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作品名:太鼓たたきと踊る日々 作者:せんぎ

第6回   カイテンカカシの空間浮遊
神社で起こった事についての会話は打ち切られ、彼女の若々しい口調が戻ってきたのは、同僚の笑い話になってからであった。おそらく、我々二人の間で共有できる唯一の心温まる人物について。その人がそこにいるだけで多くの人が笑い声を上げる。時々、その人物はそれらの声と共にうれしそうに笑い、それらの声に嘲笑の響きを汲み取り暗い表情をする。有本さんはその愛すべき人物の最近の出来事の顛末を物語っている。話しているのはそんな女の子のことだった。そのやりとりがふと空白になった、その時、どこかから流れてくる伝達物質に呼び起こされて電話のベルが鳴る。今日は押しなべて黙っていたその小動物の呼びかけに応じて、僕は椅子から立ち上がり受話器を取った。彼女は僕の動きを目で追い続けている。
「もしもし」
「もしもし、カツミだけれど」
「あっ、どうもお疲れ様です」有本さんはいったい誰と話しているかを察しようとしているようだ。
「ああ、お前か。さっきから何度か電話を掛けていたんだか、誰も出なかった。いま、事務所にはお前しかいないのか。」
「いえ、僕と有本さんがいます。すいません、ちょっと外に出ていたんです」彼女はお茶を一口飲んだ。
「そうか、まあいい。ところでな、今日の仕事はおしまい。というか、今年の仕事はおしまいだ。明日から皆に休暇にするということを伝えて欲しいのだが」
「それは、全員出勤しなくてよいと言う事ですか?」
「そうだ」「わかりました。伝えておきます」カツミさんはうむといって少し咳き込んだ。
「有本もお前もまだ仕事が残っているか?」
「いえ、残っていません。有本さんも残っていないようです」彼女は、多分、話している相手を思い当てて今ではこの会話が終わることを待っていた。
「じゃあ、もう帰っていいよ。お疲れさん」
「はい、カツミさんはまだ何か残っているのですか」
「一件だけ最後の業者周りが残っている。なかなか大変だぜ、挨拶回りもな。オレと変わっってやってくれるか?」僕は笑って、それは僕の仕事ではないみたいですね、と返答した。彼も少し笑う。
「ところで、これから何か用事でもあるかい?」
「特にはないですね」
「じゃあ、オレが仕事を終わらしたら、久しぶりに晩飯でも食いに行こうか? どうだ?」
「いいですね。それに僕も聞きたいことがありますし。何時ぐらいになりますか?」あの老女の存在をもう一度思い出して迷うことなく彼の誘いに乗った。僕は壁に掛けられた時計を眺める。指針は四時近くを指していた。
「そうだな、二時間といったところか。事務所に戻るのでそこで待っていてくれ。それと有本も誘っておけよ」咳払い。彼の後ろから人の息遣いを感じる。「ところで、聞きたいことの内容とは?」
「カツミさんは、小さい頃からずっとこの街に住んでいるのですよね?」と少し小声になって訊ねた。
「そうだが。一体何のことを聞きたいんだ?」僕は彼女の表情をちらりと向くが、彼女はすでにこのやりとりに興味を失って、別のことを考えているようだった。
「それは後ほど…話します」
「ふう、そうか」「じゃあ、また後で」
「はい、それでは」と言って僕は受話器を元の位置に直す。そして彼女の方を向く。彼女が僕に問いかける。「カツミさんから?」僕は頷いて「明日休みになったよ。来なくていいとカツミさんからみんなに伝えておいてくれだって」
「ほんとうに?」
「ああ、それと、今日はもう帰っていいってことだよ。僕は二時間ほどここで待った後、カツミさんと食事に行くけれど、有本さんもどう? これから何かある?」
「あなたが行くなんて珍しいことなのに、ごめんなさい。今日は約束があるの」
そう、と僕は頷いた。「また誘ってね」嬉しそうな顔と残念そうな顔が交互に彼女に現れて、消えていった。
「もう帰るかい? 後のことはやっておくよ」
「うん、みんなにメールを送ってから帰るわよ」
「いいよ、僕がしておこう」
「大丈夫よ。それは私の仕事だもの」と言って彼女は自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げて、手際よくメールを送りつけた。全てのことはおおむね三分間で行なわれた。そして、パソコンの電源を落とし、頬の痕に手をあてながら「悪いけど、あたしもう帰ってもいい?」と問いかけた。頭を右に傾け、長い髪がその後で追いつく。
「もちろん」「駅まで送って行こう」
「いいわよ、心配してくれているのはありがたいけど、この通り回復したし、一人で駅まで歩いていけるわ」とその場で飛び跳ね、少し踊るような仕草をした。まるで、籠からぬけだした、色鮮やかな小鳥みたいに、彼女のスカートが揺れる。
「そうみたいだね。けど、ここにいても時間をもてあまし退屈しているだろうし、途中の本屋に寄りたいから別にいいさ」と手早くジャケット着てマフラーを巻いた。彼女は首を振る。「今日、思ったのだけれど、あなたは意外に優しいのね」
「そうだよ、僕はいつだって優しいんだ。みんなが理解してくれないだけさ」と得意げに誇張すると、彼女は鼻で笑って「よく言うわ」と答える。兄弟の子犬がじゃれあっている気分はこんな感じなのだろう。彼女はトレンチコートを着込み、机に置いてあった椀を洗った。「お願いしてもいい。ポットのお湯とゴミ出しだけ片付けておいて欲しいのだけれど」
「もちろん、君の言うことには何でも従うさ」と言って出口に向かっていく。彼女も後から続き、小声で僕の知らない旋律を唄う。エレベーターに乗り込み、ゆっくりとした下降を感じながらその歌を僕も一緒に歌った。外に出ると風が少し吹き始めていた。古典音楽の短調を思わせる悲しげな灰色の冬雲が風に流されていく。通りを歩く人々は師走特有の気ぜわしい雰囲気を醸しだしながら、足早に何処かに向かっていた。
「明日は、何を、しよう、か、な」彼女は詩でも詠むように大きく口を動かした。
「あなたは?」「そうだな、そろそろ年賀状でも書くよ。そのあと、飢え死にしないで年を越せるように食料の買出しにいって、夜は鍋でもつつきながら、また会話のお勉強でもしておくさ」それについては何も言わずに彼女はくすくす笑いをしていた。僕は彼女に向かって左の唇を上げる。地下道のトンネルが見えてきた。そして彼女が改まって「今日はどうもありがとう、迷惑をかけて」とまっすぐな瞳を向ける。
「僕でよかったらいつでもそんな種類の迷惑はかけていい」
「ほんとうにありがたいと思っているの。最近、個人的に色々なことで少し参っていたから。あなたと話してなんだか少し楽になった気がするの。気を失ったのは予定外だったけれども」我々は何かを共謀するかのように曖昧に頷きあった。
「たいした事はなにもしていないよ、けど、君がそう思うことができるというのは、自分としても、とてもよかった」地下の入り口かだんだんと迫ってきた。このように人と歩きながら話すのはいつ以来だろうと記憶を紡ごうとしていると、やがて地面の下に入り込む場所にたどり着き「ここでいいわ。本当にありがとう」と彼女は立ち止まって言う。何人かの人が私たちをそれぞれの行き場所に向かって追越していく。「今日のことは気にしなくてもいいよ」そして僕は左手を上げ「じゃあ、また」と投げかけ、彼女の右手が別の生き物みたいに、ふありと上がる。「じゃあね」
そして別れの挨拶と共に新しい一年に向けての挨拶がどちらともなく発せられる。
――よい御年を。
