指で机を弾いていた。 「要約すると、人々が個々に考える世界はこうであらなければならないという思い込みにまつわる数限りない思い込みを他の人々に思い込ませようとする行為。思い込みという部分を適当な言葉に置き換えてもおおむね意味は通じる。たとえば生活というものは素晴らしい音楽に満ちていなければならないという信念を持つ人が他人にそれを信じるように強要する行為。まあなんでもいいけど。オレは別にその信念が悪いといっているんわけじゃない。その強要がクソだといっているんだ。つまりは他で勝手にしてくれということ。何を信じて何を信じないかとやかく言われる筋合いは全くない」 「それは価値観の相違を認めないということ?」 「オレの言っている内容が?」 「ちがう、そのクソみたいなこと。つまり価値観が違うものを許容できない人々の取る行動にうんざりしているということ?」 フカヤはしばらく考えていたが、よく分からなくなった、といって煙草に火をつけぼんやりと天井を眺めていた。そして、そういうことかもしれないと言ってから嘲笑的にくくっと笑った。「オレの言い分に多少被害妄想じみたところも含まれていることは認めよう。だから話しから被害妄想という数値を引くと、答えが導ける。さて、その和はどのくらいになった?」 「それを真面目に捉えて答えを出さなければいけないと強要するんだったらさっさと友人関係を切断するねという感想がその和に値するらしい」 そして僕はまた話題の始まりの原因になった質問を尋ねるという過失をする。 「それでいま、フカヤは何をしているんだ?」 「話題は、やれやれ、振り出しに戻る、か」 彼は大げさに肩を落とし、首を振る 「だから言っているじゃないか。何をしてるかと尋ねられれば何にもしてないって答えるしかないなって。アタマの中がそういうジャンクの塊に埋め尽くされて固まっているんだ。容量オーバー、強制終了、只今バックアップに必要な時間待ち」 「つまり日本社会の階級制度的用語で示すところのフリーターという身分かい?」 「出来れば自由人と呼んでもらいたいね。もしくは新たなる環境に論理的に対処できない哀れな人型コンピューター。非論理性の世界では一目置かれている。フリーズする冷蔵庫。あまりにもジャンクフードを飲み込みすぎて現実に対処できなくなった本末転倒的人物としての呼び声が高い」 「それはよかった。君がそんな過大な評価を受けていて友人としても実に嬉しい限りだよ」 我々は口を閉じ、口を開いて日本酒を滑り込ませる。フカヤは席を立ちトイレに行く。僕はしばらくぐったりと体を酔いの振動に任す。 「どうしてここにいるんだろう?」と独り言をぼそりと呟く。席に着こうとしていたフカヤは不思議そうな顔をした。そして、燻っている煙草を灰皿に押し付けた。最後のけむりがふあふあと立ちのぼる。 「それは、どうしてこの世界に生きているんだろうかってことか? それともただ単純にどうしてここで酒を飲んでいるのかってことか?」 ぼんやりと働いている店員の姿を見ていた。しばらく考え込んだ。店員たちは何かの機会の一部のようにもくもくと作業をこなしている。店員たちの表情は同じような作られたものだった。自分の頭が歯車になっているような気がした。今にも歯車の噛み合わさるかたんという音が聞こえてきそうだった。きちんと回転すればまともな事絵を返せるように感じた。 フカヤが話し出す。 「まあ、一番目のことについてはお手上げだな。あたりまえだけど」 彼は大根のサラダを口に運ぶ。そして箸と自分の手を見つめる。しばらくしてこう言った。 「二番目のことなら簡単に話せるけど?」彼は咳払いする。 「オレが無事にサトリウムから抜け出す事が出来たからだよ。それで退院祝いとしてここに来ているってわけ。まあ退院したのもずいぶん前のことだけどさ」 彼はまたしばらくその収容所の生活を話す。 「ただ単にこんなに空気の悪い場所に数時間もいる事を疑問に思っただけだよ」僕はようやく答える。
フカヤはこの日、山中にいきなり現れる巨大な収容所の建物について話し、そこで起こる悲喜劇について語り、収容所にいる陽気な奇人たちのエピソードを語る。ぼくは相槌をついたり笑ったりしながらその話を聞く。ぼくは彼の左腕の傷を見る。彼は尋ねる。 「お前は何の仕事をしているって言ってたっけ? どこかから何かを持って来てそれになにかを付け足して売る仕事だよな? 何を付け足すんだった?」 「付加価値」 それから我々は過去の友人とであった時に一通り話すであろう昔の出来事について話す。彼は現在住んでいる田舎の風景について話す。 専門学校の卒業パーティーについて話す。 「まるで南極のアザラシのように静かにわけの分からない酒を飲んでいただろ?」 「アザラシは静かに酒を飲むのか?」 「さあ、南極に行ってアザラシに聞いてくれば」と静かにため息をつく。そしてメニューを仔細に眺め始めた。話の続きはなかなか始まらなかった。
自分が南極の大地に立っているところを想像した。フードにボアのついた厚手の服を着ている。鼻の脇が寒さで痛み、まつげは凍る。寝そべっているアザラシに話しかける。 「アザラシさん、アザラシさん。あなたは静かにお酒を飲むのですか? 陽気にお酒を飲むのですか。それともまったくお酒なんて飲まないのですか?」アザラシはまぶしそうに目を細めながら顔を上げる。沈黙。 「ねえ、あなた。どうして我々がお酒を飲むかどうか知りたいのですか?」アザラシは聞き返す。しばらくアザラシと見詰め合う。アザラシはこほんと咳払いをする。 「いいですよ、我々がお酒を飲むかどうか話しましょう。結果からいうと我々は日々お酒を嗜んでいます。なんたってあなた、この寒さですからね。本当なら上物のスコッチウイスキーを飲みたいところなんですけどね。」 「スコッチウイスキー?」 「意外ですか? アザラシだってそのぐらいは知っています。なんたってグローバリゼーションな世の中ですから。けれど毎日そんな上等なものはのめないのでトリスを主に飲んでいるのですけれども。」 「トリス?」 「そう、トリス。ご存じないんですか? 日本の飲料会社で造られている物です。」 咳払い。 「我々が静かにお酒を飲むか、陽気にお酒を飲むかですけれども、それは分かりません。なんたってあなた、アザラシもいっぱいいますから。けれど、大体においては静かに飲んでいるのではないでしょうか。なんたってあなた、私たちはシロクマじゃないですからね。」
「バケツリレー、次へと続く」 フカヤは首をかしげながらメニューを閉じ、そう言った。 「ああ」と曖昧に返事をする。フカヤの瞳は僕の内側を覗き込む。そしてライターを手で弄びながら続きを話す。彼と会って話すのは、我々が同じ専門学校を出てから、数回しかなかった。彼は専門学校を出るとすぐにサトリウムに収容された。
電車から降りると先程よりも多くの雪が舞い降りていた。ぼくは話を整理するために立ち止まり、また歩き出す。雪は頬に触れて溶けていく。始まりの日にフカヤと会ってからすでに一年ばかりが過ぎようとしていることに驚いてみる。彼とのやり取りのリズムを思い出そうと試みる。 家に戻り、ストーブを点火し、螳螂の住処の前に腰を下ろす。蟷螂は野菜の切れ端にへばりついている。ぼくはカマキリに向ってこう告げる。 ――今日はこのような語り口で始めようと思っているんだけど、準備はいいかい? トイレを済ました? 飲み物の準備は出来た? オーケー、じゃあ始めよう。これはフカヤと僕が専門学校に通っていた時の話だけれど…
