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作品名:太鼓たたきと踊る日々 作者:せんぎ

第4回   続消耗戦争
消耗戦は続く。
僕は蟷螂に名前をつけようと試みた。
残念ながらそれは思い浮かばなかったけれども、その行為を境にして、蟷螂に対して天気やその日に起こったこと、それに自分自身のこと、とにかく何でも、彼に語りかけることを始めた。それは自分の習性の一つに加えられる事となった。
食事と排泄、睡眠と性欲処理。それから日々を数え続けること、螳螂に語りかけること。
文房具屋で購入したルーペを覗き込み、彼の表情の変化を読み取ろうと試みたりもした。蟷螂はそのレンズを物珍しそうに見入っている。さかさまに移った僕の顔を見ていたに違いない。もちろん彼の表情など僕には見分ける事が出来なかった。気が向くと彼はまるでそれが未知への冒険でもあるかのように、右手に乗り移り、びくびくしながらそこを闊歩している。
「オマエは一体何処からここへ紛れ込んだんだ」

そんな生活は僕に一つの事実を明示した。
「全ての音は過ぎ去り、もう一度聞くことは不可能なんだ」
今まで気付かなかったのが不思議なぐらい、それはもう、うんざりするほど自明なことであった。脳に付属された聴覚系循環ベルトコンベアーはオフビートな流れ作業で音を零れ落としていき、頽廃した瓦礫の街のように構成され消える。それらは鼓膜の層に微かな震えを残した。
その期間、数ヶ月に一回の割合で―藍色の世界、月の光が明瞭に風景の陰影を染めている夜―何処で鳴っているのか見当もつかない、くぐもった地鳴りのような響きがあった。暗闇の中で毛布に包まりそれをぼんやりと聴いていると、それは、昔住んでいた三軒隣から良く聞こえてくる賛美歌の歌声の様でもあり、エントロピーが崩れ落ちていく音のようにも思えた。
その音は僕に決まってフカタニと彼の言葉を思い出させた。
「ジョナサンみたく、ザック・デ・ラ・ロッチャのように自分の憤怒や無力感や徒労の叫びを解消するには…そうだな、一語でこういうんだよ。― uck――けど、この島国に住んでいて自分の言葉でそれを叫べない状況、それってどうなんだろうな……まあ、どうでもいいことだけど」そしてフカたちの自嘲的な笑い声。
 結局のところ、それが語られた状況からは遠く、決定的に隔たれている。夢の世界はなかなか訪れず、自分の体を両手で強く抱きかかえて横たわりながら焦点の合わない目で木に止まる蟷螂の輪郭を眺めた。
そして想う。
絶対的で圧倒的なハッピーエンドはどこにあるんだ、と。
救済はどこにあるんだ、と。
決して叫びだしたりはしない。その代わりに日にちを数えている。
 
 ある連鎖反応が「ごとごと」と坂道を下っていって、それは何かにぶつかりながらけたたましく走り去っていく。どうやら僕自身もそれに含まれているようだけれども、そこには何一つ自分の決定は存在しない。
けれどもそこで何が決定され確定されていったのかを具体的に説明するのは簡単なことだ。ただの原因と結果。因数分解。正しい解を導き出し、未来を選べ。
つまるところ、そこからは一六五日目という僕自身の月日に、僕と螳螂との邂逅が始まるということの証明である。

いつものように疲弊を携えて穴蔵へと帰ってきて、いつものように音だけに構成された自分自身の時間の淀みに落ちていこうとしていた。普遍的重力に対抗している内臓や心臓の筋力の力を弱め、仰向けに倒れこむ。そして、壁を見上げるとそこには薄緑色のそれがいた。しばらく、ぼんやりと眺めていたが、ようやく、彼に顔を寄せ、掌を差し出すと、それはそこに飛び移り、しばらくその手の感触を確かめる、不思議そうな首の動きだった。それを目の前まで持ってくると、蟷螂は彼自身の羽が決定的に損なわれていることに気がついた。それが何らかの遺伝的なものなのか生まれた後に傷ついたのか計りかねていると、彼は無様に飛ぼうとして掌から滑り落ちていった。まだ店が開いている時間であることを確認すると、蟷螂を机の上に置き、植物を買いに行った。
道を歩き店に向かう途上で、久しく訪れなかった光景が浮かび、あの部屋が喚起していた。
花屋でまずまずの大きさの観葉植物を買い求め、家に戻ると蟷螂はまだ机にいて、あたりをしきりに見回していた。その動きは捕虜だとか連行される容疑者を思わせた。
それを木に移し、何か彼の食べそうなものを冷蔵庫からあさりだし、何枚かの葉っぱの切れ端と炒めたあと冷凍庫で凍らしていたままの豚肉の残り滓を割れた食器の破片にいれ、水と共にその木の下に添えた。蟷螂は、また、自分がどうしてここにいるのかを確認するかのように首をかしげ、前足を、そのカマを中空に突き出しながらその枝の上で辺りを伺っていた。この場所を気に入って貰えるだろうか、食事を食べて貰えるだろうかと観察しながら、僕はまたあの部屋のことを頭に浮かべた。
いつその情景が自分自身に形成されたのか、それはこの世界には存在しない部屋だった。頭の中にだけ存在する、その部屋は、遠い昔、僕が混乱したり迷ったりしているときによく出てきたものだった。そこにはいつも薪ストーブが焚かれていて、古びていたけれど居心地の良さそうな深緑色の一人掛けソファが置かれてあり、足の長い灰皿からは誰かが居た事を証明する煙草の煙が立ち昇っていた。そこにはどのような目的で使用されるのか分からない機械があった。壁の一部に組み込まれているその機械はとても古く、鉄の部分は錆び、木はくすで剥がれ落ちようとしていた。
壁の反対側の窓からは、―外の風景はいつも曖昧で時に、砂漠の時もあるし深い森の時もある― 光が差し込んでくる。それは、どこか遠い北国の駅の待合室みたいだ。汽車を待ち続けている。けれども、その場所には決して辿り着かない。そして列車は永遠にそこに来ないのだろう。