人々の群れの中に紛れていく背中をしばらく見詰め、持ち上げた自分の左手を少し見詰めてから、踵を返し、地球の内部に通じる場所から離れていった。夕闇がだんだんと迫ってきている。帰る途中に、本屋で時間を潰し、スターバックスでコーヒーを買った。行儀よく並んでいる石畳の上を一歩ずつ歩き、ずっと自分自身の前にある自分の影を見ていた。そして、思考は自然の、また当然の帰結として、「ヒャンリ」と名乗った女性に向かっていく。それは始めて聞く響きだった。彼女の声を何度か頭の中で反芻してみる。その音はディレイを通したフェンダー・ストラトキャスターのクリアで弾力を持った音色のように感じる。エレベーターの上昇を感じながら、その厚い響に耳を傾けていた。

彼女を失った事務所の蛍光灯は孤独の灯りを撒き散らす。すぐに有本さんに頼まれた事を済まし、彼女の熱が残っている、フェイクレザーの黒いソファの上で、ラブクラフトが八十年ほど前に描き出した「壁の中の鼠」の続きのページを読み始める。最初その記号の群れに視覚は埋もれ意味を解いていくこともなく、無害な風景画をぼんやり眺めているように、映像の老女の姿を目で追い続けていた。次第に物語に飲み込まれ、描写された幻想的な建物たちに入り込んでいった。その建物たちに出たり入ったりしていると、机の上の白い電話がまた、僕を呼びだした。その文字が印刷された紙から目を離し、呼びかけに応じるかどうか五秒ほど躊躇したが、結局、溜息をついてページにしおりを挟み、受話器を持ち上げた。
「はい、もしもし」と何処かに通じている場所に向かって声を投げかける。けれども、向こう側は僕に語りかけることがなく、沈黙していた。少し待ってから、「もしもし、どちら様でしょうか?」と話しかける。一瞬のノイズの切れ目から人の声らしきものが走ったような気がした。しっかりと耳を澄ます。誰かが携帯電話を電波状態の芳しくない地点からかけているのだろうか、それとも悪戯だろうかと考えた。そしてその場所に向かって「もしもし、どなたですか? 上手く聞き取れないのですが」と返事を求める。反応を待つが、向こう側は一切応じなかった。切ってしまうかどうかを迷い、諦めて耳から白い把手を放すと、すぐさま、何かが聞こえ、反対側に持ち替えて、意識を集中した。そうすると静けさが突然やぶられ雑音が断続して飛び出した。混線しているのだろうか。その一連の音―アタリ・ティーンネイジ・ライオットの音楽を思わせる―には誰かが何かを、もしくは誰かが誰かを徹底的に殴りつけている情景を思い浮かばせた。そして、呻き声のようなものも聞き取ったような気がした。それらは、波音のようにうねり、遠くなり近づく。また、無断で床に大きな穴を掘って、僕を監視している奇妙な存在の気配が漂った。
ぼんやりと立ち竦んではいたが、先程とは違い、寒気も恐怖も湧き出しては来なかった。ただ眩暈だけを感じた。もう一度、受話器を左に持ち替えて耳に貼り付ける。声は出さない。その雑音の塊は唐突に止み、あとに残ったのは世界を切り裂きながら突き進む強い風のようであった。やがて、それは侮蔑的な、狂気的といってもいい、誰かの笑い声の様相を帯びてくるように思えた。だんだんと間隔が短くなり断続的にその空気の震えは続いた。そして、その繫がりはいつの間にか消え去っていて、回線の終わりを告げる電子音があるだけだった。
ゆっくりと左手でそれを元に戻し、足元の床にある自分自身の影に目をやる。茶色いアディダスのスニーカーのすぐ先には、穴を思わせるその黒いシミがぽっかりと白く反射する床に映し出されていた。それは深い暗闇であった。歩くと、それに併せて移動するそれを覗き込みながら、自分が誤った場所にいないかどうかを確認しようと、床や壁や机や本棚に耳を強く押し当てた。机の上に乗り天井にも耳を付けた。何も聞こえないところもあれば、何かの振動が聞こえる場所もあった。だんだんと息苦しさと圧迫感を感じ始める。とても小説の続きを読むような気分ではなかった。無色の壁紙が揺れて膨張し、溶けたチーズみたいに眼球が捉え、それを伝達していた。逃げ出すようにぬるくなった紙パックのコーヒーを持って、そこを抜け出し、エレベーターに乗り込み、最上階を示す八階のスイッチを押す。緩慢にその箱は引き上げられていき、やがて扉が開く。そして屋上に向かう階段を上り、建物の頂上へと這い出した。
空は素早く闇に向かって塗り替えられていくところだった。刻一刻と視界の届く範囲で、世界は淡い茜色から濃いブルーへと変わっていき、星がその輝きを主張し、何故か映画のエンドロールを思わせる雲を眺めた。そして、その建物の裏手にあたる方の手摺に腕をもたれかけさせて、六本目のラークにプラスチックのライターの熱量を移動させる。煙を吐き出し、下を見ると、あの神社の森が見えた。その緑の闇を中心に一画だけ家々の灯りがともされていなかった。ただ道に設置された街灯が円に滲み出しそこを照らしている。道を一本挟んだそこは、ビルディングの群れに囲まれた、黒い場所であった。目を閉じ、頭の中を空っぽにしようと試みた。わけの分からない記号や映像の切れ端が体を通り抜けて一点へと向かっていった。肩の力を抜き、コーヒーを一口飲んで、カップに煙草を入れる。水によって火が浸食される音がした。そして、自分の穴蔵に帰って、蟷螂にどのように今日の話をしようかと考え始めた。まいったな、何も思い浮かばない。
やがて都市の光りの洪水がだんだんと僕に落ち着きを取り戻させていく。その場所で起こっている、もしくはこれから起こるのであろう様々な人々の夜の悲喜劇―本質は共通している。ありふれた物語たち、誰の心を打つわけでもない―に自分が含まれているのだという想像と、そこから隔てられているという触覚が交互にやって来ては、ただ通り過ぎていった。
とても安らかな月明かりの晩が此処から始まる。
寒さが、身体の感覚を敏感にしていき、この体は熱を、温かさを持っているのだと改めて認識する。最後に大きく息をついて、鉄の扉に向かい、エレベーターは使わずに階段で事務所まで降りていった。
やっとのことで落ち着きを取り戻していたその部屋では、スーツ姿のカツミさんが机の上の僕の資料を手にとって眺めているところだった。顔を上げた彼は曖昧に微笑みながら、机の上に紙を戻す。「何処にいた?」彼はネクタイを少し緩めながら訊ねた。
「屋上に風に当たりに行っていたんです……それより、そのスーツよく似合っていますよ。」特定の色の名前は分からないが、濃いそのスーツは本当に彼に似合っていた。その首紐の格子柄の文様はなんだかそこから浮かび上がってくるように暗い灰色の生地に張り付いている。ただ、普段着慣れない衣服だろうから、少しおかしみが込上げてくるだけだった。
「ああ、まあ」「生きていく上ではこんな窮屈なものを着なくちゃいけない日だってあるさ」と笑いながら、答えを返す。すこし、私たちは苦笑した。
「可能ならば、あまり着たくはないですね」
「オレも、そうさ。できればな……さて」と彼は少しあたりを見回しながら、こう云う。
今日行く店は取引先関係の所なんだ。ほら、今年の夏にでかい箱の仕事があっただろ。そこのオーナーが店を、もちろん飲食店だが、一ヶ月ほど前に開いたんだとさ。そこに我々が業者様料金で乗り込むわけだ。彼はそこまで言い切ると、溜息をつき首を何度か捻った。――そんな場違いなところに一人で行きたくないじゃないか。たっぷりと腹を満たすのに軽く五万円はかかるとこだぜ。そしてたっぷりと自慢話を聞かされるだろう。そこでオマエがその哀れな犠牲になるわけだ。
「いい役柄ではないようですね。まったく」右の眉だけを上げ「そうかもしれないな」と呟きコートを着込んだ。そして、出口に向かって歩いていく。急いで机の上に散らばっている資料をホルダーに詰め込み、文庫本と共に鞄の中に放り込むと、一抱えのゴミを持って彼が立ち止まり振り返っている扉に向かう。あと数歩でそこまで辿り着こうかという時に彼によってその場所の灯りは消される。私たちは廊下に出て、僕は事務所に鍵をかけ、下降するべく、紐で吊るされたステンレス扉の狭い空間に入り込む。先に入ってきた彼と向かい合わせになった。地上の階のボタンを押すとその1という数字が光りを放つ。
