失われた習性について思い馳せる。 それを失い悲しむべきなのか喜ぶべきなのか判断を下そうとする。少なくともどのように感じるべきなのか、もしくはどのように感じるべきではないのか、込み入った細部まで埃を払って洗い出し、検討する。そして結論を導く努力をする。幸い休暇中のために時間は必要以上に存在する。 僕は紙にこのように書きだした。 ・失われた習性の価値について帰納法を用いて結論を導く仮説を考察する過程
(事実1)習性として数え始めた日数の積み重ねの数値を見失う・・・ (事実2)同時に時計を見るたびに数えていた能力も消え去る・・・ (事実3)その習性を失うことで原点の記憶が甦る・・・
[仮定1]記憶が喚起した対価として数える習性とその和の総数が失われた・・・ [仮定2]始まり日とカウントする行為は因果関係、対応関係にある・・・
・結論 過程に依拠するとカウントする習性を失ったことで思い出された記憶は、日にちを数える能力と何らかの関連性があり、自分自身のある重要性を持って行なわれていたカウント能力と積み上げられた数字に取って代わる内容、意味性を持っている可能性の示唆するところである。はっきりと言えば、その喪失は喜ぶや悲しむなどといった感情的な性質は帯びていないと思われるのでどのような感情を持つ必要もない、もしくはどのような感情を持ってもよい。
・問題定義 結論を請けて。その諸能力がもたらした意味・意義・重要性を読み解かなければ、始まりの日の意味性は確定できないであろうと考察される。
・考察 日々をカウントしそれを積み重ねるという事は、自分自身の時間軸を生み出していく行為であるということが言えるのではないだろうか? では、始まりの日に起こったことの何がカウントすることと対応関係にあるのだろうかという疑問が新たに生まれる。もしくはそれらは総て偶然の産物であり考察する事自体がばかげた行為であるという意見がもっとも有力なものであると認めるのは難しくない そして現在わたしの拠り所となる理論は偶然説が最も強く、わたしはとてつもないナンセンスに多くの労力や時間を費やしているとみなす事にやぶさかではない。
・考察を終えて 帰納法で導き出された結論を何らかの教訓に結びつけるのならば、多 数の人は(少なくとも自分は)退屈な時間を弄ぶと、ろくな暇つぶし方法しか考えないというものがここに掲げられるべきであるという素晴き叡智に富んだ真実の教訓である。 そこまでを書き進めて僕は紙を読み返す。何かがすっぽり抜け落ちているような気がする。僕はもう一度ペンを取る。それをくるくると掌の中で回す。僕は耳たぶに触れる。もっとシンプルに考えようと僕は自分自身に諭す。そしてそれを紙に書きつける。
もっとシンプルに考えよう・・・ 気を抜いて単純に考えよう・・・ ただ、単に、 その日のことを記憶に刻み付けるためだけに その日を忘れないようにするために 僕は日々を数えていたのかもしれないという可能性だってある 僕はどこで何をしていたんだろうな 確かにフカヤと過ごしていたことは覚えている それ以外は何も思い出せないな
僕は何回か自分の書いたものを読み返した。そしてその日何があったのかを思い出そうとした。記憶の曖昧さに僕はうんざりした。それでも僕はその日何があったのかを思い出そうと努めた。 それから加算されることのない日々が流れた。特定の数字を付されない一日は透明という印象を僕にもたらした。フカヤに纏わる話は中断されたまま、一年が終わろうとしても再開されなかった。僕は未だにその日の記憶を思い出せないでいた。無為に日々を過ごすというセンテンスを体現するような数日間があった。世界では三六五日の残数が勘定され、やがてその残量が尽きようとしていた。