今から二千日も前のこと、その部屋を想像しながら、現実的な自分自身に与えられた部屋の壁に漆喰やら赤ペンキやらを塗りつけたり、家具を作ったり、畳をひっくり返し、そこに濃いステインを塗った板を貼り付けたりしていた。無力な日常の煩わしさを考えたくなかったので、家具の配置をどうするか、自分がしっくりする、いつもそこにいる場所から、どのように視点を固定させていくか、などを考えて過ごしていた。概ね退屈であった学生生活から開放されると、インテリアのことを専門に学ぶ教育施設に三年間通うために、それまで住んだ町を出ることとなった。そこでみっちりと実際的な技術を叩き込まれ、一つの教訓を、僕は学んだ。
フンデルト・バッサーみたいに特異なことは決してできないだろう。
その教訓から、そこを出ると実際的な経済活動として、芸術性という言葉とは程遠い、様々な店の内装を手がける仕事についた。その会社は店舗の内装だけを手懸けるのではなくそれらの店舗の運営を企画するコンサルティング的な要素も持つ会社だった。元の名前を平岡工務店、現在はたいして意味のなさそうなありあわせの横文字で書かれた会社名がついている。二代目の経営者は、二代目の掟を破り実力者としての評価が高かった。僕が会社に入ってから従業員の数も十人ほど増えていた。彼は自分が社長と呼ばれること嫌い従業員にカツミさんと呼ぶことを強要する。平岡克己。
僕はインテリアコーディネイターの資格を取り、インテリアプランナーの資格を取り、エクステリアについて学び、経営のアドバイスをするために中小企業診断士の資格を取ろうとした。
始めて一つの仕事を任されたのは、そこで働き出してから一年と三ヶ月が過ぎた頃である。その速さに周囲は羨望と期待の入り混じった表情で眺められていた。仕事は飲食店の内装と設計、そしてその運営についてだった。それはとても嬉しいことだったし、その店舗は小さいながらも、まずまず満足できる設備を整えることができた。そしてその飲食店は順調にかなりの収益を上げた。それからは、大型店舗も任されることが増え、出張も多くなった。変わったところでは、沖縄の側の一つの島の大きな観光施設の中にゴシック調の郷土料理と創作料理屋の内装を手がけるといったものもあった。そして、僕が手がけた店は、―圧倒的に飲食店が多かったのだが―まずまずの売り上げをあげることに成功していた。僕は同年代に比べるとかなり多い報酬を貰うようになった。そのような仕事の上で特に気を使うことは、そこに一番長く居る人がどのようにしたら快適な動きやすい流れを作ることができるか、ということだ。そして、その人々はその店で働く店員のことだ。まだがらんとした、何の表情も見せてはいない建物の内部を歩き回り、そこがどの様に区切られているのを望んでいるかじっくり考えた。耳を澄まし、その空間の声を聞く。経験の上で、その下準備は自分にとってとても重要だった。それを疎かにすると自分自身納得のいくものができなかった。そして、一日か二日かけてじっくりとその空洞の声を聞いたあとに、青写真に手を加えて、現実的な店作りが始まる。後の作業は問題もなく積み木で何かを作るみたいに進んでいく。だが、どれだけ出来の良い店を作ったとしても、平均的に五年程でそれらの内装は作り変えられた。もちろん次の内装を任されることもあるが、それもやがては飽きられ、変えられる事となるだろう。最初の頃、そのような状況に出くわすと、とても不安になった。そして、それはやがて諦めにと代わって行った。僕はこれからも意味のあるものなんて作れないんだ、と感じずにはいられなかった。カツミさんにそんな事を漏らすと彼はこのように言った。
「たしかに、お前の言うことも分からないではない。けどな、こうも考えられるんだ。つまり、そのぐらいの期間で変わらないことには、俺たちの仕事がなくなってしまうし、そうなったら困るだろう?」
たしかにその通りだった。このあまりに偶発的な世界で意味もなく、これらの建物が滅んでいくように、やがて多くのものが消え去ってしまうのだ。
そして、そんな感慨さえも日常の瑣末な泡となって消えていく。
そして、どんな想いを抱えていようとも新たなる朝は迎える。
そしてまた、従属的に信号機の命令を甘受し、語るべき価値など何もない生活、最低限のおしゃべりをする生活が始まった。








陽溜まり歩きと午後の世界
繰り返し、繰り返し、夢の世界から現実の世界へ、戻ってこないわけには行かない。
目を覚まし、形容しがたい感覚の中で時計に目をやる。そして天井を眺めながら、先程まで見ていた夢の物語の筋を辿っていった。そこにはお馴染みの顔もいたし一見さんもいたが、彼らの物語はやがてはれ切れに分断され、ぷつりと消滅してしまう。人々のざわめく印象だけが残った。そして諦めてごそごそと起きだすと、何度か背伸びをして煙草に火をつける。蟷螂はこの冬空の下では、陽光の中でも寒々しく見えた。彼に朝の挨拶を投げかける。彼はもう自分自身の一日の活動の中にいた。
プレイヤーを再生したあとに、洗面所で朝の日課をこなす。排便、歯磨き、洗面、髭剃り。キッチンでお湯を沸かし、彼の分と自分の分の簡単な朝食を作る。水がお湯に変化しヤカンが血相を変えるのを待つ間に、木の前に座り、昨日の夜にこの音楽に深く入り込んでいたのは何故だろうと思いながら、掌を差し出すと、彼もいつものようにそこに飛び移った。「オマエは今日も元気だね」。欠伸をし、その息を蟷螂に吹きかけると彼は驚いて静止する。そして笑い声が壁の中に吸い込まれていく。彼を棲家に戻した後、二人は朝食を食べ始めた。ハンコックの笛の音が鳴っていた。コーヒーを啜り、今日一日のこなすべき作業について考える。