「ところで、そのゴミは一体なんだ?」ゆっくりと入り口が塞がれる。カツミさんはその半透明の袋を見て訊ねる。
「有本さんに捨てておいてと頼まれたものです…」箱は五階から四階へ移動する。
「なるほど」「で、有本はもう帰ったのか?」私たちは四階から三階へ下降する。「ええ、約束があるらしく。また誘って欲しいと言っていましたよ」そして三階へと向かい、身震いするように振動してその箱は停止し、扉が開く。ガラス越しに人影が動き、僕は後ろを向いてそれを確認すると移動しカツミさんの横に並んで立った。静かに扉が開き始めてから、最後にカタンと扉が音を鳴らし静止するまでの間に、口の中が乾ききってしまっていた。左足からこの箱に乗り込んでくる若い女性の顔を凝視しながら言葉を失っていった。二人の顔を見比べ、くるりと私たちに背を向けて立ち、閉のボタンを押す。扉は閉まり下降が始まる。僕はその女性の後姿をずっと見続けていた。カツミさんが何かを言ったような気がした。そちらを向き訊ねた。「今、何か言いましたか?」「いや、何も。ただ、約束か、と呟いただけだよ」その言葉に女性が振り返る、それを盗み見、やはり先程の確信が蘇って来た。この女性はあの老女とその瞳が全く同じだった。薄い緑と青。
「約束、ですか」ぼんやりと聞き返す。ガラスに映る女性の顔の輪郭を視ていると、その視線に気付いた彼女が窓越しに見つめ返していた。
「ああ、約束があると有本は言っていたのだろう」
そのガラスの像が開き始めた扉のガラスから消えてしまうまで、彼女と見詰め合っていた。扉が開きその女性の歩く後姿を眼で追いながら「それが何か?」とカツミさんに問い返した。
「ふと、約束と言う言葉の意味を考えただけだ」一度彼女は振り返り、そしてこの建物から出て行った。私たちはその女性にすこし遅れて建物を抜けていった。すぐに僕は彼女を探した。辺りを見回しても彼女の姿はもうなかった。

それから二人の男は大地を移動した。

座っている後ろに大きな鏡がある。黙りこみながら、先ほど聞いた話の反芻を壁とキャッチボールでもしているみたいに思い返していた。カツミさんはカウンターの彼の横に座っている現代的装飾品に彩られた二人の女性と何かを話し込んでいる。その店は思ったよりも狭く、照明は薄暗かった。二人が始めの客であり、賑やかになった頃には、すでに店のざわめきは遠く聞こえてきていた。

―――(この街は、今からじゃ、全く思い浮かばないのだが、野原やなんかが残っていたんだ。都心といっても、かなりの郊外だったからな。そうだな、少年の時に野球や鬼ごっこをそんな野原でしていたから、もう三十年近く前になるんじゃないか? 原っぱだよ、最近はまったく見かけなくなった。)―――
彼の話の中で使われる単語が、頭の中でやたらと拡張され大きな文字となった。
原っぱ。
その話が始まったきっかけはもちろん僕が、カツミさんに、会社の裏手のあの神社の一画はどのような場所なのかを聞いたことであった。電車の中で、その話を持ち出すと、彼はこのように小声で言った。
「それは、こんな人ごみで出来るような種類のものじゃない」
そして、その店に着き、その店主と社交儀礼の挨拶を交わし、何を食べるか検討し、酩酊的液体が入ったグラスを触れ合わせ、泡を飲み込んで、仕事上の話を少し交わす。思い出したようにカツミさんは話し出した。
「あの神社には、なかなか深い想い出話が詰まっているんだ」
それが第一声だった。

―――(懐かしき、幼き頃の話だぜ。子供ってのは、何処にでも入り込むじゃないか。たとえば、かくれんぼをしている時なんか他人の家の敷地の中でも平気で入り込む。オレの家から、その神社の場所までは子供にとっては遠かったんだが、そこの近くに、仲のいい友達が住んでいた。だからあの辺りも馴染みがあるんだ。そいつとはよく遊んでいたんだけれど、かくれんぼなんかをした時には、絶対そいつはそこに行こうとしないんだ。その理由がよく分からなかったから、あの神社にもよく行ったし、あの一画にもよく行った)―――
カクレンボ。単語が浮かび上がり、それから風景がよぎる。単語は電源を供給し、古い八ミリテープを再生させるような錆びついた何かの機械が勝手に動き出す。自動的にアタマがどこか見覚えのある光景を流し出す。

―――(確か十歳の夏だった。いつものようにそいつと、ユウスケって名前だけれど、他の何人かの友人と遊んでいたんだ。
学校で幽霊の出たってうわさを聞きつけて我々はあの神社を探索する事になった。どうしてか、いつもは来ないユウスケまでもそこに来た。他のやつが、そいつに怖がっているから来たくないんだなんて冷やかしたのが原因だと思う。
もちろん幽霊なんてでなかったさ。しばらく探索してもまったく影も形も見当たらない。つまらないなと思って、そこを出ると、神社の横の寂れたトタンの家から、一人の老人が出てきた。だらしのない格好のした男だった。
彼は俺たち四人を見つけると、凄い形相で怒鳴りつけてきた。それは聞いたことのない言葉だった。叫びながら近づいてくる姿を見ながら、全員きょとんとしてお互いの顔を見合わせていた。何をそんなに怒っているかも分からなかったし、何かをした覚えもなかった。目の前まで来ると、ユウスケに何かを叫び始めた。そして何の前触れもなく、ユウスケを平手で殴り始めたんだ。鼻から血を出しユウスケが頭を抱え込んでうずくまってから始めて、そいつは殴るのを止めて、肩で息をしながらオレたちのほうを睨みつけた。次に殴られると思った。だからユウスケをほったらかしで一目散に逃げたよ。そして、ユウスケの家の前で彼が帰ってくるのを待っていたんだ。
泣きながら帰ってきたユウスケは、「やっぱりあんなとこ行かなきゃよかった」と嗚咽交じりに言って、「いったい何だったんだ、どうして奴はお前のことを殴ったんだ」と説明を求めた俺らのことを無視して家の中に入って行った。俺たちは、三十分ぐらい、彼がもう一度出てくるのをユウスケと名前を大声で叫びながら家の前で待っていたんだ。
やっと、ユウスケが、出てきた時に、一人のやつが今から復讐しに行こうと言い出した。幽霊を怖がっていると徹底的にユウスケを蔑んだのはそいつだった。彼は俺たちの中心だったからね。分かるだろう、そういう雰囲気ってさ? ちなみに、そいつはハラダって奴で、もう一人の奴がサイタニと呼ばれていた。
殴られる様なことは何もしてないじゃないか、とハラダが言った。確かにいたずら好きだったから、よくオトナに怒られたりしていたが、ここまで理不尽にやられたことは始めてだった。だから、ユウスケを除いてその考えに同調した。
「あそこには変な連中が住んでいて、そいつらは猫を食べるんだ」とその時ユウスケはまだ血の付いている鼻を押さえながら言ったんだ。
殴られたユウスケは渋ったが、結局、計画を立て始めた。他愛もない計画だよ。二人乗りした自転車で老人が出てきた家の前まで行き、叫びながら、その小屋に向かって二人が石を投げつける。その役目はオレとハラダがする事になった。ユウスケとサイタニは自転車に跨って逃げる準備をしておく。そいつが出てくると、罵倒しながら、後ろのやつが自転車を押して、素早く逃げ去る。それだけだ。やりすぎと言えなくもないが、まあ可愛らしいといえば、可愛らしい。とにかく、それを実行する為に石でポケットをパンパンにして、自転車の籠にも詰め込んでそこまで向かっていた。
着いてからすぐに、ユウスケがこんな事は止めようと怖気づいて言った。それに対して、三人は意気地なしとか何とか囃し立てた。暫らく揉めたけど、我々は計画を実行に移した。大声で叫びながら、その家に向かって石を投げ始めた。何枚かガラスが割れ、家の周を囲っているトタンは辺りに不快な音をはじき出した。我々の奇声と共にね。投げ続けていると、扉から出てきたのは意外にも若い女性だった。はっとするほど美人なおんなの人だった。