そして目覚めると、窓からは光が流れ込んでいた。 布団の中で今日一日何をしようかと思案しているうちに、この朝が新たな年の始まりであることに思い当った。たった一日である西暦が見慣れない西暦に移り変わるということについて、怠惰な毛布の温もりに包りながら思いを馳せた。やがてそれに飽きると、どのように過ごすか良い思案がまとまらないまま諦めてベッドから這い出した。とりあえず始めに冷蔵庫から紙パックのグレープフルーツジュースを取り出し、咽を潤した。 空には薄い雲が太陽に照らされ漂っていた。穏やかな風があたりに吹く。窓から差し込む澄んだ呼吸を深く体に送り込む。そこには微かに祝祭の高揚が含まれていた。 グレープフルーツジュースをもう一口飲み、ブラウン管の向こう側を眺めながら、椅子に腰掛けぼんやりとたたずんでいた。ブラウン管からは騒々しい色彩が溢れ、頬杖を付きながら煙草をくわえる。針が時を刻む。その音に誘われて何処かに向かいたくなる。 蟷螂の棲家に視線を移すと、昨日の残りものがまだ木の下に散乱していた。とにかく休暇の期間は暇を弄んだが、その時間の流れ方にも幾分慣れてきたばかりであった。無為に日々は繰り返す。 寝癖の頭をたずさえて、集合住宅の入り口にあるポストまで行き暗証番号を廻した。左に二回ゼロに合わせ、右に一回、七で止める。そこには何通かの年賀状と大き目の茶封筒と友人の結婚式の招待状が入っていた。 部屋に戻るとまず自分が葉書を出していない人がいるかどうかを確認した。すべてに目を通し、送っていない人が二人いたので、余っている年賀状を取り出し慣用句を並べ立てた二通の葉書を書き上げる。一人は資材の納入業者の男性で、もう一人は学生時代に同じクラスにいた女性からだった。学校を出て数年間が経ち、大して親密でもなかったその女性から突然年賀状が送られてきた事は意外だった。しばらくその名前を眺め、ようやくその女性が誰だったかを思い出す。三年間で二度ほど会話をしたぐらいである。始めてじっくりと見る彼女の字は特徴で何かしら惹きつけるものがあった。 それを脇にやり改めて友人の新年の挨拶を兼ね、写真が印刷された結婚式の招待状の手紙を読んだ。友人とその相手の女性がこちらを向き笑いかけていた。挙式は半年ほど先に、遠い町で行われるようだ。 アナウンサーの浮ついた声と背景のざわめきがテレビから聞こえてくる。画面には神社を参拝している人々の流れが映されていた 葉書の二人を眺めながら幸せという概念について考えた。彼らの顔には自然に浮かんでいる安堵と心地良さがあった。それらを醸し出しているその何かは、形状や触り心地をまるで手のひらで確かめる事が出来るようだった。 その友人と過ごした季節を思い起こそうとした。浮かんでくるそれらは妙に平板で具体性に欠いていた。記憶にあるすべては実際に起こった事なのか曖昧であり、悲しいぐらい色褪せていた。そのむかし我々は何かを共有していた。彼のことを思い浮かべながら僕は部屋の中を見渡した。この街に住んでから始めて彼のことを考えていた。ここにはその共有されたものの欠片も見出せなかった。彼の存在を肯定するものは何もなかった。 彼を隔たりの向こう側の世界の人々と僕が感じたように彼等から見ると僕は遠い住人だった。 溜息をついて首を振り、その葉書をクリップボードに貼り付けた。最後に僕は飾り気のない書類用の封筒を手にした。そこに差出人は書かれていなかった。何度か封筒を振り、その感触を確かめた。中にはかなりの分量の紙が入っているようだ。太陽に透かしてみたがどのような内容かは判別し難かった。仔細にその封筒を観察していると、消印は四国のある町から送られていることに気付いた。 しばらくの間、新たな年月の始まりに舞い込んできた、その場違いな手紙の差出人を推察した。一人として四国に住む知人は思い当たらなかった。しかし宛名にはしっかりと僕の名前とこの穴蔵の住所が記されていた。 ふと思い当たって、先ほど読んだ知り合いとも呼べない女性の特徴的な文字と比較してみた。それらはよく似ているような気がしたが、同じものであるという確信にはいたらなかった。また二つの手紙が出された場所も異なっていた。 封筒を机の上に置き、煙草をもみ消し、ブラウン管を覗いた。その封筒を開封しなかった。マイクロフォンを向けられた通行人たちが今年の抱負と、この年がどのような一年になるかを訊ねられていた。 僕はこう思う。 