窓の外には昨日の風が嘘みたいに止み、穏やかな冬の朝があった。枯れた梢から陽光が零れ落ち、千切れたどこかの雲がどこかへ流れていく。街路樹は大量の枯れ葉を道に散らす。灰皿に置かれたままになっている煙草を消し、着替えたのちに、彼に少しの別れを告げる。それらに無関心な彼は自分の顔を前足で撫でる仕草をしていた。ジャケットをはおり、マフラーを巻いた後、駅に向かう。どこかに向かって歩いていく名前のない人々の雑踏は、いつものように居心地がよく、誰も僕に関心を払わず、僕も誰にも関心を払わない。運良く電車の席に座れたので、読みかけのラブクラフトの小説世界に没頭していった。
事務所に着くと、そこは閑散としていて同年輩の女性社員だけが働いていた。ゆっくりだが、丁寧に仕事をこなしていく僕より一年間長く働いている穏やかな女性。彼女とじっくり会話した事はほとんどないような気がした。
我々は挨拶を交わし「今日はやけにがらんとしているね」と僕が言う。
「だってもう年の暮れだもんね。みんな有休を取ってどこかにあそびに行っちゃったみたい。それにマキちゃんも海外に行っちゃたし、私もどこかへ行きたいな」という返答が帰ってくる。仕事が始まる前のひとときを、彼女は頬杖を着きながらぼんやりとしている。
「カツミさんは? 今日は出て来るのかな?」ジャケットを脱ぎマフラーを取りながら僕が聞く。
「今日は来ないのじゃないのかな。出勤している他の人も、とても少ないみたいだけれど、ほとんど現場に行っているみたいだし。もしかしたら一日中ここに一人でいるのかしらと悩んでいたところなのよね、あなたが来て…」彼女は事務椅子から立ち上がって歩き出す。「けれど、よかったわ。今日一日、一人で仕事をするのなんて考えただけで本当に嫌になっちゃう。ねえ紅茶でいいかしら?」
「紅茶でいいよ。どうもありがとう。有本さんは休みになると何をしようと思っているの?」歩く彼女の背中に投げかけた。
「明後日、休暇が始まったあたりから実家に帰ろうかなと思っているけど、そんなところに帰っても暇を弄ぶだけだしね。まあ、休養にはなるけれど。私の田舎は本当に何にもないの。雪だけは、うんざりするほど、たくさんあるけれど」と隣の狭いキッチンから彼女の乾いた笑い声が響く。「とても良さそうな所じゃないか、のんびりできそうだね」それを聞くと、彼女は入り口から顔を突き出し、頬に手をかざしながら、首を傾げる。
「ところできみはどこかに旅行に行ったりする予定、あるの?」
「今のところ、全くないね」
「ふうん」「ところで今日のお仕事は?」僕の前に彼女はカップを置き、紅茶を入れながら尋ねる。
「そうだな。年明けから始まる店舗の資料に目を通すぐらいかな。それが終わったら遊んでいるよ」カップからの湯煙。「ありがとう」
僕は腰掛け紅茶を一口飲む。
「私も殆どする事がなくて退屈なのよね。どうして今日出勤してしまったのかしら。まだ布団の中に入っているところを想像すると悔しくなってきてしまうわ。後でどこかに行きましょうか?」
そうだね、と相槌を打ち、机に向かって次の店舗の見取り図を鞄の中から取り出した。彼女はしばらく僕の横に立ってそれを観察していたが、やがて自分の机に戻る。
それから、時々、斜め前に陣取った彼女の溜息やわけの分からない独り言や鼻歌を聞きながら、まだ見たことのないその建物を頭の中で描いていき、数値化されたそれらの資料を何度も眺めていた。早くその建物の中にはいりたいと切望していることを感じた。そのビルディングは聞いたことのない建築業者によって八年前に立てられていた。資料で見る限りはきちんとしたつくりの建物だったし、立地条件や人の流れもよかった。後は依頼者と話し合い何処まで自分に任してくれるかが問題なだけだろう。その紙をひねり回し、紙にメモを書付けている間に彼女は紅茶を数杯注いでくれた。彼女はほんとうに退屈しだしたようで、何かの編み物を始めた。彼女はラジオを流してもよいかと聞く。小さい音量でラジオが話し出す。僕はだんだんと集中力がなくなっていき、そしてその建築物に対する意識が死に絶えた。
時計の回転。二二七日と十三時間十七分五十四秒が過ぎ去っていく。
それを待っていたかのように彼女も編み物の手を休め、僕を昼食に誘った。「いい店を最近見つけたの」と嬉しそうにメガネを取り社内で着ているカーディガンを脱ぐ光景を見ながら、僕もジャケットを着て外に下りていった。街は人も少なく、僕は彼女に連れられて歩いていく。彼女は様々な次の瞬間には忘れてしまう話をし、それからそれは、次の消え去ってしまう話へと繋がっていった。そう言えば、これまでに有本さんと二人きりで話したことはなかったっけな、と考える。ぼんやりと、そんな事を考えていると、彼女はある建物の木造の扉の中に入っていった。
確かにその店は二十代の仕事を持つ女性には受けが良さそうな店だった。ただの定食屋だったが雰囲気もよかったし料理もきっと美味しそうに見えるのだろう。
けれども、僕の味覚は上手く機能していなかったし食事は義務みたいなものだった。しっかりした椅子に座り彼女は焼き魚の定食を食べ、僕は野菜炒めの定食を食べた。僕が相槌を打ちながら、店の様子を眺めていると「やっぱり飲食店にくると人の話を聞かずにこんな風に建物の探索をしてしまうのは、いつものことなのかしら? あなたは真面目な人だし仕事に対してはとても熱心だし」と微笑みながら尋ねた。
「話を聞いてないわけじゃないよ」と戸惑いながら彼女の瞳を見た。
「いいわよ。どうせろくでもない話しかしていないのだから。それより今の質問に答えてよ」彼女は髪を耳に掛け、的確に魚を骨と肉とに分解していく作業をしながら、話の続きを待っていた。
「うん、まあ、してしまうのかもしれないな。ここを僕だったらどのように作り上げるだろうか、とか、これはいいアイデアだな、とか、こんなにしちゃったら良い条件なのに台無しじゃないか、とかね」
「そんな事を考えながら食事をして美味しいの?」少し箸を止め、不審の目で僕の顔をまじまじと見つめる。
「あまり、美味しいとは言えないかも知れない。残念ながら」そしてずいぶん長い間味覚を失っているような気がするんだ、と口に出さずに言った。