「何をしているの、あなたたち。止めなさい」とその女性が叫んだ。声は怒っているというよりは何か見たこともない動物が暴れているのを諭しているようだった。その声を聞いたあとに、ハラダがもう一個の石をその家に向かって投げつけた。彼女は眼を硬く閉じ、体を強張らせた。石が音を立てて落ちると同時に、大急ぎでオレとハラダは自転車を押した。サイタニとユウスケも必死になってペダルを踏みつけた。
それから直ぐに、またあの老人の声が聞こえた。オレはもう自転車の後ろに跨っていたから、罵ってやろうと後ろを振り向いたんだ。そいつに「ざまあみやがれ…」と叫びかけてから、自分の目を疑ったさ。老人はその女性を突き飛ばし、鎌を持って凄い速さで追いかけてくるんだぜ。オレは、早く逃げろ、とユウスケの背中を強く叩いた。オレが乗った自転車を走らせているのはユウスケだったから。彼も後ろを振り向き、その光景を見ると目を剥き出して、少し自転車のペダルを踏むことも忘れてしまった。
「走れ!」オレは大声で叫んで、それを言い終わるとまた後ろを振り向いた。
その男は、叫びながら裸足で走り、追いつけないと分かると、その鎌を俺たちに向かって投げつけた。鎌だぜ。当たり所が悪けりゃ死んじまう。その時初めて絶句するって言う言葉の意味を体で理解できたね。鎌は隣を走っているハラダとサイタニの横を回転しながら、過ぎ去っていった。鎌は二人には当たらず、横の溝に放り込まれたかに思えた。多分ハラダも凄く興奮していたんだろう自分の腕に当たったなんて気付いていないみたいだった。我々はユウスケの家の前まで着てから、ハラダの腕が血で溢れていることを知った。幸いそれは掠り傷程度で済んだけれど、その時はほんと多くの血にみんな狼狽して、ユウスケが家にいた彼の母を呼んだんだ。その傷を見たユウスケの母は驚愕し、いったいどうしたの、我々に聞いた。サイタニが一部始終を話し出そうとしたが、彼女は「とにかくあんたたちは家のなかには入っていなさい。ハラダ君を病院に連れて行くから」と我々三人を家の中に放り込んで、すぐさま近くの病院に駆け込んだ。ハラダは何を聞かれてもずっと黙り込んでいたらしい。
残された三人は事情を正直に話すかどうかで、口論になった。サイタニは話すべきだといった。
――オレたちはそこまで悪いことはしてないじゃないか、あのジジイが先にやってきたんだぜ。
ユウスケとオレは揉め事が嫌だったので話すのは止して、黙っていようと主張した。
 話は纏まらず、得意の口裏合わせもしないまま、左腕に包帯を巻き、血の着いたシャツを着たハラダがユウスケのお母さんに連れられて帰ってきた。ユウスケの母は穏便で優しく線の細い人だったが、このときばかりは凄い表情で我々に詰め寄った。
「一体何があったのかを、きっちり話してもらうからね」というと、サイタニが話を始めた。仕方がなかったので、最初はこけただけだと言い張っていたハラダも含めて、出来るだけなにも非のないように、口々に話を始めた。それを聞き終わると、思いつめた顔つきでユウスケの母は、このことは誰にも言ってはいけませんと強く言い聞かせた。
――あんたたちの親御さんにも連絡しておくからね。これからは絶対あそこにいっちゃいけません。わかった?
それから我々はそれぞれの家に重い気分で帰っていった。サイタニとオレは近くに住んでいたので二人で今晩、両親にこってり絞られるのをどのようにして回避しようかと相談しあっていた。家に帰ると母親が待ち構えていたけれど、何にも聞かれなかった。それが不思議で、どうして何も聞かないんだと逆に聞いたぐらいだった。
「何も聞かないで頂戴。お父さんにもよ」とオレの母は言って、夕食の準備を始めたんだ。いつもなら、何が起こっても、またあんたが悪さしたんでしょう、と言う具合にこっ酷く叱られているのにな。
そのうち父親が帰ってきて、食卓で話しているのが聞こえた。そして、一階から大声で父親の呼ぶ声が聞こえた。オレの親父はそんなに怖い方じゃなかったんだけどさ、その時はいつになく真剣で「おい、二度とあそこをうろちょろするな。それから今日あったことは誰にも言うなよ」とユウスケの母と同じことをきつく言い放った。凄く静かに夕食が始まった。妹だけがぺちゃくちゃと話して、殆ど誰も相手にしなかったので、「またお兄ちゃん、何かしたんでしょ?」と母に訊ねた。母は珍しく今日はお兄ちゃん悪さしてないのよ、と妹に言った。
食事が終わってテレビを見ているときに、サイタニから電話がかかってきた。
「おい、怒られたか? そうかオマエの所もか。オレも何も言われなかったよ。ハラダの父さんも今日は奴を殴らなかったみたいだぜ。さっき連絡があった―――ハラダの父は紫色の痣が出来るまで彼を殴りつけることが度々あった。
「なあ、あそこはどんな場所なんだ? そうか、オマエも近づくなって言われたんだ。俺も言われた。なあ…今度また二人であそこに行ってみないか? あのおんなの人にすいませんでしたって謝って、どうしてユウスケがあのおっさんに殴られたかを聞き出そう」それから、三日ぐらいして、俺とサイタニとハラダであの神社の周辺をうろついた。ユウスケはどうしても来ようとはしなかった。何回か行ってようやく彼女と会うことが出来た。その時は、オレとハラダしかいなかった。
あんたたちまた悪さしにきたの? 見咎めて彼女は二人の腕をこの場から離すように引き摺りながら言った。
――いや、違うんです。僕達は謝りにきたのです。
――そうなんです。石なんか投げてすいませんでした。
我々が交互に言うと、そのおんなの人は立ち止まり、微笑して、「いいのよ、叔父さんがあんたたちの誰かを殴ったんだから。それに鎌なんて放り投げたんだもの」と言い、包帯の巻かれたハラダの腕を見てから、ハラダの手を離した。「大丈夫、その腕? 痛くない」彼女は背を屈めて聞いた。ハラダはまごつきながら「痛くありません」と言った。
彼女は我々を神社まで連れて行き、そこで様々な質問を聞いてくれた。けれども、とうとうあの老人がどうしてユウスケを殴ったのかは聞けなかった。その後で、彼女は二人と遊んでくれた。その女性をカッちゃんと呼んでいた。二十歳後半だったみたいだけど、まだ十台に見えた。その夏、彼女は四人をその神社で相手してくれた。オレたちが知らなかった色んな遊びを彼女は教えてくれた。あの事に話が及ぶと、彼女は悲しそうな顔をした。だから、オレたちは一切聞かなかった。誰も口にこそ出さなかったけどみんな彼女のことがとても好きだったんだ。そんな顔は見たくなかったから。)

彼はそこで話を終えた。僕は何も言わずに机の上で彼がジッポライターを閉じたり開いたりしている音を眺めていた。店員が空いた皿を引き下げ、飲み物を勧める。僕はグラスを振って中身を確かめる。氷が揺れた。彼がジントニックを注文した。店員が立ち去ると、ようやく石を廻し、火を点けて、煙を吐き出す。
(過去にあそこで何があったのか詳しい話はオレもわからない。これは、聴いた話だからね。けれど……、あまり明るい話とはいえないな)
店員から飲み物を受け取ると、口に含み、コースターに置く。僕の頭の映像が氾濫を起こし、どこかへ遠ざかって行く。彼は何かを推し量るように僕をじっと見た。僕は無性に背後の鏡が気になり、何度も後ろを振り向いて鏡に写るものを確認した。
(我々が彼女と触れ合ったのはその夏だけだった。いつの間にかその場所もどんどん疎遠になって行ったし、それらの想い出は深く沈んで思い出しもしなかった。