専門学校でくだらない連中に囲まれながら僕は深海魚のように深く息を潜めていた。彼らの共通認識や連帯感といったものを僕が嫌悪したからだ。そこに馴染む事はいつまでたっても出来なかったしそのつもりもなかった。だからフカヤを除いて僕には話すことが出来る人はいなかった。 今振り返ってみると彼がいなければ僕はとても孤独だっただろう。そして周りの圧縮し歪んだ空気の重圧に耐えることができるかどうかも曖昧だった。空気を圧縮したのが僕自身だったとしても。 多くの人が僕とフカヤの関係を訝しげに思った。彼はそこにいるだけで一目置かれる存在だったのに対し、僕は存在が稀薄な人間だった。そして存在を希薄にしようと努めている人間だった。煩わしい事には一切関わらないという自分が決めた項目をきちんと守っていた。 けれどもフカヤは屈託なく僕と接する。 我々は自分たちしか理解できない言葉をいくつも作り上げそれを使って会話した。 フカヤは奇妙な性癖を持っていた。一つは新聞の死亡記事のスクラップを作る事であり、もう一つは昆虫を虐殺することだった。 彼の部屋の壁にぶら下がるコルクボードには、一つの季節が巡るたびに、季節の旬の昆虫たちがピンで留められていった。 彼は蜂やコガネムシの造詣の美しさを熱心に語った。 「見てみろよ。この輝き、完璧な対称性。オレが思うに、こいつらはどんな芸術作品よりも美しい。まったく心酔するね」 彼は虫たちに微笑みかける。 「オマエこそ正真正銘の美の心酔者だ」ともったいぶった言い回しをするフカヤを僕は彼をからかう。 彼はそれをいつも無視して陶酔した表情で虫たちを見つめる。 フカヤの話すことを聞き昆虫を眺めるうちに、昆虫たちはたしかに美しいとぼくも思うようになった。それらは腐ることなく長いあいだ輝きを放っていた。 彼も僕のことを変わっているといった。僕が廃棄物に惹かれ年中ごみを漁っては鉄屑や木材なんかを集め、それを材料にオブジェと称するものを作っていたからだ。我々はお互いを変態と呼び合った。 彼が昆虫を採取し僕が廃棄物を拾得するために我々は街を徘徊した。町工場の油の匂いや用水路のにごった流れの横を歩いた。 お互いにある程度の量が貯まると、それを日曜日のフリーマーケットに出品した。信じられない事だけれども、それらはいつも売り切れた。 我々はそのあがりで夕食を食べながらお互いに首を捻っていた。ケースに入れられた蟋蟀や羽をラッカーでグリーンに塗られたカブトムシ、役に立たない鉄の人形が飛ぶように売れるのだ。 フリーマーケットの帰り道、フカヤはいつも何かよくないことが起こると言い張った。 「考えてもみろよ。こんなガラクタがこんなに売れちゃうんだぜ。おかしいよな…何かよくないことが起こりそうじゃないか」 それから二三日のあいだ彼はずっと自分の身を心配していた。居眠りしたトラックが突っ込んでくるとか、サイコな人間に後ろから刺されはしないかとか、朝鮮半島から彼の頭上にミサイルが降ってくるとかそんなことを考え、しばらく家に引篭った。 数日もすると彼はいつもの様に自慢げに捕まえた昆虫の事を僕に報告するようになった。 我々は教室で空間設計の事を学び、建築史を学び、色彩論を学んだ。我々の頭上には回転する太陽が飽きもせずに毎日昇り降りした。 我々は製作実習の時間に椅子を作った。僕は鉄屑を溶接して固く座りにくい椅子を作り、フカヤは何処に座ればいいのか見当もつかない椅子を作った。 わたしたちは一ヶ月に三回ほど街をうろついた。僕はレストランで皿洗いのアルバイトを始めた。いつかこの生活が終わることなんて実感できなかった。退屈だが充足的な日常が続くと漠然と思っていた。 我々は将来を語り、自分自身を語り、女の子について語った。 彼との会話は僕に遠くの土地に住んでいる友人を思い出させた。 僕はフカヤの祖父に気に入られ、よく夕食をご馳走になった。フカヤは祖父の前ではいつもと様子が違った。彼の祖父が見当違いの事を大声で言うたびに僕は目配せをして彼の戸惑った様子を可笑しがった。
彼の祖父はたとえばこんな振る舞いをする。 「じいちゃんと一緒にいると時々困った場面に出くわす。この前レストランでワインを頼んで、大袈裟にテイスティングを始めた。そして店員に産地はどこかとか何年物かとか聞き始めたんだ」 「格好いいじゃないか」 「まあ最後まで聞けよ。そのレストランってのが問題なんだ。その場所がデニーズで、ワインは防腐剤の味のする安物の赤、そして店員はアルバイトの女子高生なんだぜ。横の家族ずれとかがさ、くすくす笑っているんだよ。あれには参ったね」 彼の祖父はそんなエピソードの宝庫だった。 フカヤは僕に一度だけ両親の話しをしたことがあった。それは我々がいつものように街を徘徊して戦利品を携えながら帰っている途中だった。 彼の両親は彼が生まれる前に離婚していた。彼は父親に引き取られ、祖父と三人で暮らしていたが彼が十七歳の時に父親は胃癌で長い時間をかけて死んだ。彼は母親と会ったことがなかった。 僕はそのときにこんな質問をした。それからすごく後悔した。 母親に会いたいと思うか? 彼はしばらく考え込んだ後に、自分の母親のことはあんまり現実的に思い浮かばないな、と言った。 ――写真なら見たことがあるんだけどね。 その話をしているときフカヤは僕の顔を決して見ようとしなかった。それから我々は帰路を無言で帰った。初夏の夕闇の匂いが膨らみ、鈴虫の鳴き声が聞こえていた。
フカヤには一歳年上の恋人がいた。人当たりの優しい女性だった。彼らには自然な親密さが漂っていた。トモコさんというその女性はよく我々二人を諭していた。彼女に言わせればそれが趣味だと言う事だった。 我々三人はフカヤの祖父が所有する古い映画を見た。それから彼女は二人の奇行についていささか否定的な意見を述べた。しかし我々が彼女に昆虫と鉄屑の我々が作品と称するものを一つずつプレゼントすると、いらないと言いながらも、それらは彼女の部屋に飾られた。 彼とトモコさんは高校生の時に知り合ったと聞いた。彼女が高校を卒業して福祉の短期大学に入学した頃に二人は恋人になった。 彼女は僕に様々な鋭い質問をする。それに戸惑いつつ応えている僕の様子をフカヤはニヤニヤしながら観察していた。それは平和な光景だった。 フカヤが彼女の家に夕食を呼ばれた時、彼にどうしてもついてきてくれと言われて彼女の家に行く事になった。そして、そこに居合わせた人すべてがぎこちない夕食が始まった。 トモコさんの両親は絵に描いたような穏やかな夫婦だった。我々がトモコさんにプレゼントしたものについて両親と僕とで話をした。フカヤとトモコさんはほとんど会話に参加せず、僕と彼女の両親が会話のほとんどを担当した。全員が緊張してうわずった声を発していた。