「そういうのってどうなのかしら?」彼女は僕の残した野菜たちの残骸を見ながら、味噌汁を啜った。
「どうって?」僕は店員にコーヒーを頼む。
「人生を過ごしていく上で何か欠落しているように私には思えるのだけれど。そう、人生。Life goes on.blah! 知っているでしょう? 」
「知っているよ。オブラディオブラダ、人生は続く」
「その通り」彼女がメロディを口ずさむ。微笑ましい午後の光景。
「子守唄だったよ、小さいころよく親父がギターを弾きながら歌った。家族と一緒にね」
「そして今は歌わない」僕は小さく頷く。そして水を一口飲んだ。
「まあ、いいか。あなたの人生だし、あたしがとやかく言うことではないもの」一呼吸置き「ねえ、デザートも食べていい? デザートを食べると私は幸せになれるの」と嬉しそうに言う。
「もちろんいいさ。君の胃袋をしっかり満たすのは君しかいないのだから」
「単純な女だと思っているでしょう? よく一緒に食事をすると呆れられるの。お前は悩みなんてないのだろうと白い目で見る人が大勢いるのよ」
「そんなことはない。食べることが幸せと感じることは、人生の上でとても意義深いことだ」彼女はまるで重大な政策をまとめる評議の責任者みたいに熟考し、その結論として白玉のデサートを食べた。店は暖房が効きすぎていて、僕はコーヒーを飲むよりも冷たい水を何杯か飲んでいた。彼女は集中して白玉に取り組んでいる。食べ終わった彼女は、満足した様子で一度だけくちびるに舌を這わせた。そこがあまりに暑かったので「そろそろいこうか」と伝票を持って立ち上がると、少し不満そうに「もう少し落ち着きたかったのに」と不平を言いながら、「ちょっと待っててね。トイレに行きたいから」と背中越しに音が響いた。
外の乾いた風と湿った太陽の光は火照った体には快かった。ビルディングの隙間から四角い空が覗いている。店の前で彼女を待ちながら、煙草の煙を吐き出す。そして彼女が現れた。大きく息を吸い込んで白い息を吐き出す彼女。
「ねえ、少し散歩でもしない? いい天気だし、どうせ帰ってもやることなんてないんだし。それとも、まだ仕事が残っている。」
「いや、特にすることもないよ」
彼女は歩き出す。早いでもなく遅いでもなく。僕は後ろから彼女の揺れるベージュに染められたトレンチコートの裾を見ていた。そういえば、ここらを歩くのは初めてなんじゃないだろうか、と記憶を呼び起こそうとしたが、街の流れの中で糸口が見つけられないでいる。彼女は、まるで散歩をしている犬みたいに、後ろを振り返りながら殆ど話さず歩いていった。時々このお店一度行ってみたいなとか、すれ違う人についての批評などを語りかけながら、足の裏で地面を踏みしめるように歩いていく。
僕は歩幅を数えながら、この街の中で動く二人の俯瞰図を思い描く。そこから見る風景は、無数の小さな点が無秩序に動き回る量子の飛散みたいに思えた。彼女の道の決定に合わせ、何度も道を曲がり、路地を抜け、彼女が歌う曲を知っているかどうかの質問に答え、量子のピンボールが頭の中で跳ね回る映像に浸りながら、しばらく歩いていると、歌が止み、彼女は突然立ち止まった。僕は彼女を思わず突き飛ばしそうになってしまい、バランスを崩した。
「ねえ、大変だわ」彼女が言う。体の姿勢を戻しながら「大変って、一体何が?」と僕が問いただすと帰ってきた返事は「どうしたら帰れるか分からなくたってしまったの。ここは何処なのかしら?」といったものだった。とても狼狽しうろたえている彼女の姿をみて、思わず笑ってしまった。それを見て彼女は僕を睨みつけ「帰り道、分かる?」と尋ねる。僕は北の方角を指し、「いやこっちかな」と南の方角を指し示した。「からかわないでよ」僕は大体の方角に見当をつけて彼女の横を歩き出した。「私はよく道を間違ってしまうし、道を失ってしまうの。どうしてなのかしら」
「どうしてなんだろう?」
「そういう経験ってある。例えば、知らない街で迷ってしまってすごく怖くなったこととかは」彼女はコートのポケットに手を突き刺しながら、じっとこちらを見ていた。暫らくの間、そのことについて考えてみた。
「小さい頃。思い浮かぶのは、小学生の低学年の時かな、迷ったというより母親とはぐれてしまったんだ。遊園地でね。」
「怖かった?」
「どうだっただろう…」そのときの小さな姿を思い浮かべた。
「自分がその時どんな風に感じて、何を考えていたのかあまり思い出せないな。ずっと一つの場所で檻に入れられていた河馬を見ていたんだ。ベンチに座って、その河馬にたかる蝿や、しっぽの動きなんかを眺めていた。多くの家族連れが幸せそうに歩いていた。誰も話しかけてこなかったし、まるで、自分が消えてしまっているみたいだった。何故か大人の人に迷子になっちゃんたんです、みたいな事も言わなかったし、そこから動こうともしなかった。ポケットに入っていた何かの金属を弄りながら、座っていただけだったよ。やがて、夕闇が迫ってきて、閉館の時が迫り、ぽつぽつと乗り物の電飾が消され始めた。帰途に着く人々がその中をぞろぞろと出口に向かって歩いていって辺りの人影はどんどん少なくなっていった。それでも、僕は何処にも行かずにそこにいた。何をしていたのかな?」彼女に尋ねられて浮かび上がった、その手つかずの思い出の風景を見つめなおした。
「それで、それからどうなったの?」