ずいぶんたって、その場所の由来を聴いたのは、東北の大学で建築のことを学んでいるときだった。オレが大学生の頃はあの好景気の時代だったんだ。住んでいた下宿は片田舎だったけれど、そこでもその雰囲気は嗅ぎつけるぐらいだった。けれど、それを一番ひしひしと感じたのは実家に帰ってくるときだったよ。半年帰らないだけでそこはまったく様変わりしていた。住んでいた多くの人が土地を売って何処かに移っていった。空き地には高い建物が立ち並んだ。ハラダもサイタニもオレが大学に行った年にここを離れた。何回目かの長期休暇の時に、ユウスケもここを離れることになった。彼の親父が癌で死んだ年だった。久しぶりにユウスケに会って、オレは彼の家の引越しを手伝った。それが終わると、一晩そのがらんとした家で二人は泊まることになった。酒を飲み交わしながら、色んな話をしていると、ふとユウスケはあの話を始めた。
「覚えてる? かっちゃんのこと。実は、あの人のこと、憧れかな、とても好きだったんだ」相槌を打ちながら答えた。
「綺麗な人だったな。ハラダもサイタニも好きだったと言っていたよ」ユウスケは黙り込んだ。そしてぼそぼそと話し始めた。その時、始めてあそこがどのような場所かを知った。そこは、いわゆる、朝鮮人部落だった。敗戦からしばらくして、そこを舞台に虐殺があったらしいとユウスケは語った。その行いから人々を守ろうとして、神社の神主の戦争帰りの息子が何人かの家族を匿った。その事に憤慨したオトナたちはその青年を引きずり出して殺し、神社の入り口を、朝鮮人部落の方へ付け替えた。それから、差別と小競り合いが続いた。そこで彼が殴られた理由を始めて知った。
「オレの親父さ、あの当時、町内会の代表で、あそこの人達の立ち退き運動の主導者だったんだ。殴った人はオレが親父の息子だって知っていたから、殴られたんだよ。その時はまったく分からなかったけれどね」。しばらく沈黙があった。
その話をしたあとに彼は眠った。彼のいびきを聞きながらオレは自分がすごく遠くに来てしまったと思った。すごく遠い、帰り方も分からない。それから、彼に会ったことはない。あの場所にももうその人々は住んでないようだ。忘れられた場所だ。)
 それが語られたことだった。あの老女について質問しようとしたが、やめた。しばらくは何の話もしなかった。カツミサンの横に座った二人組みの女性が彼に話しかける。
 
先程から背後の鏡に写っている自分自身の姿が、回転する首を捻じ曲げ機械仕掛けの人形のように辺りを一周ぐるりと見回している。それは冬の畑にぽつんと置き去りにされた、首だけが回転するカカシのようだ。その視線を背中に感じていた。拭い去ろうとすればするほど、その感覚は沼に沈んでいくように背中の穴の中に沁み込んでいった。
席を立ちトイレに向かい、その水溜りに向けて数回吐いた。金色の吐瀉物が広がり、酸が口に拡がる。水を流し去り、顔と手を洗い流す。何度かうがいをしてから、鏡の中に映る人物の姿を見た。そこにはきちんといつもの僕が幾分窮屈な表情を見せていた。
酒を飲んで吐くなんてことはいつ以来のことだろう。
洗面所に立ちながらぼんやりと考え込んだ。席に座りなおしてから、前に置かれた液体を飲み干し、カウンターの中に居る店員に温かいお茶を所望した。そしてカツミサンにそろそろ帰ろうと思っていることを告げる。彼は何度か頷きながら、正確なところは分からないんだがあの土地に纏わる話はそういったものだよ、と小声で話し、でもどうしてあそこに興味を持ったんだ、と同じ事を問い掛けた。
何となく変な場所だなと思ったからですよ、とまたしても同じように答え返した。出されたお茶を何口か啜ったあと、僕はそこをあとにして、夜道を歩き、地下道を歩き、帰りの電車に乗り込んだ。その一定の動きに揺られながら、いつまでたってもキチンと働かない思考にうんざりし、眠りから醒めたとき、改めて今日あった出来事を考えようと決めた。電車を降り、牛乳を買って帰った。
そして、同じ規格の洞窟の入り口が並び立っている自分が住むマンションのドアを開け、蟷螂に食事を与えてから、寝支度をし、さっさとベットに潜り込んだ。眼を閉じると奇妙な浮遊感は微かに残っていた。けれども疲労はストイックにそれに打ち克ち、やがて色の無い世界へまどろんでいった。

次の日昼近くに起きて、しばらくぼんやりとしていた。
僕は蟷螂に語りかけた。倉本さんの事を語り、老女の事を語り、頭に過ぎった奇妙な存在について語り、カツミさんの話を螳螂に語る。
「……聞いたところによるとその神社のある場所はむかし強制労働のために連れてこられた朝鮮人たちが住んでいた場所で、そして、敗戦直後、その場所で虐殺があったらしいんだ。以上、それが昨日起こった出来事の全てについて。まあ、ところどころ飛ばしたところもあるけどさ……まあ細部を永遠に話すほど暇ではないし、オマエもそこまで詳しく聞きたいとは思わないだろ? たとえば昨日何処で何回小便したかとか、電車の席の隣に座ったおばさんの髪の染まり具合だとか」
蟷螂に話を聞かせると僕は、街へ買い物に出かけた。我々が年を越せるだけの食料品と、何本かの昔の映画と何冊かの本、それから、年賀状を買った。買い物を済ませてから喫茶店に立ち寄り、温かいコーヒーを飲みながら買ったばかりの新しい本を開き、その印刷された紙の匂いを嗅いでいた。それに飽きると通りを行きかう人たちを眺めていた。世界の営みはとても規則的に続いているようだった。どのようなしるしも持たずに僕は風景に溶け込んでいる。しばらく、自分の無名性を楽しみながら過ごし、帰途に着く。部屋の灯りを点けて彼に声を投げかける。「よう、兄弟。調子はいかがかな?」
相変わらず反応のない彼に対して、冷蔵庫に食料を放り込みながら他愛のないことを言い続けた。買ってきたものを整理し終えて、すぐさま年賀状に取り掛かった。それほど多くもない決まりきった形式の手紙を書き終えると、近くのポストに投函した。それを済ましてしまうと、するべきこともしたいことも何もなくなってしまった。
煙草に火を点け、時間を持て余しながら、蟷螂を眺める。そして、壁時計に目をやった。まだ午後の三時を少し過ぎたばかりだった。けれども、冬の太陽は急速にその力を失いつつある。何をするべきか思索しながら、ふと、何かが抜け落ちている気がした。その空白についてじっくりと考えを馳せる。蟷螂に問い掛ける。
「なあ、いったい何を忘れているのかな」。
彼は答えない。彼を右手に乗せもう一度異変を感じ取ろうとした。午後の三時。十五時間。
いったい今は始まりの日から何日たったのだろう? 僕はそれを思い出すことが出来なかった。何度時計に目をやっても、自分の歳月を数えようとしてもうまく頭が働かない。
しばらくしてあれほど自然に身に付いた習性は跡形もなくなっていることを僕は知った。興奮しながら彼にそれを伝えていた。僕は僕自身の獲得した習性としての月日を失っていた。それから突如その習性の始まりの日の記憶が甦り始めた。
――覚えているよな、何度か話題になったんだけれど、昔からの友達にフカタニというやつがいた。それと全く同じ漢字、「深谷」という文字だけれど、呼び名がフカヤという友人もいるんだ。始まりの日の前日に一緒に居たのは、彼だったんだ。
そしてフカヤに纏わる話が吶々と始まる。
ロッカールームの行動指針 ―蟷螂に語りかけたこと― 
 その男のことは知っていた。話した事はなかった。あちらがボクのことを知っているかどうかはわからない。きっと覚えていないだろう。いつも座るベンチからその男を眺めていた。彼の名前をボクは知っている。
自動扉が開き、ベンチの横を通り抜けて、受付の女性に話しかける。彼の存在に始めから気付いたわけではない。だからこれはきっとこのように行動したのだろうという想像であった。そして、たぶん間違いはない。講習時間の終了を告げるチャイムが鳴り響き、辺りは騒がしくなった。
彼はカウンター越しに事務員と喋り終え、周りを観察した。
いや、観察しているのはボクの方か? 