とにかく何かを食べ続け、排泄し、のろのろと太陽の周りを周回し、宇宙はでたらめに膨張し、人々は死に続け、そして生あるものが三六五日を終えて、確実に死へと近づくと。 質問に答えている人の背後で、数人の子供たちが騒々しくこちらを覗き込み、猿の群れのように騒いでいた。その光景は僕をうんざりさせるには十分で、それどころか僕をとても苛立たせた。子供特有の自己顕示欲の醜い一面を撒き散らすこの装置に衝動を覚えたが、誰に文句を言えばいいのか分からなかった。一方通行に与え続けるだけのこの絶対的関係性は不快だった。 まあ、それほどたいした事じゃないだろう、大体見なきゃ済むことだろう、と自分に言い聞かせ、すばやく映像を落とした。 そして頭を空っぽにしながら、外の風景に目をやった。高台に立てられたこの建物の四階部分に当たる部屋からは遠くまで街並みを見渡すことができた。それがこの住宅の唯一優れているところであるというのは決して誇張ではない。 スモッグで濁った街並みからは人の息遣いが感じられた。時間の作用によって秒針が動き、針は十時を少し過ぎたあたりを指し示していた。それは広大な空白を思わせた。無色で取り留めなく緩慢な存在が周囲を漂っていた。それを埋めたければ何かしらの行動が必要だった。 郵便物をすべて本棚の奥に押し込み、冷蔵庫にグレープフルーツジュースを仕舞うと、洗面所で顔を洗い、歯を磨いた。周囲に散らばっている服を適当に身に着ける。 すこし蟷螂に話しかけ、それからそこをあとにした。 白い息を吐きながら郵便ポストに二通の葉書を入れる。僕は行くあてもなく歩いていく。街路には人影もまばらで車もほとんど走っていなかった。家々の前には松や蜜柑などの飾りつけが施されていた。 世界で一番用事の無い人とはどのような生活をしているのだろうかと思った。きっと息をすることも忘れるぐらいの空虚を纏っているのだろう。その人は果たして退屈を感じるのだろうか。男性だろうか、それとも女性だろうか。暖かい地方に住んでいるのだろうか、それとも寒さの厳しい場所だろうか。 静寂の中を歩く。店舗のシャッターはほとんど閉ざされ、賀正のポスターが張り付いていた。規則正しくスニーカーは坂道を下り、交互に響く足音だけがはっきりと聞こえた。 坂道を下り終わると人の流れがあった。着物姿の女性や家族連れなどが連れ立って歩いていた。ぼんやりその流れに入り、ゆっくりと歩いていると向こうに神社の境内が見えた。それほど大きくもない神社には多くの参拝客が詰め掛けていた。そこでは甘酒が振舞われていた。紙コップ一杯の甘酒を貰い受けると、何かのおまじないの道具を燃やしている炎の前でそれを飲みながら辺りを見回していた。心地よい火の爆ぜる音を聞きながら、その甘い酒を口に含み、拍手を打つ人や、おみくじを木に結ぶ人などを眺めていた。多くの人々は頬を紅潮させ祝祭の表情を浮かべていた。 隣には同じように甘酒を飲みながら焚き火で暖を取る老夫婦がいた。婦人が会話を一手に引き受け、旦那は適度に相槌を打ち、時々短いコメントをそこに挟んだ。 その会話のやり取りは僕を感心させた。女性の言葉は脈絡なく会話と会話の間にはどのような繋がりがあるのか理解できないものばかりだった。スーパーの初売りの話から、だれだれさんの噂話になり、唐突に今年の干支の話になった。次々と話題は移り変わる。しかし二人の会話はきっちりと噛み合っているようだった。やがてその声は背景の雑踏に溶け込んでいき軽快な響きに変わっていった。 煙草の煙を吐き出し、ちらつく炎を見つめた。火は僕の背丈ほどに昇り、その向こう側に髪を脱色した兄弟が佇んでいた。まだ九歳ほどの弟がそれより二つほど年上の兄に対してはしゃいだ声で何かを言っていた。色違いのスタジアムジャンバーのポケットに手を入れていた兄が何かを炎の中に投げ入れた。 ぼくは短くなった煙草と空の紙コップを同じようにそこに放り込んだ。少し経つと弟が兄の腕を引っ張り後ずさり始めた。数歩下がったところから、好奇に満ちた瞳で二人は炎を見つめていた。 それから爆発する音が続けて聞こえた。青い火が立ち上る炎の中で点滅した。