「それから、持ち場の仕事を終えて帰る途中だったのだろう、制服を着た若い二人の女の人に、『ボク、どうしたの?』と聞かれて、事情を説明したんだ。そしてその人達に手を曳かれて事務所まで行ったよ。そこには兄と一緒に母親が険しい表情で佇んでいた。僕が連れられた姿を見ると、母は何も言わずにほっぺたを引っ叩いた。その後すぐに表情を変えて、何度も、ごめんね、ごめんね、と呟いて僕の頭をお腹に抱き込んだよ。そこにいた警備員のおじさんが、三時間も歩きまわして探し回ったんだぞ、とほっとした表情で言っていた。『ぼく、一体何処でかくれんぼしていたんだい?』何処にいたかを聞くと、『あんまりお母さんに心配掛けちゃいけないよ』と太い声だったけれど、やさしく囁いた。そして、母に、いや、見つかってよかったです、と言い警備員はその部屋を出て行った。母は何度も頭を下げていたな。兄は、僕を連れてきてくれた女性たちに、素っ頓狂な声で僕がいなくなった経緯を説明していたっけ。『あのね、いきなり、あのね、いなくぅ…なっちゃった、早くて怖い乗り物を乗った後に、気持ち悪くなって、くるくるまわったブランコに乗ろうとしたらね、そしたら』こんな感じだったね。そこを出てから、三人でうどんを食べたな………けれど、どうして遊園地なのに河馬なんていたんだろう」
遠くを見詰めている彼女の横顔は、僕を奇妙な場所に連れて行ってしまう。四本の足が鳴らす規則的な音や、雑踏だけが入り込んで来る。
「そういう遊園地があってもいいじゃない。よかった、あなたはいつも迷いなんてなくて間違いも殆どしない人のように見えたから」
彼女は他の事を訊ねようとしたように見えたが、それは自分のなかに飲み込んだようで、それから石を蹴飛ばした。その顔を見ていると、彼女はこんな顔立ちの子だったのかどうか分からなくなっていった。ゆっくり流れる風景を二人は何も言わず観賞している。何度か信号で立ち止まり、会社の傍まで辿りついた。そこは始めてくる場所であったがどうやら会社の裏手に当たるらしい。最後の信号機に従って立ち止まっていると、もう一度口を開いた彼女は「あんなところに、神社があったこと知っていた?」と少し離れた木が生い茂っている場所に惹きつけられているようだった。
「まったく知らなかった。会社の裏側はこんな風になっていたんだ」と僕はあたりを見回した。ここの一画だけ、忘れられたかのごとく、古い、そして低い木造の建物が並んで立っていた。そして、どうしてか人の住んでいる気配が全く感じられなかった。彼女は曖昧に頷きながら信号が青になると、そこへ向かって行った。
「そこに行くのかい?」僕が少し追いかけながら声をかけると「今年最後のお参り、する時間ぐらいあるから」ともう、その茂みの中に踏み込もうとしている。彼女のあとを追って、その木々のトンネルを抜けると、古い建造物とその庭の陽だまりで、昼寝をしている猫たちに出会った。猫たちは、私たちの存在に迷惑そうにこちらを向き、黙殺してから、所々に落ちている陽だまりの中、それらの世界に沈んでいった。彼女はその広場をまっすぐに渡り、建築物の前まで来ると、鐘を鳴らし、祈り始めた。そんな光景を僕は開けた空間の入り口で見ていた。「あなたはお参りしなくていいの?」遠く彼女が大きな声で僕に呼びかける。「いいよ」と返事をする。少し、彼女は留まって、その建築物の前に立っていた。静けさがこの場所に満ちている。そして彼女は、横に向かって歩き出し、その前庭の隅にある苔生した岩に腰を下ろしこちらを向いた。僕は少し躊躇してから、彼女の方に歩き出し、彼女の横に腰を下ろす。彼女は味わうように息を吸い込み、吐き出す。「わたし、このような場所、好きよ」猫を眺めながら、そう呟いた彼女を、僕は見つめていた。彼女の匂いは、先程、子供の頃の話もしたせいか、僕を懐かしい気分にさせた。私たちは何も話さなかった。時々、背後の小さな森で、鋭く何かの鳥が鳴いた。僕が煙草に火を点け、ぼんやりと彼女の眉間辺りを眺めていると、その視線に気付いた彼女は「私の顔は何か変かしら」と見つめていた額の髪に手をやった。
「いや、変じゃないよ。ただ、有本さんはこんな顔だったかな、と思って見ていたんだ」彼女は眉間にしわを寄せながら、言う。
「これまでに、お互い深い話はしたことがないけれど私たちはそれなりに長い付き合いになるんじゃないのかしら。」
「そうだね。人生の六分の一ぐらいの付き合いにはなるのかな。四年ほど一緒の職場で働いている。」
「正確には三年と八ヶ月。ねえ…」「私の顔はそんなに覚えにくい顔? そんなに特徴がない?」と早口で訊ねた。
僕は急いで手を振る。「そんなことはない。ただ僕が不注意に生きているだけなんだ。」そして、語りかける。「色んな物に気がつかない。控えめに言っても、君はとても魅力的だと、言い過ぎることはない。」それから、もう一度、付け加える。
「どうしてここの猫たちが君に寄ってこないのか不思議なぐらいだ。僕が彼らだったら、擦り寄って甘え、君の膝の上で寝る権利を必死に手に入れようとするだろう。あいつらも何も見えていないんだ」
「それはどうもありがとう」次には彼女の溜息が聞こえた。その色合いは諦めに似た何かも含んでいた。控えめに「どういたしまして」と答え、視線を曖昧に逸らす。
「ずっと感じていたのだけれど、あなたってやっぱり少し変わっているのかしら。それとも一般的な特徴として男性はそのような性質を持ち合わせているの。私は普通の女の子なの。一般的な女の子が三年間も一緒に働いてきた男性にそういうことを言われるとどういう気分になるか分からないの?」俯いた彼女は自分の靴と脚の動きを見ている。
「それは太古の昔から、永遠と語られてきた、未だに謎に満ちた問題だよ。もちろんはっきりとしたことは言えないけれど、世の一般男性諸君にはそういう傾向がある程度存在する、と言える、かもしれない、かとも思う」
その風景の中、頭に浮かんできたのは、この歴史的建築物が含まれている場所で猫たちが寝そべって、座っている男女が描かれた白と黒の絵だった。
それは、新聞に載っているような諷刺画であり、男性は女性に夢中で、けれども、吹出しでその女性の上に朝靄のように、別の男性が浮かんでいる情景だ。