辺りを見回したあと、彼はこちらに向かい、ボクの横に座った。思ったとおり、ボクを見ても、彼は何の反応も示さなかった。ボクを見ず知らずの人であると選別したようだ。
ホールはますます騒がしく、そこを夏の制服を着た教官たちが同僚と軽快な会話をしながら横切り奥の控え室に歩き去った。彼は横に座り脚を組む。彼とここで出会うということに驚き、彼を一瞥した。
それから空調で冷やされた場所に視界を戻した。驚きはすぐに消え去り周りの光景がまた拡がりだした。とにかく人間たちはうるさかった。
 ボクは荷物を置いたまま立ち上がり、彼と話していたカウンターの向こうの女性に話しかける。
「0016223です。予約しているのですが、次の時間に空きは出たでしょうか?」
「少々お待ちください」
彼女は予約帳簿を背後の机から取り出した。後ろで結んだ髪が揺れ、首の産毛が窓から差し込む光りで輝いた。前を向いた彼女はこのように断言した。
「次の時間は無理ですね。お時間があるようでしたら、その次の時間まで待ってください。それなら必ず講習を受ける事が出来ますよ」
ありがとう、と言って彼女の会釈と共にボクは席に戻った。腰を下ろし、もう一度、彼の姿を観察した。それからヘッドフォンを頭に乗せ、ページの続きを読み始めた。
チャイムが鳴り、講習時間が始まった。ロビーの人気は幾分少なくなった。何台かの車が路上教習のために敷地から出て行った。
ここに残っているほとんどの人々は話しているか、それを聞いているかであった。集団になって会話をしているものもいれば、電話に向かって話しかけている人もいた。ここで誰かに何かを伝えていないのは、ボクと彼だけだった。
どうやらボクたち以外の人々は語るべき事柄があって、それを聞くべき人々がいるようだ。
音楽はその風景からボクを隔離し、物語はボクを違う世界に引っ張り込んでいた。そのために彼がこちらをじっと見ている事にしばらく気がつかなかった。その視線を感じ始めてから、やがてボクは諦め、本を閉じ、ヘッドフォンを外し首に掛け、彼を見た。彼は足元から順に視線を這わせ、最後にボクの眼を覗き込んだ。
さて、と組んだ脚に両手を乗せ、こちらを覗き込んでいる彼が言った。
「お互い自由な時間が持てたみたいだな。まずは前提を受け入れる事から始めようじゃないか」
それがいったい何を意味するところなのか、わからなかったので、ボクは黙っていた。
容器に入った液体を揺らしながら、太陽を透かし、その光りの屈折を吟味するように、彼は、たった今、自分の言葉を確認しているようだ。
ふらふらと彼の瞳は宙を映し、それからボクの姿を映した。
「君はボクを知っているだろう? けど、君はボクと話そうとしなかった。違うかな?」彼は一つずつ区切りながら話しかけた。
迷ったあとにボクは答えた。
「そのとおり。君を知っている。けれど、ボクのことを覚えているとは思わなかったな、フカヤくん。それとも、見知らぬ人にいつもこのように話しかけるのはよくある事なのかい?」ボクは座り直して背もたれに深く沈みこんだ。
「一部正解、そのほかは間違い」彼はボクに微笑みかけた。
「まあ、とにかく、周りを見てみろよ。自分が囚われていることを知らない連中ばかりだ。ウンザリするほど正しい筈だよ。君は分るだろう?」
彼は人差し指を突き出し、円を描いた。そして顔を歪め、辺りを見回した。
――まったく、動物園の猿の檻よりもひどい場所だな。ここには、節度と言うものの欠片すらない。
この言葉がここにいる人達に向けられたモノなのか、ボクに向けられたモノなのか、それとも自分自身に向けられたモノなのか計りかねた。ボクはプレイヤーの電源を落とし、本をバッグに閉まった。
「ボクを浅はかな、薄っぺらな人間だと君は思っているだろう。確かにそれも間違いない。君はここにいる連中と同じ種類の人間だと、ボクを見做している。これも正しい。実際にボクはここにいる連中と同じように、自分が特別な存在だと信じている者たちとなんら違もないくだらない人間だ。ただ、それを知っている点のみがボクと彼らの違いだ」
煙草を一本取り出し、それをくゆらせながらボクはその言葉の意味を考えた。彼はその様子を眺めていた。
「まずは前提から始めよう」
彼はまたそう言った。
前提とはどういうことだろう、と彼に訊ねた。
「君が孤立していると言う事。三ヶ月のあいだ、教室でボクを観察していた事。当たり障りのない会話しか、しないこと。君がとてつもない馬鹿だという事。時々、授業を抜け出してここに通っていた事。君が僕は君の事を覚えてないだろうと思っていた事。けれど逆にボクが君の名前を知っていると言う事。お互いが思いもしなかった場所で出会って会話を始めたと言う事。それから、お互いがどのような経緯があってここにいるのか理解していないと言う事、主なものはこれぐらいかな」天井を睨みつけながら彼は指折りに数えた。
そして我々の前で煙草を吸いながら、電話越しに笑いかけている女性を彼は盗み見た。彼女は灰皿に煙草を捨て、電話を切ると、新しい煙草に火を点け、また誰かと何かを話し始めた。
「それで、その前提とやらから始めて、どこに向かうんだ?」ボクは煙草を灰皿に押し付けた。最後の煙がどこかに消え去るのを見届けてから、彼はまた人差し指を立てて、今度は唇に少しの間つけた。
「もう一つだけ付け足そう。正確に言うと、これは大前提という前提の裏側にある骨子のことだけれど…」
彼は脚を組み替え、左手を上にして重ね合わせた手を、膝に置いた。そして、右唇を歪ませ、こちらに眼を据えた。
「目的を考えるな。意味を考えるな。結果を振り返るな。必要性を必要とするな。必然性を求めるな。何かを目指して行動するな」
整髪剤で黒光りしている髪を何度か指先で揺さぶってから、彼は額に皺を寄せた。女性は二度目の話を終えてからも、名残惜しそうに電話を見詰めている。そして何かの置物でも眺めるような目つきで我々の姿を眺め、歩き去った。
「欲望の赴くままに流されていこうじゃないか。これが行動原理だろう。それらが引き起こす事柄については、知らない振りをするんだ。そしてこっそりと掠め取っていくんだ」
ボクは彼が何について話しているのか全く理解できなかった。だから、きっとこれはそのような次元の問題ではないのだろうと思う事にした。それは彼が大前提と銘打った言に表れていると感じた。たぶん理解する必要もないのだろうし、意味を探すことも必要ない。水が高みから落下していくように、ただ自分自身にそれらを染み渡らせていくだけだ。
「マタタビ」
唐突に彼は言った。
「マタタビ?」と聞き返した。
「この単語を聞いて何を思い出す?」
「マタタビって猫を誘惑する植物だよな?」ボクは彼に訊ねた。
「そうだよ。これを聞いて何が浮かび上がる?」静かに彼は言った。それについてボクは考え込んだ。
「小学生向けの学習漫画。諺や色んな単語の意味を四コマ漫画で説明している本。どんな内容だったのかも覚えてない。その中にマタタビが出てきたような気がする。それしか思い浮かばない」
「この単語でオレが連想するのは、むかし父親と住んでいた家の前にマタタビで狂った猫たちが集まっている光景だ」
彼は自分の呼び方を変えた。そして多少親しみを込めてボクに言った。
「一つの単語で全く違う想像をする事って不思議だと思わないか? きっとここにいる全ての人間がこれを聞くと違うものを頭に浮かべるんだぜ」
そうかもしれない、と、とりあえずボクは呟いた。彼の話し方の変化に少しばかり戸惑った。彼の親しそうな態度がボクを削り取る。
講習の終わりの鐘が鳴り響いた。ボクは腕時計で時間を確認した。我々が通っている学校の授業がそろそろ終わる時間だった。
彼は立ち上がって、伸びをした。
「あとでまた」
それだけを残し、ベンチから離れ、彼はどこかに消えた。彼の後姿を見送った。カウンターから女性がボクの名前を叫んだ。ホールにはまたもや喧噪の支配が始まり、そのために彼女は叫ぶ必要があった。そこに行き、先程の女性がボクに告げた。ボクはもう一度、彼女のうなじの柔らかそうな毛を見たいと思った。けれども、彼女は振り返りそうもなかったので諦めた。