隣の席ではスーツ姿の酔った人々が大声で卑猥な単語を何度か叫んでいる。 彼はもうトモコさんと一年間も連絡は取っていないと言った。そしてフカヤは自虐的に彼が彼女に対していかに不誠実であったか、いかにお互いを傷つけあったのかを話す。 彼は自分がどれほど惨めったらしく彼女に対して電話で許しを求めたか話す。 「とことん惨め」フカヤは言う。 そしてまた断片的に療養所の生活を話し、両親について話す。生まれて始めて具体的な母親がどんな人物だったかを話す。彼の祖父の葬式の時に彼は母親の顔をまともに観察する事ができたと言う。 「昔からもし母親に再会したら、何を感じ、何を思うのだろうかとよく考えてたんだけどさ。たとえばお互い顔をくちゃくちゃにして泣きながら抱き合うんだろうかとか、もうまさしく感無量って様子でひたすら感動するんだろうかとかね。けど率直に言うなら、その時オレはほとんど何も感じなかった。そしてその事に自分でも驚いた。まあそれが事実だ。ほんのちょっとした感想しか思い浮かばなかった。白髪が多いなとか、苦労ってものがどのように表情に積もっていくのかとかさ。それだけだった」 感動的な再開場面、とフカヤは呟く。我々は学生時代の分担を守っていた。基本的に話し手はフカヤで、聞き手は僕だった。 「今でも分からないけれどオレはいつ何処でどのようにしてアタマがおかしくなったんだろうな? まあその時は自分が狂っているという考えなんて一欠けらも閃かなかったんだけどさ」 フカヤはまたくくっと笑う。それは彼の手にするグラスが揺れるたび、氷同士がぶつかり合う音に似ている。彼は自分が製作したソファはまだ使っているのかと僕に尋ねる。僕は使っているよと応える。そのソファを彼は「精神療法的治療の原点回帰ソファ」と呼ぶ。 「自分がこれぞまさしく狂人と気付くときに人が何を感じるか分かるか?」 「分からない、見当もつかない」 「ただもうびっくりするんだ。たとえば昔の日記を読み返す。それが嘘偽りなく自分の書いたことであることという事実を発見して驚くことと同じような種類の驚きにそれは似ている。レモン水とウォッカの濃度ぐらいにしか違いはない。実際に健常者か精神的非健常者かはそのぐらいの違いしかないんだ。二つとも液体という共通項があるだろう。それはジャンボジェット機とおたまじゃくしほどの差異じゃないんだ。それで、自分がどれくらいおかしいか一通りびっくりしたあとに、そのことで笑い転げるんだ。少なくともオレはそうなった」 彼は療養所のルームメイトであった十歳年上の男と、(その男は自分の四歳の娘が結核菌である事を信じて疑わなかったという)二ヶ月に一回の行われる対人コミュニケーション回復訓練法プログラム二十一番という冠詞のついた定期発表会の紙芝居を作っている時に閃いたといった。そしてその作業をしている自分というものを発見した彼は、床を転げまわって十分間ほど大声で笑っていた。笑いすぎて最後には体がぶるぶると痙攣したとフカヤは述懐する。隣で作業していた結核菌の娘を持つ男はその姿を見て恐怖で泣き叫んだ。次にこうなるのは自分に違いないと思って怯えていた。フカヤが結核にかかってその発作でのたうち回っていると彼は勘違いした。 「笑えるだろう? もしこの話に何の面白みを感じなければ、きっちりと非精神的健常者というラベリングの付いた生活を贈呈してあげようと思う」そうフカヤは宣言する。
彼が段々とおかしくなり始めたのは、我々が学校に通う最後の年だった。 ぼくは春の休暇を利用して育った町に二週間ほど滞在した。 その季節の移り変わりは様々なことを確実に運び去っていき、世界はその様相を変化させた。 その一つとしてこの春を境にフカヤは街の徘徊を止め昆虫を採集しなくなった。しばらくの期間のあいだに彼は無口になり、気難しくなった。僕が彼をからかっても冗談を言ってもいつものような反応は返ってこなくなった。 僕もその春を経て自分の変化を感じた。 ある夜フカヤの様相についてトモコさんから連絡が来た。彼女はフカヤの最近の様子を僕に尋ねた。けれども、僕にも彼がどうしてそのようになったのか分からなかった。 僕はトモコさんに言う。 「いつものようにある日突然元に戻っているんじゃないですかね?」 溜息とも唸り声ともいえない音が電話越しに聞こえる。 「そうだといいんだけれど……落ち込み方がいつもとは違うから心配なの。ほんとうに何にも思い当たる節はない?」 「まったく思い当たらないですね…それに最近こっちにいなかったから」 「そう」と彼女は言う。ありがとうと言って彼女は電話を切った。 その会話のあと僕は僕自身が抱えている問題について考えてみた。そしてその問題の全体像を把握しようとした。しかし僕にはその輪郭さえもつかめなかった。 問題は、いったい何が問題になっているのかさえ分からないことであり、自分にはその問題を話せる人が一人としていないことだった。
その季節が過ぎ去る期間、我々は疎遠になっていた。何度か彼の家を訪ねたが彼は無表情でほとんど口を聞かなかった。僕は一人で町を彷徨う様になった。彼と会わなくなると僕にはこの街で親しい人が一人もいなくなったと感じた。 つまらない事でアルバイト先の上司と喧嘩をしてそこも辞めてしまった。 朝から晩までビールを飲み、いつもアルコール漬けになった脳を抱え霞んだ視界のなかで生きていた。フカヤの来ない授業がつまらなくなり学校にもほとんど行かなくなった。生活は荒んでいた。 五月の連休前に僕は鏡を見て愕然とした。そこには生気にない顔が浮かんでいた。頬はこけ、目の下には酷い隈があった。そしてギネス級の吹出物が何個か額にこびりついていた。僕は鏡の前で吹出物の一つを強く掻きむしった。顔から血が伝う様子をぼんやりと眺めていた。僕は顔を洗い、血を拭き取ってそこに絆創膏を貼った。 その晩に僕は一人で街を歩き回った。日中降り続けた雨のおかげでひどく蒸す不快な夜だった。 独りで海の近くの鉄工所の廃棄物を漁っていると、それを見た小柄な浮浪者が僕を罵り始めた。僕がどんなものを探しているか説明してもその浮浪者は耳も貸さずここを自分の縄張りだといった。それからしばらく口論になった。興奮した浮浪者はさっさと引き上げないと仲間を呼んでくるぞと脅し始めた。すぐにその場を去れば良かったのだが、僕は彼を更に興奮する言葉を吐き、彼のリアカーの付いた荷物だらけの自転車を蹴り倒した。 それに憤慨した浮浪者は僕の背に掴みかかってきた。僕は振り向いて簡単に彼の胸を突き飛ばした。浮浪者は力なく転げ、彼が喚きながら起き上がろうとするところで、数回思い切り顔を殴打した。浮浪者はうずくまり、怯えた表情で僕を見上げた。彼の鼻からは血が溢れ髭にこびりついた。それを見下ろしていると、更に不快な気分になった。その浮浪者の姿が鏡に映る自分自身と酷似しているように思えた。醜さで歪んだ表情だった。僕は思い切り彼の腹を蹴り上げた。奇妙な嗚咽が響き、僕はその場を立ち去った。そして途中で手に持っていた何かの機械の部品を公園の池に投げ捨てた。 浮浪者から離れると自動販売機でビールを買い、それを飲みながら街を歩き始めた。街の灯りはぼんやりと霞みながら拡がっていった。交互に動く足に意識を集め、歩く事に集中した。ビールが空になっては新しいものを買い求めた。すれ違う大半の人は僕を見ると避けるように歩き去った。何処をどう歩いたのか分からなかったが僕はフカヤの家の近所にいた。僕は彼の家の扉をノックした。 「開いてるよ」 中から声がする。