その絵にはどんな題名が書かれるだろうか、そしてどんなコメントが書かれているのだろうか。きっと深い示唆に満ちたものが書かれているに違いない。けれどもその文句は全く思い浮かばなかった。誰かが噂話で彼女が交際している同僚の男性と上手くいっていないと話していた事に思い当たった。先程とは違い、彼女からの沈黙は、この場所には溶け込めていないような気がした。彼女が思い浮かべているのであろう男性のために何かを代弁をしてあげたいと思った。それが、全く価値観の違う男性であってもだ。多くの場合、その男の話すことや、意見に僕は共感が持てなかったし、理解できなかった。あまりに無駄なことに時間と労力と金を使い込んでいるように感じていた。きっと彼も僕に対して同じように思っていることだろう。彼女は遠く、ぼんやりと、かすかに呟く。
「そんな事を聞いているのではないわ。私は、どうしようもない馬鹿だけれど、きちんと扱って欲しいと言っているのよ」
多くの人はそれぞれの個人的な理由で傷ついていた。どうしてなのだろう? この一人一人違う感覚の世界でなぜ傷つかなければならないのか理解できなかった、その意味も、存在も、それが引き起こす様々な事件も。世界には想像的な血が、そして現実的な血が流されていた、そして涙も。個々が誰にも共有されることなく抱え込んだ偏りはうんざりする孤独な疼きたちであった。だが、僕も含めて、人々はそれらのことに根源的には無関心であることを知っている。怠慢な時の流れが存在を始めた頃から、それに支配され、惰性的に、慣性の法則の物体の動きのようにただそれらを背負って滑って行くだけだった。ある人は言う、人間には時間がなさすぎるのだ。そしてまた、ある人が言う、人間には時間がありすぎるのだ、と。とにかく歴史が始まって此の方、誰一人としてそこから抜け出した人間はいない。そして、おそらくはこれからも。
「思うのだけれど、多くの状況の中で、人は人に感じたことを上手く言い表すことができないのではないのかな? つまり、有本さんにはこのような一面もあるのだ、という発見を伝えたかったんだ。それが君の気分を害するような表現になってしまった。申し訳ないと思う」
「大丈夫よ」その微笑は懐古の裂け目から溢れ出ていた。「あなたはどんな私を見つけ出したの?」
「歌を謡っている君の姿はなかなか趣がある」
「話している時のあなたの姿もなかなか趣があるわよ。いつもの無口なあなたより」
「なんといっても、ここ数ヶ月、会話の練習を毎晩して貰っているからね」
「会話の練習? それを毎晩も? 会話と言うものがそれほど難しいことだなんて、私には思えないわ。ほんとにいつもそんなことをしているの。」彼女の身振りや表現は、喩えるなら少年が母親に怒られているところを同級生の女の子に見られてしまった恥ずかしさ、そんなものを湧き出させた。取り繕って、言い訳のように「先程の話のではないのだけど、人と人とが理解しあうのはとても難しいと、思っているからね。だから、つまらない事かもしれないけれど熱心に取り組んでいるんだ」
「今までにそんな事を考えてみたことなんてなかったわ。そして、そんな事をやっている人がいるなんてこともこれっぽっちも思わなかったし。なんだか始めて食べた果物を吟味している時のよう。それで…」彼女は一度口を閉じ、唇の両端が擬音を立てるように上向き、しっかりとこちらに向きなおす。「その練習相手とはお互い理解しあっているわけ?それは女性、それとも男性?」視線を空に向けて、本当のことを話すべきかどうか思案した。
―――僕が語りかけているのは蟷螂なんだと。だから理解しあっているのかも、オスかメスかも知らないんだと。
逆の足に組み直し、自然と口に吐いたのは「理解しあっているかどうかは難しいところだけれど。少し変わっている男の人だよ、我が友人ながら」と僕が髪をいじりながら応えた。
「あなたが変わっていると言うのなら、ほんとに変わった人なのでしょうね。それともとても普通の人だったりして」僕は首をかしげ、彼女も首をかしげた。そして独りぼっちで枝に止まっている彼を思い浮かべた。その姿は、始めて時間の存在に気付いた古代人のように孤独であり、何時の日か、時間の性質を解き明かすであろう人のように孤独だった。陽だまりが東から西へと少し移動し、猫達もそれに合わせて動いていく。木々の陰が長くなってくる。ほんの数時間で再び影たちの世界が訪れようとしていた。

漠然と異変を感じた。猫たちが同じ瞬間に耳を立てていた。我々がここに来てから、猫たちの呼び声を聞いたのも、その時が初めてだった。それは彼女が「その人と一度話してみたいわ」と呼びかけた時だった。猫たちの動きに視線を奪われている僕を見て、彼女も猫たちの方を向いた。それに併せるかのように、太陽は雲の切れ間に隠れていった。猫たちは入り口の方に向き、あるものはそちらに向かって歩き出した。
入口から足音が近づいてくる。暫らくしてからそこに現れたのは一人の老女だった。彼女はポリエチレンの袋を携えて、花柄があしらわれている黒いレースのスカートと黒いウールのセーターを修道院の女性のように纏い、颯爽と歩き、猫たちは彼女の後ろを付いて歩いていた。その建物の目前で、紐を揺らし鈴が鳴る。長い黙祷が行なわれた。その彼女の足に何匹かの猫がまとわり、体を摺り付けていた。それは、人を畏怖させるような真剣な祈りだった。ここは祈りの場所だった。空から降り注ぐ光子たちが、雲の隙間を縫い何本もの帯となって大地と植物を照らし出していた。彼女は一度も我々を見なかった。祈り終えた彼女はその建物の脇にある何かに向かっていく。そして、倒れかけているバケツを拾い上げ、奇妙な機械を押し始めた、淡い緑に塗られ、所々錆びて剥げているそれは井戸から水を汲み上げる機械だった。軋む音がこの場所に響き渡り、暫らくして溢れ出てくる水がバケツを打つ音もそこに加わる。バケツを満たすと彼女は猫たちの前にそれを置き、ビニール袋から取り出した残飯を広げ、その脇に置いた。屈みながら、そこに集まって食事をする猫たちを眺め、目を細めて、猫の背中を撫でている。