「次の時間に空きがでましたので、講習を受ける事が出来ますよ。遅れないように配車券を貰って下さい」
ボクはその横で番号を別の係員に教え、その券を貰った。外に出て指定された番号の車の脇に立ち、必要な書類を準備した。車の番号は52だった。少し待っていると、青い半袖の制服を着た教官が現れた。彼の講習を受けるのは初めてだった。彼は書類に眼を通した。
「今日は、最終検定に向けての最後の講習ですね。では車に乗りましょうか」
教官は助手席に乗り込んで、今日走る路上のコースをボクに教えた。彼の服から立ち昇る匂いは干からびた果実みたいだ。講習の間じゅう教官の体験した他愛もないことの不満と、下品な笑い声と、返事に窮するような彼の意見に、相槌を打ちながら、ボクはフカヤという人物について考えた。彼がホールで語った内容を思い返した。
このときになると彼の言葉は一つ残らず正しいと確信せずにはいられなくなっていた。
彼と同じ名の人物をボクは知っている。深谷。けれど読み方は違った。もう一人はフカタニと呼ばれていた。読み方以上に気性は違っている。
フカヤはフカタニと笑い方が似ていた。この街に来て始めて覚えた名前が彼のものだった。その名前と、少し引き攣るような特徴のある笑い声がボクに彼の名前を記憶させるきっかけであった。そのような名前でなくともボクは彼に興味を持ったのかもしれないが、今となっては分らない。
必要がない限り、ボクはクラスの誰とも話さなかった。その理由は上手く説明できない。全ての事を、きちんと説明しなくちゃいけないこともないということだ。
この街に来て三ヶ月間、確かにボクは機会がある毎に彼を観察した。
教室の中や、食堂や、トイレやその他あちこちで。
彼は数人の友人たちといつも一緒にいた。どうやら、その中心にいるのは彼のようだった。周りの連中は退屈をこの上なく上手に着こなして、大声を張り上げふざけていた。聞こえてくる内容はだいたいお互いを嘲笑するものであった。その集団は、すごく派手な服を身に付けるという共通認識があるようだった。それらは目立つ事に間違いないが、いつも地味なものを身に付けているフカヤに比べてどうしてか引けを取っていた。 
彼が自分の席から立ち上がり、どこかに歩き去るとこのクラスの少ない女性たちは、その姿を眺めて溜息をついた。そして、彼の周りから巻き上がる春の微風に髪を靡かせる事を望んでいるようだった。現実に、彼が歩くとそのような気流が流れ出るのだ。
彼を取り囲む友人たちは、彼らの人格が際立っている印象を彼のお蔭で周囲に与えることができていた。絶えず彼は周りを愉快にする事ができ、そして、周りの人々の魅力を的確に見極め、それを惜しむことなく抜き出して彼らに与えた。
けれども、どうして、ボクのことを彼が知っているのだろう。全く見当がつかないな。
教官はようやく彼の経験に基づく偏見に満ちた社会構造の力説を止めて「さて、そろそろ教習所に戻りましょうか」と指示をした。
夕方にかかり道路は込み始めていた。列がなかなか進まなかったので彼はいらいらしていた。そして、窓の外に向かって悪態をつき始めた。きっと、煙草を吸うことができずに次の講習が始まってしまう事に対してだろう。それはフカタニを思い出させた。ボクは止まった車の中で、ハンドルの輪に置かれている自分の手の甲を見ていた。いつもより少しだけ大きく思えたが、きっと気のせいだ。
フカタニは笑い方が似ているという点を除けばフカヤとは全く違うな、と二人を比較していた。ようやく教習所へと続く小道に入ると、正面玄関にフカヤがぼんやりと佇んでいる所を目撃した。教官はボクに「試験の方は大丈夫でしょう。試験日は火、木、日の曜日です」と言い、正面玄関にボクを下ろして急いで車を元の戻しに行った。ボクに気付かないフカヤの横顔を見ながら、ロビーに入り、書類を所定の位置に戻し、受付のあの女性に、日曜日に検定を受けたいのですが、と言った。彼女はボクの番号を聞き、コンピューターにそれを打ち込んだ。
「来週の日曜日に試験の予約を取りました。当日は九時半集合になっていますから、遅刻をしないように注意して下さいね」
「どうも」と彼女に言った。それから彼女は中断した作業を再開し、机に向かって何かを書き込み始めた。ボクがそこを離れずにそれを眺めている事に彼女は気付いた。
「まだ何か用事がおありですか?」と手を止めてボクを見上げた。彼女の名前は知っている。胸の名札によると彼女は清水さんだ。苗字しか知らない。彼女もボクの名前を知る事ができる立場にあるが、きっと覚えていないだろう。少しだけ迷ってからボクは入り口に立っているフカヤのほうを指差した。
「あそこに立っている人がいるでしょう、見えますか? ほらあそこの玄関に」彼女は体を伸ばしボクが指差したフカヤの姿を確認した。そして、それがどうしたのかしらと言った表情でこちらを向いた。
「あの人からどんな印象を受けますか?」と清水さんに訊ねた。
今度は少し体を持ち上げてまたフカヤを見た。そして、彼を眺め少し考え込んでから、「とても感じの良さそうな男の子だね」彼女は丁寧に言葉を選び、言った。
「つい先程、いつもあなたが座るベンチでお話していた人でしょ、彼。わたしが見た限り、あなたが教習所に通いだしてからここの職員以外で話したのはあの人だけじゃないかしら?」
彼女は赤い眼鏡の縁に触ってから、その言葉に驚いたボクの表情を見て、すこし恥ずかしそうな顔をした。それから説明でもするみたいに語り始めた。
「あのね、殆どの人は私たちがこのロビーにいる人々の事に関心もないし、覚えてもいないと思っているの。向こう側から見ると私たち、空気みたいな存在なの。けれどね、こちら側から覗いていると、結構色々わかるのよ。私達も意外に観察していたり、考えたりしているのよ。だから、あなたが二ヶ月ほど前から、あそこのベンチで音楽を聞いたり、本を読んだり、辺りを観察したりしていた事もわたしは知っているわ。もちろんそんな事は微塵も表情に出さないし、他の人々も、あなただって、こんなこと想像もしていなかったでしょう?」その口調には少しだけ弁解が含まれているように感じた。隣の彼女の同僚が怪訝そうな顔で私たちのやり取りに聞き耳を立てている。
「表面上はまるで機械のように業務を淡々とこなしているだけよ。感情を見せるような事はしないわ。けれどもちろん中身は人間だもの、色んなことに興味があるのは当たり前のことでしょう?」
「はあ…それは、まあそうですね」とボクは間の抜けた声を出した。
「けれど、この場所でボクの行動をきちんと認知している人がいるなんて思いもしなかったな」と誰に言うでもなく呟いた。
そんな様子を見て彼女は可笑しそうに声を上げた。きっと呆けた表情をしていたのだろう。その声はすわり心地のいい長椅子に腰掛けた時の安堵感や体の力加減を思わせる笑い方だった。ボクも彼女に引き込まれて苦笑した。
「彼とはお友達なの? とても気の合うように見えたのだけれど」
「いや、彼と話したのは今日が初めてです。どうやら以前からお互いのことを知ってはいたみたいですけど…一応、彼とは同じ専門学校でクラスが一緒ですから」
ボクは入り口に立っているフカヤの姿をまた見た。彼は手に持った白い傘を時計の振り子みたいに揺らしていた。
「これから、友達になるんだと思います」続けてボクは呟き、フカヤから眼を離した。自分の口から友達という単語が発声された事実はボクを不思議な気分にさせる。
彼女の上司と思われる人が事務所の奥から彼女の名前を呼ぶ。彼女はその声に向けて返事をしてから、何かを確認するかのようにボクを見た。
ボクはまだ何かを言い足りないような気がしたがとにかく、ありがとう、と言い立ち去る素振をみせた。彼女は曖昧な表情で、どういたしまして、と頷いた。
ボクはそこを離れ、フカヤの方に歩き出し、その途中で振り返った。カウンターの中で彼女はこちらに背を向けて立ち上がり、首筋の不揃いのあの髪が見えた。それは随分疲れて萎んでいるように感じた。