ドアの向うから籠った音楽が響いた。サム・クックのワンダフルワールドが流れていた。 フカヤの祖父がハードカバーの本から顔を上げた。彼はしばらく僕を眺めていた。僕は小刻みに顔を動かし、黙っていた。彼は本を閉じ、隣の椅子を引いた。首をかしげ「まあ、座んなよ」と僕に勧める。彼は立ち上がりレコードの針を上げる。そして、フカヤを呼ぶ。 彼の祖父は二人分のコーヒーを作る。そして、独り言のように言う。 まったく、音楽にちっとも似合わない顔付きが二人も揃うなんてな。 彼は僕を見てにやりと笑う。彼は部屋にいるフカヤを呼びに行く。やがて、フカヤが現れ僕の横に腰を下ろした。そのあいだも祖父は黙々とコーヒーを作っていた。 やあ…久しぶりだな。 僕かフカヤのどちらかがそんな事を言ったに違いない。 フカヤも僕と同じように生気のない表情だった。彼の祖父は我々の前にカップを置き、交互に我々の顔を見比べてから、肩をすくめどこかに行った。黙ったまま我々は煙草を吸ったり、コーヒーを飲んだりなんかしていた。それからお互いの顔を見て二人はなんとなくはにかんだ笑い声を上げた。小さい頃、喧嘩をした友人と仲直りをする場面のような佇まいである。それから二人はお互いを哄笑する。やがてその発作が治まると、酷い顔だな、と僕が言う。彼も同じことを言う。 フカヤは呟く。 「もう昆虫集めはおしまいにしたよ」 僕は小さく肯く。思い出されるのは机や椅子が軋む音や遠くの会話の響きだった。
彼の話す言葉に異変を感じたのはそれから三ヶ月ほど経った頃だった。フカヤの声は「が」が抜け落ち「は」は「あ」と発音された。フカヤにそのことを指摘する。 「言葉ぐ ぅ オカシイ? それ ぁぁぁ どういうことだ」 彼は不思議そうに聞き返した。僕は紙に「が」と「は」を書いた。そしてこれを読んでみろと彼の前に差し出した。彼は紙に書かれた文字を歪めた顔で凝視する。そして、呆然とした表情で僕を見つめた。 「なあ、これってなんと読むんだったけ?」
彼が言葉を失ってから、何が起こったのかを詳しく語ることは難しい。実際のところ彼は何も変わらなかったように感じることもあるし、決定的に変わってしまったとも思えた。 しかし表面上の変化はなくとも、風船がその空気を少しずつ吐き出して萎むように、何かが彼から押し出され流れていったこともまた事実だ。 しかし彼は冬が来るまでの期間を何とか乗りきった。もしかしたらこのままうまくいけるんじゃないかと感じていたことを後に彼は回顧した。 その冬の日々をわたしたちは最後の卒業制作課題に追われながら過ごした。制作室のグラインダーや電動ドリルの騒音、舞い散る木屑の中で、作業に追われていた。僕は自分がデザインした建築物の図面を見ながら二十分の一の模型を作っていた。フカヤもまた、作品の詰めに入っていた。彼は最後までコンクリートと木材を組み合わせた二人がけの椅子の色を決めることが出来なかった。 提出期限が二日後に迫っても彼にはその色を決めることが出来なかった。その日は寒波が到来し凍てついた空気が澄んでいた。そして僕の二十二歳の誕生日が二日後に迫っていた。それなりの人数が遅くまで制作室に残り作業をしていた。夜が深まり窓に半分の月が浮かび上がった頃、僕自身の作品もようやくある程度の目星がついた。 ふと隣のフカヤを見ると彼は右手でコンパスを玩びながらしばらく空を睨んでいた。そのときの彼の表情は何かしら人の心を打つものがあったように感じる。何人かが僕と同じように彼を眺めていた。そしてこちらに気付いて振り向くと、彼は僕に微笑みかけた。僕にはどれぐらい彼と顔を見合わせていたのか分からない。それから彼は右の唇を上げて作業台に自分の左手を置き、右手を振り上げる。僕はその時、その光景を瞬きの為にはっきりと見なかったのかもしれない。もしかしたら僕はその瞬間に顔を背けたのかもしれない。 コンパスの針が彼の左腕に刺さり、耳の奥でどろりとした、嗚咽を聞いた。僕は悲鳴のようなものをあげたのかもしれない。すごく長い時間、コンパスは彼の腕に突き刺さったまま動かなかった。すべてのものが静止して動くという性質を忘れたんじゃないかと思うぐらい長かった。 それからフカヤは僕に話しかけた。それはこのような言葉だったのかもしれない。 ―ようやく分かった。どうして今まで気付かなかったのだろう。 彼の澄んだ微笑をこれからもたびたびぼくは思い出すに違いない。針が刺さっている左腕をしばらく観察したあと、彼はまた四回ほど左腕をコンパスで突き刺した。今でも僕は針が彼の骨に当たる音を覚えている。しばらくして、彼の腕から思い出したように血が流れ始めた。正確にはその時になってようやく僕は血が噴出している事を認識した。彼はその血を掬い上げ彼の椅子に塗り始めた。彼がその木製の部分を塗り終えようとした時に誰かが呼んだ救急隊員が慌しく制作室に入ってきた。彼は僕に何かを告げて自らの足で制作室を出て救急車に乗り込んだ。それから彼は外科医院に行き、数日後に精神病院にいった。 僕は彼がその時なんと言ったのか思い出せない。フカヤは何かを言った記憶を覚えていなかった。
「自分の腕を刺したときのことの話なんてとことんうんざりだ。医者だとかカウンセラーだとか療法の一環としてワーカーたちの前でだとか、何度もあの時の話をした。 そのおかげで細部が微妙に違うバージョンのストックが多数溜まって次にどれを話すか選ぶのにも一苦労する。ああ、ワーカーというのは療養所での患者の呼び名だけどさ。とにかく、そのときの心理的状況だとか何を感じたかとか、そのことを今どのように捉えて考えるかとか、幼児の時の体験に原因を求める話だとか、何回聴かされて何回話したと思う? どうしてこのような行為をしたのか、その原因を探り出すのが重要だと治療しようとしていた連中は強調していたけど、そんなことオレに分かるわけないじゃないか。 どうして食事をしなくちゃいけないのかを生存のための必要性以外で説明できるか? オレはただそのときにそうすることが必要だと思ったからやったんだよ。アタマがおかしい? その通り。アタマがおかしくなくて誰が自分で自分の腕を突き刺したりするんだよ」
我々は何とか学校を卒業し、僕は辛うじて就職した会社で仕事を始めた。彼は地方の療養所に赴き、僕はルーティーンワークの従事者となった。療養所は外部との接触を一切認めていなかった。我々はその後、僕は彼が現在住んでいる主張先の地方都市で彼と偶然に会い、フカヤの祖父の葬式の時にまた再会した。その葡萄が名産品の地方で僕は始めて彼が療養所を出たという事実を知った。そのときも彼は相変わらず屈託なく様々な話を僕に聞かせてくれた。