隣の老婦人の叫び声を聞いた。左手の甲に何かが当たる感触があった。痛みが走り右手でそこを抑えた。それから、左手に何があったのかを見た。そこには透明の緑がついていた。それを払い落とすと赤い痕が残った。それは熔けたプラスチックの破片のようだった。うずくまった婦人にも顔中に同じものが飛び散っていた。彼女は混乱し必死に両手で顔をまさぐっていた。連れ合いの男性は何があったのか分からない様子で呆然としていたが、やがて彼女に声をかけ狼狽した様子で彼女の顔のものを取り除いた。 諍いが始まる。 少年たちが炎の中に投げ込んだのはどうやら数個のライターだった。それらが熱を帯び破裂する。隣の老夫婦はもちろん、兄弟の近くにいた親子の小さな娘も痛みに声をだして泣いていた。父親は大慌てでその子を抱きかかえ介抱していた。そのほかにも何人かの人がそれに巻き込まれていた。僕は上着に付いた破片を払い落とした。辺りは一瞬の静寂のあと騒がしくなり始めた。近くにいた中年の女性、二人組みがその兄弟を詰問していた。 「あんたたち、何か投げ込んだでしょう?」 鋭い目つきに戸惑った弟が兄の腕にすがっていた。素足で靴を履き、剥き出しになり白く乾燥した膝を見た。 何もしていないと兄のほうが言い張った。 「嘘つきなさい、ちゃんと見ていたんだから」と詰問していた女性の一人が得意げに宣告した。虚勢をはり強い声で否定し続けていた兄もやがて声がだんだんと小さくなり始めた。うつむき何も言わなくなった少年たちを数人が加わって責め立て始めた。二人の瞳はもはや光を失い、無感覚なものになっていた。 交通整理のため近くにいた何人かの警官が走り寄ってくる。事情を聞いた警官は、怪我をした人に救急車を要請するかどうか尋ねた。それほどひどく怪我をした人もいないようだったので誰もそれを必要とはしなかった。少女の叫び声が響き彼女の顔は涙と鼻水で濡れて光っていた。人だかりが多くなり、遠巻きに事の成り行きを見つめていた。若い警官が優しいが事務的な口調で兄の方に質問していると、兄弟の父親がそこにやってきた。 一通り事情を聞いた父親は、二人に本当かどうか尋ねた。そして兄がうなずくのを見るや否や、大声で罵声を浴びせ兄の頭を殴りつけ始めた。弟が泣きながら必死になってごめんなさいと謝り続け、兄は父親に殴り続けられた。警官がその父親を押さえつけるまで彼は殴り続けた。その光景にうんざりした何人かの人々がそこから立ち去った。隣の老夫婦がまず初めにそこを離れていった。婦人の顔には何箇所か赤い痕があった。 少年の顔は赤くはれ上がり、口から血を流す。それから、父親は人々に謝り回った。髪は短く屈強な人物だったが表情は暗かった。その暗さは少年たちの悪戯のためだけではないような気がした。まだ泣いている少女の父親が激して父親に文句を言いつけた。ひたすら謝る彼に対して突っかかっていたのは彼だけだった。 「いったい何をしているんですか、あなた。自分の子供ぐらいしっかり面倒を見てください。娘は軽い火傷ですんだから良かったものの、もし破片が目にでも入ったらどうするのですか。一体どう責任を取るのですか」 少年たちの父親は頭を下げ続けたが、少女の父親はまだ不平を言い放っていた。 「いまさら謝られてもどうしようもないでしょう、まったく…」 少女の父親の眼鏡にも破片がこびりついていた。彼は幾分横柄な口調で兄弟たちの父親を責め続けた。そして、兄弟たちの父親はただひたすら頭を下げ続けるだけだった。 神社には多くの人が入ってきては出て行った。 少女は泣き止み、怯えた表情で彼女の父親の行動を見ていた。一通り言い終わったあとで彼は肩を竦め、少女の手を取ってそこを立ち去った。状況に飽きたのか他の人もそこを離れていった。後から炎のそばに来た人たちは不思議な様子でその状況を観察していた。 少年と父親は警官の前で恐縮しきっていた。若い警官が少年たちの目線まで膝を折り、彼等を諭していた。父親に頭を押さえつけられ二人はそれぞれ頭を下げ謝っていた。警官は父親に話しかけた。 「お父さん、まあ子供がやったことですので、あまり叱りつけないで下さいね。