明日になればまた元に戻るさ、とボクは声に出さずに自分自身に呟いた。
自動ドアを通り抜け、フカヤの横に並んで立った。
「もう帰ったのかと思った」
こちらを向いてボクを上から下まで観察した後に彼は言った。彼は先に立って歩き出した。駅に向かう教習所の無料送迎バスには乗らず、高台の教習所から歩いて駅に向かうようだ。
空は段階を踏んで暗闇に塗り替えられる過程の途上だった。並んで歩きながら、彼はボクの家の所在を訊き出し、その場所を告げると彼は黙り込んだ。我々の進行方向とは逆に帰途につく人々とすれ違いながら駅に向かって歩いていた。どこかの草叢から小さな虫たちの羽音が聞えてくる。無言で坂道を下り、二人は街並みを見下ろしながらその拡がりの先にある焼けた空を眺めた。靄が架った曖昧な地平線の上で茜色の空があり、そこに雲の影がどこかに向かいながら漂っていた。朝から雨を降らしていたその雲もどこかに帰るようだ。所々まだ濡れている道から雨の乾く蒸せた匂いが立ち込めている。
「途中だから家に少しばかり寄っていかないか?」とフカヤがボクに提案した。
どちらでもよかったのでボクは返事をしなかった。代わりにアスファルトに転がっている石を一つ蹴飛ばし、首を傾げて彼を覗き込んだ。答えを待っていた彼は、やがて視線を前に戻した。ボクは鞄の中から煙草を取り出し、煙を吐き出した。この大地を最後に照らす輝きの変化に合わせてその煙は上昇しながら変化していった。そして彼からこのような誘いが持ちかけられることついてその理由を考えた。しばらくして彼が前提と話した言葉を思い出した。――意味を考えるな。ボクはそれに従った。
「四輪?それとも二輪?」
ボクは足先の動きを見るともなく見ていた。
「普通自動車免許」
ぶつ切りの言葉、ぶつ切りの雲、そして、ぶつ切りの会話だった。
「オレは二輪の免許を取るんだ。今日始めて実技を受けたよ。中型の免許は持っているんだけど、どうしても大きい単車に乗りたいからさ。君は後どれくらいで免許が取れそうなんだ?」
「次で最後の検定試験」
「じゃあ、オレとは入れ違いってわけか」彼は残念そうに言った。
「ところで、二輪の免許は持ってるかい?」
「持ってないな」とボクは答えた。
「じゃあ、バイクに乗ったことはないの? 後ろでもさ」彼は質問する。
「数回だけならあるよ」とボクは答えた。
そのあと彼はいかにバイクで走る事が気持ちいいか、どれだけバイクが良い物かを静かに、だが熱心に語りかけた。目の前でこれほど熱中して話す人は久しぶりに見た。駅のホームで電車を待つ間、彼は最後にこう言った。
「バイクの免許もついでに取ったらどう?」
「考えてみるよ。とにかく今まで一度も自分がバイクに乗る事について考えた事はなかったからね」
彼はあまりこの言葉に満足していない様子だった。電車の扉が開き、我々は混雑した車内の中に身を置いた。
何駅かをやり過ごし、フカヤがそこから降り立つと、こちらを振り向き、開いた口元から犬歯が覗く。車掌の笛が鳴り響いてから、ボクも続いて降りる。すぐに、ドアは閉まり、列車が動き出す。大勢がその箱に揺れ去る視線を見ながら、改札を抜け、低い家屋の塊を彼が器用に抜けていく後を追った。
「ここはなんだか古い町並みだな」彼の背中に投げ掛ける。
「六百年前の開墾当初から代々この土地にしがみ付いている住人もいる町だからね」
彼は答えた。商店街の惣菜屋の横の細い路地を抜け、何件か呑屋が続く。それから、寂れた自転車屋と罅割れたモルタル壁の医院の横で、フカヤは立ち止まり、その灯りの燈る壁を指差した。そして、彼は木造の扉を開ける。開くと鈴音と共に、植物の甘い匂いが纏う。扉の前には彼の背丈ほどある植物が、そそり立っていて、中の様子は判らない。
彼は首を建物の中に向け、中に入るように促す。植物の横を通り過ぎると、カウンターテーブルに新聞を広げた老人が、顔を上げずに何かをぼそぼそと呟く。
ボクの背後からフカヤがその老人に挨拶した。昔は何かの店舗だったのではないかと思わせる間取りだった。何本かの白熱灯が瞬き、老人の影が大きくなり小さくなった。老人の背後には、大きな椋の机が置かれ、壁には抽象画が掛けられていた。
カウンターの中には調理台まである。フカヤは椋の机の前に腰を下ろし、「座れよ」と言った。老人の色褪せたセーターを掠め通り、かなり年代物に見えるチェアーに座った。テーブルの真ん中には、透明のガラス容器からスミレが突き出ていた。ボクはその花弁を手に取った。茎から先端の蒼までを撫でた。
「裏に汚い川がある。川といってもコンクリートの四角いものだけれど、そんなところにも花は咲く」フカヤもそのスミレを見ながら説明した。
「いったい誰としゃべっとるんだ、いったい」老人が眼鏡に触りながら言った。「きちんと分かるように話しなさい」それから、くるりと体をこちらに向けた。ボクの姿を確認し、まじまじと見詰めた。「このスミレはじいちゃんが摘んできたんだ」とフカヤは説明した。
「何だ、これは?」と老人は誰かに訪ねた。白が混じる口髭を引っ張り暫らく、ボクを検分した。
「コウジロウ、友達か?」レンズの奥の、異様な白目が動く。
「そうだよ、これ、オレのじいちゃん」と老人をボクに紹介した。
「彼はオレのクラスのトモダチ」とボクを老人に紹介した。
 「始めまして」とボクは座ったまま自己紹介しお辞儀をした。老人は眼鏡をテーブルに置き、背筋を伸ばしてボクの前まで歩を寄せた。彼が右手を差し出したので、ボクは立ち上がり、その手を取った。ボクの手を強く握り締めた彼は、大きく腕を振りながら「コウジロウは少し変わっとるが、根は素直な人間なんだ」と左右の眼の焦点をきょろきょろさせながら吼えた。
 それから老人はカウンターの中に入っていき、二人分のコーヒーを作り、我々の前に置いた。「昔ここは喫茶店だったんだ。それを改装して住んでるんだ」。フカヤはぼくにそう説明した。コーヒーを美味しいと思ったのはこの時が始めてだった。かれらの声の響きは気持ちよかった。その声は何かしら人に、少なくとも僕に、期待を抱かせるようなものだった。
期待? うまく言えないな。
そう、何か素晴らしい事が起こるような気分になったんだ。彼から発せられる言葉は、彼の意思を超えて未来は希望が溢れているんだと語りかけているように思えた。

 このように僕はフカヤはじめて話したときのことを語り終え、螳螂は相変わらずコソコソと彼の住処を徘徊している。
――彼は僕がこの街に住み始めてから始めて出来た友達なんだ。それから三年間、僕はよく彼と過ごした。新たなる世紀になって始めてできた友人。彼は自分のそれまでの友人の誰とも全く似ていなかった。彼の話す話題は斬新でいつも僕を感心させた――
 辺りは静まり返り、蟷螂に語りかけながら僕はフカヤと過ごした季節を思い出していった。僕は半日をかけて記憶を掘り起こし、躓きながら何とか話しを紡いで螳螂に伝えた。それは骨の折れる作業だったけれど、その疲労はとても心地よかった。
 しばらくのあいだ口を休め、耳を澄ます。螳螂との会話を中断すると、そこに現れたのは静寂だった。
手に触れる事が出来るような存在感のある静けさを感じ、生きとし生けるものたちの存在をしっかりと感じた。外の風が窓をがたがたと揺らす。窓に映った自分の姿を見ながら、何かに強く守られているような気がした。

ぼんやりと冬の夜が浮かぶ。話の続きを待っている蟷螂はおとなしく、回想する時間を与えてくれる。
冬の夕暮れ。安心の象徴。
まだ幼かった頃の自分自身、石油ストーブの炎を見つめながら、母と父と弟の笑い声が聞こえた。疑うべくもなくしっかりとそこで守られていた。外は寒く、風が吹いている。
しかしここはとても温かい。
今日はもう口を閉ざすことにしよう。一方的に螳螂に通告する。それから蟷螂と共に深いまどろみに落下していく事になるだろう。


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