そして今夜、酒の酔いの気だるさが私たちの頭上を支配していた。ぼやけた思考で会話も途切れ途切れになったところで、私たちは店をあとにした。扉を開けると、春の澱んだ風が流れていった。示し合わす事もなく、昔のように我々は街を徘徊することにした。通りを歩く人々はとても幸せそうに見えた。僕はフカヤにそのことを伝える。 「街を歩く人々ってとても満ち足りた人生を送っているように見えるな。もしかしたら、こちらもそのように見えるのかもしれない。それって不思議に思わないか?いい気分だけど。」 フカヤはただ苦笑するだけだった。それからまた黙々と歩く。僕は彼と離れてから起こった様々な事を思い起こしていた。それを彼にうまく伝えることが出来るかどうか仔細に検分してみた。様々なディティールを取り出し、それを繋げ合わそうとした。そしてそれは不可能なことだと悟った。我々はもう同じ言語を使っている世界の住人ではないのだと感じた。せいぜいできることといえば曖昧な微笑みや言葉の切れ端からその裏側を憶測するだけだ。 僕とフカヤは色々なものを探し歩いた日々のように歩き続ける。やがて私たちは川べりに腰かけ、水に反射する灯りや近くの藪から聞こえる虫の鳴き声を聞いていた。 ふと気付くとその話は始っていた。フカヤはその時、長い打ち明け話をしていた。その話はすべて聞き終わっても、「ふうん」という感想しか返せないような種類の話だったし幾分奇妙な話でもあった。しかし、その話は僕自身に楔を打ち付けたことも本当の事だ。 僕はしばらくの間その話を思い出しては考え込む事となった。 フカヤはその話を終えるとこう呟く。 「それでも世界は残酷なぐらいに美しい」 水の流れる音と、光を絶え間なく反射する川が我々の目の前にあった。それからフカヤは立ち上がり、ズボンを払った。いつものような別れの言葉があり、我々はそれぞれの住処に帰っていった。彼は深夜発の高速バスの待合所に向かい、僕は地下鉄に乗り込んだ。それ以来まだフカヤには会っていない。一度だけ彼から絵葉書が送られたけれど、僕はまだその返事を書いていない。
家に帰る途中に僕は小さな中華料理屋に寄った。店内にはテレビニュースの声が響き、カウンターにビールの中ビンを傾ける初老の老人が髭を生やしている店主と話し、テーブルに座る作業服を着た中年の男性とまだ幾分若い同じ服装の人がいた。年上の禿げ上がった男は愚痴や永遠に続く上司の人間性の批判をずっと話し続けていた。それを聞かされている男は仕方なくといった感じでずっと相槌を打っているだけだった。見るからにくたびれた二人組みはやすい焼酎を飲みながら話す。後輩に対して何とか自分の低すぎる自己評価を打ち消すべく、次から次へと男は話し、自分がひとかどの人物であるかのように振舞っていた。そして認めてもらう見返りに、彼は後輩を時々褒め空想の昇進を約束するのも忘れなかった。年老いた店主の夫婦ともう一人の三十歳ほどの女性の従業員はつまらなさそうに働いていた。僕は脂っこい海老の料理と炒飯を注文した。注文を待っているあいだに水を二杯飲み、聞くともなく二人組みの話しを聞いていた。 「近藤さんの言う事も分からない事はないが、あれでは駄目だ。まあ、けれど、彼はああいうヒトだからそれも仕様がないかと思うけれど、あれじゃあ誰も付いてこない。俺だったらもっとうまくやるね」とくたびれた男が言う。 「はあ…そうですね、ユウゾウさんならもっとうまく出来かもしれないっすね…」とうんざりした表情の男が投げやりに応える。 「だろう」とくたびれた男が得意げに言う。 エプロン姿の従業員によって僕の前のテーブルに料理が並べられる。料理が置かれた瞬間から食欲は消えうせる。ブラウン管は定時からニュースショウが始り、様々な不祥事が語られる。厨房の主人とカウンターの客が話題に上ったニュースについて二三の意見を交わす。隅を掃除している主人の奥さんがそれに割り込む。僕は箸で海老の死骸をゆっくりと口に運ぶ。ブラウン管はコメディーのプログラムを始め、小さな店内に束の間の賑やかさを提供する。自分自身に誰も関心を払わない事に僕は満足する。 突然、ブラウン管の映像が変わり、女性アナウンサーの甲高い声が響く。 彼女はこう告げる。騒音と喧騒の振るえと共に。 「たった今、戦争が始まりました。見えるでしょうか、空爆の光が見えます」 店内にいる人々はおしゃべりを止め、ブラウン管に注目する。女性アナウンサーの金切り声は繰り返し、戦争が始まりましたと叫ぶ。彼女は歓喜しているようにさえ見える。やがて一瞬のあいだ言葉を失っていた人々が口々に話し始める。しばらくすると誰もブラウン管に注意を払わなくなる。甲高い声は繰り返される。どこかで人々が死んでいる最中だった。ぼんやりと映像を眺めながら僕は海老との格闘を再開する。 大統領が神の名の下に宣戦布告をする演説光景が映像に流された。 “Got blessed with our fire” その言葉を聴いた聴衆から歓声があがる。
神に祝福されたもの同士がお互いの神の御国へと次から次へ人々を送り込んでいた。僕は入り口の混雑を思い浮かべた。その後に繰り返し「支持します」という首相の声明の映像が流された。 数分後、急に吐き気を感じ、僕は胃の中にあるものを全て机に吐き出す。海老の死骸やその他原形をとどめていない様々な食物が飛び散る。まったく手をつけていない炒飯と海老の皿に吐瀉物が降り注ぐ。慌てて女性従業員がタオルを持ってくる。老婦人が僕をトイレに連れて行く。周りの人々は迷惑そうな顔をしている。汚いトイレにしばらく篭って僕はすべてのものを吐き出し、渡された水を飲む。 「あんた、大丈夫?」と困った顔で老婦人が尋ね、様子を見に来た店の主人がその後ろで何かをぼやく。すべてのものを吐き出すと、僕の気分はとても高揚している。 何かがすっかり清算され、何かはどうしようもなく古びてしまった事を僕ははっきりと認識した。 「どうしようもないぐらいに体の隅々にへばりついて取れなかったジャンクなガラクタはどうやらすっかり洗い流されたみたいだ」 僕はトイレでそう報告して、最後の胃液を吐き出す。後ろに立っている店の夫婦が怪訝な表情をして顔を歪めるのが分かった。僕は彼らを強く抱きしめたい衝動に駆られる。とても満たされた気分だった。洗い流された事に対して二人からの祝福を求めている。 僕は店の夫婦に謝り勘定をしてもらう。女性従業員は僕のテーブルの後始末をほぼ終わらしている。その女性にも僕は丁寧に謝る。彼女は気持ちのいい笑顔を向けてくれる。そして大丈夫ですかと尋ねる。 「大丈夫です、少し呑みすぎただけですから。どうもありがとう」とぼくは応える。客たちはその様子を観察している。僕が店を出てからひとしきり話題になるに違いない。僕は帰り道を歩く。夜は親密で優しく感じられる。 公園にある時計を見る。そして月日を頭に刻む。 こうして僕は新たなる日々の記憶の始まりとして時間を数え始める。
それから月日が流れ、僕は蟷螂に語りかけ始めた。 もしかすると螳螂はフカヤの打ち明け話に興味を持ったのかもしれない。そして彼はフカヤの秘密を聞きたいと思っているのかもしれない。けれども、僕は螳螂にそのうち明け話を話すことができない。 「今はまだはっきりとした言葉が足りないんだ。別に眠いわけじゃないし、意地悪で言っているんでもないことは理解して欲しい」 僕は螳螂にこう言い訳をする。螳螂がその話を聞くことができなくて残念に思っていることを渇望する。その話を聞きたくてうずうずしてくれるといいなと思う。 ――最後になったところで聞くけれど、 螳螂に質問する、 その日の出来事の一体どの部分が 日々をカウントする行為と対応関係にあると君は思う? 棚の落下・灰色の砂漠 電話の応対を終えた有本さんが顔をしかめて僕と渡辺にこう言った。 「ねえ、また久慈島町の現場の棚が落ちてきたって言う苦情の電話なんだけれど」 仕事から帰ってきたばかりの僕と渡辺は顔を見合わせた。そうして二人は溜息をついた。それから渡辺が独り言を呟いた。土曜日の現場の仕事を終えて、何人かの同僚たちと寛いで談笑している時間だった。 「ったく、あれは故意にやっているとしか思えないですよ。あれだけボトルを閉めればまず落ちるわけありませんよね?」