たいした怪我をした人もいないので、今回の事は不問にしますのから」 「はい、すいませんでした」と父親がまた言った。 「もうこんな事しちゃだめだよ」と優しく警官は兄弟に言った。うなずいた兄に対して、父親はまた頭を叩き「「きちんとすいませんでしたと言いなさい」と鋭く言った。警官が「まあまあ」となだめる。 それから、警官はまた交通整理に戻り、少年たちは父親に連れられてこの場を去っていった。揺れる火の向こう側を歩いていく親子は小さくなっていく。やがて人並みに彼らは消え去った。 少年たちを問い詰めていた中年の女性たちが子供を殴りつけた父親に対しての噂話が始まる。 僕はそこから立ち去り、神社の出口に向かった。様々な屋台を覗き込み、顔の火照りを感じる。神社を出ると人々の中に先程の親子が遠く見えるような気がした。僕はその反対の道を歩き出した。 足が赴くままに、右に曲がり左に曲がった。ぼんやりと先ほどの兄弟と父親の事を考えた。爆発音の残響に耳を澄ました。その響きは心地よかった。傾き始めた太陽は急速にその力を失いつつあり、その温かみを惜しむ様子で猫が塀の上に小さくなって目を閉じていた。 乱暴な扱いに痛み始めた二つの黒いランドセルや、父親があの二人の少年を喜ばしている光景や、家族の食卓の様子などが浮かんできた。楽しそうに友達たちと叫んでいる少年の笑顔があった。 兄弟たちの記憶にどのように今日のことは残るのか、それともすっかり忘れてしまうのかどうかを考える。少年たちのことを考えている時に、僕は何かに思い当たる。 初めはそれが何であるか分からない。やがて徐々にそれがあるまとまりになっていく。氷解する氷のようにゆっくりとあの始まりの日の記憶が甦ってくる感触を確かめる。僕は丁寧にその記憶を辿り始める。 道はやがて土手になる。遠くの空で凧が舞っていた。体は汗ばんだけれど手はかじかんだ。 小さな雪が空から落ちてきた。雪は風に吹かれ頼りなく辺りを漂い、地面に落ちる共に溶けていった。立ち止まって空を見上げる。雲は太陽を隠すことなくの光が雪の白さを際立たせた。犬を散歩させている何人かの人たちと僕はすれ違う。 見覚えのある商店街に辿りつく。多くの店のシャッターは閉ざされているせいでここがいつも見ている光景だとはしばらく気付かない。 僕は職場のビルディングを見上げる。それから僕は自動販売機で飲み物を買い、あの神社に入りこの前の場所に座る。缶の熱が手に伝わる。先ほどの神社とは違いここは人影もなく、猫たちの姿も見えない。 やがて甦った記憶は生まれたばかりの頃の、触れば潰れてしまいそうな脆さを捨てて強靭に拡がっていく。記憶の一場面が乱暴に他の場面に繋がっていく。記憶の光景に支配され、その暴風雨のような回顧に、まるでそれを追体験しているような気さえする。神社に腰掛けたままその激しい流れに浸りどこかに流されていく。少しずつその氾濫は治まっていく。 やがてその記憶が収まりを見せると僕は長く息を吐き出し改めて自分が今どこにいるかを確認する。 足元には、あの黒い子猫がいる。僕はその猫を撫でる。猫は咽を鳴らし僕の手を何度か舐めたあとどこかに消えていく。 あの老女の事を思い、カツミさんの話を思い出す。そして今夜、蟷螂に話すべき内容を考える。中断されたフカヤに纏わる話を考える。過去について言及し、未来について妄想する。話はすでに一言一句までもが完成されているように感じる。 過去はうんざりするぐらい過去であり続け、未来は永遠に未来であり続けるかのように未来である。掌を振り回しながら現在について考える。けれども振り回したところで現在はするりと通り抜けていき、現在は過去と未来がただ交錯する場所であるだけだ。風景は刻々と夕暮れから夕闇へと姿を変えていく。 僕は缶に残る冷えた飲み物を飲み干して神社を離れ地下鉄に乗り込む。 電車に揺られながら蟷螂に話している自分の姿を思い浮かべた。 そして僕はこんな風に語るに違いない。
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