私たちは息を飲んで、その光景を見つめていた。有本さんの横顔を一瞥すると、ぽかんと口を開けて、呻き声のようなものが軽く白い息と共に吐き出された。それは何かの絵画から出てきたように完璧であり、圧倒的だった。それは現実感にかけている視界だった。風で木々が揺れ、そのざわめきはそれに呼応するかのようだ。誰かのマスターベーションを覗き見ているような妙な歪みがあった。体がどんどんと卑小になっていくのを感じた。そして、老女を獲得した、この場所が息づき始め広大に拡がっていくように思えた。先程から有本さんの息遣いが荒くなりつつあった。私たちはこの調和された空間では明らかに邪魔者であり、余所者であった。
老女はふと顔を上げた。私たちを見て、顔色を少し変えた。怒ると言うよりも何かに危惧するような表情だ。有本さんが僕のジャケットの肘を強く掴む。彼女は一瞬、ためらった後に、私たちの方に歩み寄ってきた。私たちは彼女の行動から目が離せなかった。近くで見るその老女の目は左が緑の入った薄い茶色で、右は青色が混ざった茶色であった。そして灰色の髪を一つにまとめてつむじの上で結んでいた。その女性は近くで見るとさほど歳を取っていないようにも思えた。三十代にも見えたし、七十代にも見える。瞳は平板で何も感じ取れないのではないか、と思うと、その次の瞬間にはどこまでも深く落ちて行きそうになった。服は高級そうだったがとても古く、所々、解れており、みすぼらしかったにもかかわらず、この女性にぴったりと合っていた。「こんにちは」と彼女は抑圧した声で言う。
僕が挨拶を返す。そしてべらべらと話し始めた。私たちはこのすぐ近くのビルで働いているものなんです。気持ち良さそうな場所があったので、昼の休憩時間で息抜きにここに来ているのです。お邪魔でしたらすぐに退散さして頂きます。
有本さんの緊張がその右手から肘を通して鋭く伝わってきた。
一匹の子猫が彼女の足にまた纏わり付いていた。彼女は無言で私たちを交互に見比べる。森が徐々に圧迫してきて、私たちを押し潰そうとしているように感じた。老女はその子猫を抱き上げた。黒猫は彼女の服の袖で遊んでいたが、我々の存在に気がつくと、激しく牙を剥き出し、毛を逆立て、唸り声を上げ跳びかかろうとする。その女性が爪の出した猫をしっかりと抱き止めているにもかかわらず、僕の体は反射的に回避しようとした。有本さんの体がそれに反応するかのように強張り、やがて、伸びきった糸を離したように僕の服からだらりと右手を離した。老女が猫の背中を撫でると、また元の愛らしい子猫に戻り、老女の腕から地面に下ろされた子猫は、名残惜しそうに彼女の足に何回か体を擦りつけ、一声鳴いてから、どこかに立ち去った。
彼女が私たちに話しかける。もしかしたら、僕にだけ話したのかもしれない。
「今日はね、ここ、特殊な日なのよ。あなたはそうね、まだ耐えられそうだけれど、このお嬢さんはきっと無理だろうから、立ち上がれるようになったら、すぐに立ち去りなさい。そしてあなた方が居るべき場所に戻りなさいね」と、老女はまた二人を見比べながら口を動かす。けれども、その声が本当にこの女性から発せられたもののようには、聞こえなかった。その話を聞いて、始めて自分が立ち上がれないことに気がついた。
いったい何が起こっているのだ? この人は何について話しているのだ?
体の異変を訝しげに感じながら、太股をさすり、何が起こっているのか理解しようとするが、まったく分からなかった。僕は彼女に何かを訊ねようとしたが、さっと口に左の人差し指を立て、首を横に振り、そして彼女は有本さんの目の前に立ち、熱を計る時によくやる様に手をかざした。そして目を閉じながらこう語りかける。
「ゆっくりと大きく息を吸って。そして吐き出すのよ。そうすれば少し楽になるから」
有本さんは殆ど呼吸ができていない。いびつに空気を吸い込み続け、吐き出すことが出来ないようだ。彼女の目の焦点はぼやけていて、その言葉を理解したかどうかも分からなかった。一度眼を開け、後ろ側に回った彼女は有本さんの額を撫でながら、もう一方の手で首を支え、耳元の近くで優しく声をかけゆっくりとした呼吸のリズムを取っている。混乱した僕の頭は何をするべきなのかもわからず、その光景を見やっていた。ささやく老女の模範に、だんだんと彼女の呼吸も近づいてきて、やがて、呼吸が落ち着くと、次は上半身をゆっくりと揺らし始めた。その仕草は放心した人のようで、実際に彼女は茫然自失という言葉を体現している。けれども、先程よりか随分ましな様であった。眼を開けた老女はその状態をそっと横から観察し、やがて額から手を離した。
「少し待っていなさい」とこちらを向き、言い放った。それから老女は背を向け建築物の横の小道へと消えていく。
老女が立ち去り、ふと我に帰り、辺りを見回してから立ち上がろうと両膝に手を添えたが、平衡感覚を失ってもう一度岩に沈み込んでいった。違う惑星たちの重力に引き寄せられるみたいに、全身があらゆる方向に分断され、ばらばらの肉片となりながら、落下していくようだ。二メートルもある巨大な音叉を木製バットで力任せに叩きつけた、小刻みな振動する痺れが頭上から貫いて行く。目を閉じて、何が起こっているのか確認しようとした。いつもの自分自身の暗い穴が現れ、しばらく、いつもの闇を覗きながら、重い痺れをやり過ごそうとしていると、視界にあの部屋が突然現れ始めた。灰皿からは煙草の煙が立ち昇り、微かな人の気配の余韻までもが残っている。そこを見回している間に、鈍い感覚は過ぎ去り、僕は眼を開け、瞳が幾重にもなった輝く外の風景を映し出す。