新年の初めのその雑居ビルのレストランの内装の仕事は基本的に僕と渡辺が担当していた。依頼者は実業家の配偶者の女性だった。 どうやら有り余る資産と有り余る暇な時間を潰すために、女性向けの自然食品を使ったレストランの経営をする予定であった。かなりスノッブな飲食店になるように思えた。 去年の暮れから何度か僕は依頼者と打ち合わせをした。依頼者は三十歳半の容姿の美しい女性だった。けれども僕には彼女が人生にどのような基準を設けて生きているのかさっぱり分からなかった。彼女に子供はいなかった。 打ち合わせには彼女の夫もたびたび参加した。彼はネットワークビジネスを営んでいる人物で、僕がその内装を担当する事にいささか不満を持っている様子だった。二人はときどき店の経営方針を巡って口論した。二人がかわるがわる説明する店の全体像は、はっきり言えばどこにでもあるような二番煎じのアイデアだったが、まるで自分たちが始めて行うような斬新な企画といった語り口だった。 ある程度打ち合わせをし、僕がこれまで手がけてきた飲食店の店舗を観察し、専門用語を散りばめたプランニングの企画書を読み、僕の説明や飲食店の基本的な経営のアウトラインを聞くと彼はかなり納得し、それからはほとんど口を挟まなくなった。それは小うるさい依頼者に邪魔される事なく仕事を進めるための僕のいつもの手法だった。 そして新しい年になってから本格的に店の青写真を作り上げ、コストを計算した。依頼者は全面的に僕が提案するデザインに納得し、運転資金やどのぐらいのコストがかかるのかを話し合った。その内装にかかる費用の規模は約二千万と言ったところだ。それほど小さな仕事でもないし、それほど大きな仕事ともいえなかった。 実際に内装の作業が始まったのは一月の中ごろからだった。そして三週間ばかりの作業期間でその仕事は大方の目処が付いた。後は作り付けの飾り棚やら装飾品を配備し、テーブルや冷蔵庫やその他、業務に必要な備品を運び込むだけというところまで来ていた。 依頼者は細かい内装にはあまり関心もなく我々の作業進行を眺めていた。彼女の資金の出資者である男性は一切姿を見せなかった。 依頼者はそのコンセプトとして木材をふんだんに使った内装を依頼した。彼女は金に糸目をつけず、基にあった間取りを「居ぬき」する事もせずに設計を依頼し、上質な日本製の木材を注文した。久しぶりにそのような木材を使う仕事にめぐり合える事に僕は感謝した。続々と資材が運び込まれ、辺りには新鮮な木の香りに包まれた。僕は木について知っている知識を全て渡辺に教えた。黙々と作業をしている委託業者を監督したり、指示したり、共に作業したりしていた。職人気質の作業員たちは酒を飲み歌いながら彼らの仕事に携わる。時々設計図に文句を言いながらも、彼らは誇りを持って仕事をする。 その中で五十歳過ぎの乾というもと大工をやっていた人がいた。彼は僕がこの仕事を始めるときから一緒に仕事をしてきた人だった。彼から僕は様々な建築の知識を学んだ。彼は熱心な教育係として自他共に認められ、僕は彼からこっぴどく叱られたりもした。一度だけ僕は彼から褒められた事がある。 「オマエはなかなか筋もいいし、飲み込みも早いな」 それはとてもうれしい事だった。それからは現場の作業員からかなり認められて仕事に携わる事ができた。そしていま、乾さんに目を付けられてたっぷりと絞られているのは去年入社したばかりの渡辺だった。彼は乾さんから罵詈雑言を浴びながら働いている。 乾さんが吼える 「このあほが。何度言ったら分かるんだ」 渡辺が答える 「はいっ」 乾さんはきつく言い放つ。 「返事だけ良くてもしょうがねえんだよ。コネで入ったかなんだか知らないがな、はっきり言ってオマエはこの仕事に向いてないんだから、さっさと辞めちまえ」 渡辺は答える。 「すいませんでした」 乾さんが言う。 「遊んでばっかりいるからいつまでたってもこんな簡単な事もできないんだよ。このあほんだらが」 そしてそのあと僕は二人から別々に話しかけられる。 乾さんの場合。 「渡辺はこの仕事に向いてないわ。まったく」彼はあきれた調子で言う。 「まあ、あいつもまだ十八歳ですし、長い眼で見てやってくださいよ」と僕は彼を宥める。 渡辺の場合。 「オレってホントに仕事向いてないのかなって思いますよ、頭悪いし、親父のコネで何とか入れさせて貰えたもんですし。正直に言ってくださいね。もうオレ、この仕事辞めたほうがいいですか?」彼は肩を落とし落ち込みながら僕に相談する。 「オレも最初は乾さんにこっぴどく怒られたんだから。あと一二年もすれば乾さんにも認められるようになるって……だからそう落ち込むなよ」 渡辺は曖昧に頷いて「そうなればいいですけど」と返事をする。
有本さんに渡された受話器を取り、僕は話し始める。依頼者はまた棚が落ちたと不満げに報告する。僕は詳しく状況を説明してもらう。 「わたしが忘れ物をして店に入ったらこの前と同じ状況で棚が落ちていたの、これって一体どういうことなのかしら?」 「つまりそれは天井に止めてあるボトルが外れていたということですか?」 「さあ、詳しいことはよくわからないわ。とにかく」 彼女は一度区切り強調するための咳払いをしてこう言う。 「とにかくすぐに来てくれないかしら」僕は時計を見る。針は午後八時を指し示している。「棚が破損しているなどそういったことはないですか?」 ないと思う、と依頼者が言う。 「分かりました、すぐに伺います。そうですね、これから三十分ほどで行きますので待っていてください」そして電話は終わる。デスクワークをしていたカツミさんが尋ねる。 「また前と同じように、ネジが抜かれたような状況か?」僕は答える。 「詳しいことは分からないですけれど、そうだと思います」カツミさんは舌打ちして、問いただす。 「この前落ちた時には、確実にきちんと閉めていたんだよな?」 「それはもう間違いなく。あれが落ちるなんて全く納得できないですね。三十五ミリのボトルを十二本も使ってきちんと天井に打ち付けましたから」 「まあ、とにかくすぐに向ってくれ。それで、これは誰かが外しているとしか考えられない状況だったら依頼者に警察に届けるように促してくれないか。これから問題でも起これば厄介だからな」 そして僕と渡辺はハイエースに乗り込んで久慈島町に向った。街は夜の賑わいを見せていた。渡辺が僕に尋ねる。 「誰かが悪戯でもしたんですかね? けどそんなことしたって何の意味もないのにな?」 「さあ、どうだろうな?」 僕はハンドルを握り、煙草を噛みながら曖昧に返事をした。それから我々はほとんど言葉を交わさずに、AMラジオの退屈な声だけが響いていた。そしてビルの前に着くと車を止め、脚立と道具を一式持って三階の店舗まで登っていく。 店に入ると依頼者は誰かと電話で話していた。彼女は我々にその棚が倒壊している現場を指差す。僕はその様子を眺める。天井に固定されているはずの棚は、端のボトル二本を残し斜めになって床に触れていた。この棚は僕がデザインして作った幅4000ミリメートル高さ1700ミリメートル幅600ミリメートルのかなり大きい物だった。それは間仕切りと飾り棚をかね店の入り口近くに天井から吊るされている。そのコンクリート素材とパイン材を合わせた棚は仕切りごとにそれぞれ高さが違い、全体に特徴的な半月形をしていて、棚の一部分は間接照明の役割も果たしていた。 僕はどこか破損している箇所はないかとざっと調べ、その棚の固定部分を調べてみた。ボトルが十本綺麗に抜け落ちてその固定されるべき鉄製のパイプにぶら下がっていた。 それはやはり誰かが故意に外したとしか思えない状況だった。 とにかくもう一度固定するために我々は作業を開始した。脚立を設置して僕は昇り、渡辺に棚を持ち上げるように指示する。固定する作業は五分ほどで終わり脚立を降りると僕はその強度を確かめるべく様々な方向から棚を押して確認した。棚はびくともしなかった。依頼者は誰かと電話で話しながらその作業を眺めていた。僕と渡辺は道具をしまい、彼女が電話を終えるのを待った。 彼女は黒いカーディガンに白いシャツを着て、黒いパンツを履き光沢のあるエナメル素材の黒いヒールを身に付けていた。銀のピアスをつけた耳に茶色に染められて丁寧に整えられた髪がかかっている。そして店のカウンターの椅子に座っていた。 電話を終えた依頼者は椅子から立ち上がって我々が作業していたところまで歩み寄った。 「とりあえずまた固定しましたので」僕は言った。そして彼女に質問した。 「棚がどんな具合に落ちたのか分かりますか?」 「さあ、どうかしら? 私が七時ぐらいにここにきた時にはもうこのような状況でした。とにかく私がここを出た五時までは、何も問題はありませんでした」 「おかしいな」と僕は呟いた。そして改めてこの前に落下した時と同じように説明した。 「このような固定しているネジが外れるような状況は、まず考えられないんです。それも続けざまに二回も落ちるようなことは。考えられるとすれば誰かが人為的にネジを外したという状況です。もちろん万に一つ偶然が重なったとして、一度は落下しても二度は考えられないんですよ。誰かネジを外すといったような状況は考えられませんか?そんな心当たりは?」 不信の表情で話を聞いていた依頼者はそれについてしばらく考え込んだ。何度か彼女は右手で唇を覆う仕種をする。それから彼女は言った。 「私が出て行ってからここに入った人はいません。今のところここの鍵を持っている人は私だけです」 「おかしいな」 僕はもう一度そう呟いてみた。 渡辺は黙って、幾分居心地が悪そうに我々のやり取りを聞いていた。彼が腰に巻きつけている道具入れの揺れてあたる金属音が響いた。 「とにかく、不審者が入ってボトルを外した可能性もありますので一度警察に相談した方がいいかもしれないですね」 依頼者はうんざりした表情で長いメンソールの煙草に火をつけた。 「考えてみます」と彼女は煙を吐き出してそういった。そして我々はこれからの仕事の予定を確認した。「次の月曜日から最終的な仕上げに入りますので、また何かありましたら連絡してください」 それから我々はそこをあとにした。そして車に荷物を積み込んで事務所まで帰った。事務所にはカツミさんしか残っていなかった。僕は一部始終の状況を彼に報告した。カツミさんは首を振った。 「まあとにかく様子を見るしかないな」 時計の針が十時を指したところで我々は事務所をあとにした。僕と渡辺は車を倉庫に戻してからお互いの家路に着いた。 僕は帰りにマーケットに立ち寄って出来合いの食品を買い込んだ。 家のドアを開け、フカヤのソファに沈み込んでから僕はどうして棚が落ちたのか、僕に不備はなかったかじっくりと考えた。どれだけ考えてもあの棚が落下する要素は思い当たらなかった。僕は買ってきたミネラルウォーターを飲み作業服を脱いで洗濯機に入れそれを回転させた。そして、螳螂の様子を見てサラダの中か僕が食べないトマトを彼の食料として皿に入れた。灰色の味覚の食事を終えると、シャワーを浴びて自分だけが所有する時間の澱みに沈下していった。 仕事が始まると螳螂に語る物語はなかなか進まないようになった。日常の責務に追われていく生活だった。プレイヤーを再生させ冷蔵庫からビールの缶を取り出して飲み始めた。毎日が規則正しく流れていき、変化というものはほとんど見当たらなかった。ただそこに時々あの神社で過ごすという行為が追加されるだけだった。 休暇が終わってから数日後、有本さんと昼食に行く機会がまたあった。僕は彼女にもう一度あの神社に行かないかと誘ったが彼女はそれを断った。 「だってあそこは気味悪いじゃない。君もあまり行かない方がいいよ」 僕はそれに頷いたが、仕事が終わってから何度かあの神社に足を運んでいた。しかしヒャンリと名乗った老女にも猫達にも一度も出会わなかった。やはりそこは小さな、いささかみすぼらしいただの神社だった。
二缶ほどビールを飲み干しソファで毛布に包まって横たわりながら、音楽を聴き途中の本を読んでいるうちに眠りが僕の体を包んでいった。何とか起き上がり電気を消してベッドに潜り込んだ。思考が夢と現実の境界線を漂い、夢の光景がやがて始まりつつあることを感じた。やがて意識が途切れまどろみの世界が現れた。
そうして夢が始まる。
僕はかつて僕が住んでいた町の風景を眺める。そして僕はその町を歩く僕の姿を眺めている。僕は様々な動物たちと共に行進している。牛や豚、幾種類かの犬、そしてラクダやキリン、熊、その他大勢の動物たちと談笑しながら歩いている。動物たちはすべて彼ら固有の色を失い灰色に変わっている。動物たちと共に僕は彼らの色を取り戻すべく僕は昔住んでいた町を歩く。やがて一人の女性が現れる。我々はその女性を見て彼女こそが動物たちの色を奪い去った張本人であるという事実を共感する。女性は顔を失っている。彼女の顔がある部分は黒い穴が開いている。それは邪悪な穴だった。僕と動物たちはその穴に襲い掛かる。灰色のトラが彼女の邪悪な穴に噛み付き、灰色の象が彼女の穴を踏み潰そうとする。僕は灰色のサルの親子に日本刀を渡される。その邪悪な穴に、僕は渾身の力を込めて突きを放つ。日本刀が突き刺さりその邪悪な黒い穴から無数の悪意を持った蟲が蠢き出す。蟲は動物たちの色を持ったまま這いずり回り逃げようとする、我々は一匹残らず蟲を踏み潰す。虐殺が数分続き我々の雄叫びが響く。しかし動物たちの戻るべきはずの色はそこには残っていない。僕と動物たちは激しく混乱して、女性の姿を探そうとする。黒い穴は徐々に閉まろうとしている。やがて彼女は彼女自身の顔を取り戻そうとしている。動物たちは彼らの色を取り戻すために僕と女性が性交する事を求める。動物の灰色が辺りの風景を飲み込み始め、すべてを灰色にしようとしている。すべてが灰色になったあとでは、まるで砂のようにすべてが崩れ去るという認識を我々は共通して持っている。そしてそうなる前に僕はその女性と性交しなければならない。女性の服もすでに灰色になっている。そして僕の右腕はすでに灰色の砂と化している。僕はまだ顔を完璧には取り戻していない女性の足を広げ勃起したペニスを入れようとする。性交はすぐには済まない。焦りと不安で上手く行かない事になる。やがて女性はその顔を取り戻す。女性が顔を取り戻してからではもうすべては手遅れになっている。動物たちはすでに灰色の砂となって広大な灰色の砂漠を作り始める。僕はうまく行かない事を確信する。僕の体は色を失って灰色になっている。やがて脚が砂になり砂漠の一部と化す。その時、ようやく僕は彼女が誰であるかに気付く。彼女はヨウだった。彼女はすでに鼻の下まで砂になった僕を見つめそれを痛んでいる。灰色の砂漠は僕の瞳を飲み込もうとする。その瞬間まで僕はヨウの姿を見続ける。そして灰色の太陽が灰色の光を放ち、灰色の砂漠と動物たちの白骨の世界で彼女は、踊り続ける。
僕はそこで目を覚ました。妙に生々しい夢の感覚の名残をしばらく感じ続け、現実感が戻ってこなかった。自分がどこにいるのか分からない状況がしばらく続いた。やがて感覚は戻ってきて、浮遊していた意識も一つに合わさり始める。ようやく不快な居心地の悪さが消え去っていき、僕はベッドから抜け出してテーブルに置いたままになっているミネラルウォーターを勢いよく流し込む。部屋は満月の光に照らされて、藍色に輝いている。デジタル時計は2:34という数字を浮かび上がらせている。僕は白い息を吐きながら螳螂の前に座り込み彼を起こそうとする。螳螂は動きを止め、一つのシルエットになっている。 「奇妙な夢を見たんだ。まだ妙に生々しい感触がまだ残っているな。睡眠中に申し訳ないけど少しばかり起きて夢の話を聞いてくれないか?」左手に持ったままのペットボトルの水分を喉に通す。 「夢の中にヨウがいたんだ。彼女は僕がここに来る前に付き合っていた女の子なんだけどさ……」 僕は続きの言葉を思い出そうとする。螳螂に語ることが沢山あるように感じる。しかし言葉は一つにまとまる事ができない。 「どれぐらい彼女の存在を忘れて生きていたんだろうな…」 こう呟いて口を閉ざした。僕はヨウの姿を鮮明に思い出そうとする。しかし彼女の顔は考えれば考えるほど曖昧になっていった。かつてどれほど彼女の存在が自分にとって重要だったかを何とか螳螂に伝えようとする。しかしそれを上手くする説明することはできそうもなかったし、すでにその感覚の大部分も失われてしまっていた。螳螂は彼の眠りの中で動き続け、彼に説明することを諦める。 ――すべては遠い過去の話になって、もはや自分には記憶も失われていったことだけが、どうやらはっきりと言えるみたいだ。 月に描き出された螳螂の影に向って語りかけると、虚脱感だけが僕の中心に残ったように感じられた。
もう眠気はひとかけらも感じられなかった。僕は着替えて、小さなバッグに適当に本を詰め外に出る準備をした。 「素晴らしい睡眠を」。声を出さずに螳螂に告げる。 凍てついた冬の空気が静まり返り、星はその輝きを増していた。朝を迎えるまでの数時間の静寂の中、街灯の灯りに照らされて駅の方に向って歩いた。自分の吐き出す息の白さを眺め丸い月の光を浴び、寒さに震えながら駅前の商店街で深夜営業しているコーヒーショップに入っていった。オールドファッションとアメリカンコーヒーを注文し代金を払う。トレイを受け取ると店内を見渡して奥の二人がけのテーブルに座った。店内の空気は重く沈殿している。数人の客と数人の店員は眠そうな表情でそれぞれの彼らの役割を果たしていた。人々は一様に退屈そうに見えた。人々は退屈という絆によってしっかり結ばれているように思えた。時計の針はすべて円の右半分に集まっていた。 男性店員があくびをかみ殺し、窓際に座ったサイコなカップルが、髪を銀色に染めて巻きスカートに分厚いラバーソウルの靴を履いた男と、顔中にボディピアスの穴が開いている女はひっそりと窓の外を眺めている。グレーの背広を着てネクタイを緩めて泥酔しているサラリーマンは背もたれに体を深く預けて足を投げ出し、口を開けて目を瞑っている。話題が盛り上がると奇声を上げる大学生ぐらいの五人組が店内の中央にいて、何かのゲームを講じている。男性三人と女性二人から成り立つその集団は世界には自分たちしかいないように振舞っていた。化粧を直しているその隣の女性は奇声があがるたびに迷惑そうに眉を寄せ、煙草をもみ消す。 このように退屈さは人々の周囲に分け隔てなく公平に降り注いでいる、と僕は鞄に入っていた鉛筆で紙ナプキンにそう書き記した。そして右手で鉛筆を回転させて続きを書き記した。 vice verse ―― 逆も真なり。 結論。それは僕もとても退屈そうに見えるだろうということ。ひょっとすればこの中の誰よりも退屈というものが似合っているのかもしれないという事実。 紙ナプキンを鉛筆の先で破りながらそう書き終えて、それを眺めるのにも飽きると、紙ナプキンをくしゃくしゃに丸め、バッグの中から本を取り出してどれを読むか考えた。 C・W・二コルとガルシア・マルケスとスチュアート・ディベックの文庫本があった。僕はディベックの短編集を選ぶと他の二冊をバックにしまい、本をぱらぱらとめくった。 それからスチュアートの「荒廃地域」という作品を、ドーナツを齧りコーヒーを啜りながら読み始めた。それはノスタルジックで相変わらず完璧な短編小説だった。これ以上好きになれそうな短編小説の存在を僕はまだ知らない。 それを読み終えてから、冷めたコーヒーを一口含み、流れていった過去の断片を探った。ヨウの仕種を思い出そうとした。けれども脳みそに浮かんだのはくすんだ廃棄物だけだった。かつてそこにあった熱や想いは何の痕跡も残さずに消え去ったという事実だけが、ただ横たわっていた。 頬杖をつき、目を閉じてそれらを取り戻そうとしたが、もはやそこにはジャンクなガラクタすら残されていなかった。感じることといえば、漂泊され洗い流された灰色の記憶だけだった。灰色の記憶を眺めるのにもうんざりすると冷たいコーヒーを飲み干して、トレイの屑をゴミ箱に放り込み、外に出て行った。してもしなくてもいいようなお礼の挨拶が背後から小さく届いた。 駅にはすでに灯りが燈り、始発の電車が走る時間になっていた。定期券で電車に乗り込むと、誰もいない電車に揺られいつもの駅に降り立った。うっすらと夜が明けようとしていた。いつもの道を辿り会社の裏手にある、あの神社に入っていった。入り口の木々の間を潜り抜けながらどうしてこんな朝早くからこんな場所に来ているのだろうと自分の行動に疑問を持った。ここの暗闇は普通の闇と違う比重を持っていた。自分が一回り小さくなったような気分になった。木々を抜けて建物の開けた場所に出ると月の光に反射して動く輝きがあった。 この場所は僕を引き寄せている。 輝きの正体は猫たちの瞳であった。その目は侵入者を観察していた。そして以前僕と有本さんが腰掛けていた岩の上には闇の中に浮かび上がる人影があった。それからしばらく呆然と立ちすくんで、岩に座る人影とその周りを飛び回っている二対の輝きたちを見つめていた。 囁き声が聞こえる。 ――私の横に座りなさい。 やがて満月に照らされた暗闇の中に浮かび上がる人影に向って歩いていく二本の足音が響く。
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