無数に重なり合った世界が一つになってから、なんとか体を彼女に方へとずらし、有本さんに声を掛けた。彼女は首筋の力を失い、体を左右に揺らすたびに頭をふらふらとさせている。そして名前を呼びかけるがこちらに振り向くこともない。ただその呼びかけに反応したのかだろうか、彼女の見詰めている空に向けて何かの表情を浮かびあがらせた。誰かいるのだろうかとその視線の先を辿るが、もちろん空白であった。視線を戻すと彼女にその表情は存在せず、放心し、無表情に体を揺らしながら、微かに口を動かしていた。口をつぐみ、その動きをじっと観察していると、そこから小さく音が漏れ始める。彼女は何かを唄っていた。耳を澄ましその声に意識を集中する。どこかで聞いた覚えのある曲。古い時代の匂いがする。
やがて足音が近づいて来る。顔を上げると老女が井戸まで行き、手に持ったグラスに水を満たし始めた。それを持ってこちらに向かい、僕に「様子はいかが?」と問いかける。――問題ありません。ただ、彼女の調子が良くないみたいです。
僕は有本さんを見た。老女はそれに頷きながら、有本さんに深緑色の小さな粒を差し出した。いつのまにか歌は止んでいる。
「色んな薬草を混ぜ合わせて作った気付け薬よ。大丈夫、変なものは何も入っていないから」と一粒、自分の口に入れ、水を飲む。そして有本さんの後頭部を支えるようにと僕に言いつける。僕はまた体をずらして傍まで行き支えながら彼女の姿勢を反らした。老女は彼女の顎を持ち、その丸薬を彼女の口へそっと押し込むと、次いで水も含ませた。唇から零れ落ちた雫が一つの流れになって頬へとつたっていく。「さあ飲み込みなさい」老女の言葉に有本さんの喉が動き、なにかを飲み込む音がする。彼女の体を戻そうとするとぐったりとした彼女は僕に倒れ掛かってきた。彼女を胸で受け止める。それを眺めていた老女は、「あと十分もすればきちんと意識が戻るはずよ。だから大丈夫」といった。そしてもう一粒それを取り出し僕の前に差し出す。「あなたも飲む?」差し出されたそれを空いている右手で放り込み、受け取ったグラスの水を飲み干す。
「どうもありがとうございます」と、彼女にグラスを返すと、まるで小さな子供のようにはにかんで首を振りながら「もう一杯お水、飲むかしら?」と訊ねた。
「いえ結構です。ありがとうございます」と彼女を見上げながら丁寧に言う。
それに頷いて「早く帰りなさいね」と言って老女は立ち去ろうとした。僕は急いで彼女に尋ねる。「あなたの名前はなんて言うのですか?」と僕は尋ねた。振り返った彼女は少し迷ってから「ヒャンリ」と答えた。そして、神社を抜け出して言った。猫の鳴声が一際大きくなる。彼女がこの場所から消えると、ここはただの小さな神社の小さな森に戻っていった。かなり傾いた太陽が、この庭に何個かの金色の楕円形を作り、古い木の建築物もその光を正面から浴び、陰が折り重なって重層的になっている。
やがて彼女を追いかけていた猫が戻ってくると、庭の中心の最も大きな楕円形の陽溜まりに集まり奇妙な動きを始めた。集会でもするかのようにその陽溜まりにそって円を二重に作っていく。全部で二十匹ほどいただろう。これほど多くの猫が集まっている光景を見たことがなかった。その円の中心には先程の黒い子猫が座っている。僕はぽかんとそれを眺めていた。有本さんの息が胸にあたり、少し温かい。小声で彼女に囁いた。
――アリモトさん、猫が薄気味悪い動き、しているよ。彼女は顔を動かし僕の胸に右の頬を寄りかからせながら、遠い目でそれを見ていた。彼女は何も言わなかった。
やがてその列が動き出した。外側は時計回りに歩き、内側はその逆に進んでいった。猫たちは尻尾をピンと上げ、ゆっくりと同じ速度で一歩ずつぐるぐると歩く。暫らくすると一匹ずつ抜け始め、思い思いの方向に立ち去って行った。どんどんと輪は狭まっていき、やがて二匹の猫が、トラ模様の猫と灰色の大きな猫が、交互にその黒猫の周りを歩き、同時にさっと駆け出し消えていく。ぽつんと残された子猫は座って、後ろ足で首を掻き、立ち上がると、鳴きながら建物の下に潜り込んで行った。

呆然としていた僕が、やっとの思いで立ち上がり「大丈夫かい?歩ける?」と彼女に聞くと、小さく頷いたので彼女を両手で立ち上がらせた。始めは少しよろけたが意外にしっかりした足取りで彼女は歩き出した。彼女の腕を支えながらその場所を抜けるとアスファルトとコンクリートの世界があった。それに囲まれた世界は僕を生まれて始めてほっとさせた。腕時計を見るとまだ、もしくは、もう、一時間近くたっていた。それが長いのか短いのかを計りかねた。蒼白だった彼女の顔にも赤みが差し込んできた。戦場からの帰還兵のように折り重なって事務所に辿り着くと彼女は応接室のソファに深々と腰を静めた。僕はポットから急須に煙の上がる水を注ぎ緑茶を淹れ、彼女の前の椅子に座った。温かい飲み物を飲むことでどれほど自分の体が冷たく強張っていたか実感できる。二人で数杯の茶を飲み干し、一心地ついたとき、同時に、ねえ、という呼び声が重なり合い、お互いが苦笑した。「どうぞ」と彼女を促すと、椀を口から戻し、戸惑いながら話し始めた。
「私は何処か変わったところはなかったかしら? どうしてか分からないけど、突然、息苦しくなってきちゃったの。そして、音が消えていったの。すごく不思議な気分で、ふわふわ浮かんでいるみたいだった。いったい何が私に起こったのかしら? あなたはずっと私の傍にいたわよねえ? その事すら曖昧になってきているわ」
「いや、僕もよく分からないよ」と答えた。「それに、体も少しおかしくなっていたし…」
「どうして突然、気を失って倒れてしまったのかしら? そんなに体調も悪くないし、倒れたなんて信じられないわ。目の前が真っ暗になったの」
「気を失った?」なんだって、気を失った? 「それは卒倒したと言うことかな?」
「そう。そのとおり…卒倒した。激しくあなたに倒れこんだでしょう?」
「ちょっと待ってくれないか。君を見ていたかぎり、激しく倒れたりなんてないんだけど……確かに凭れ掛ってはきたけど、しっかり眼を開けて、あるていどの反応はしていたよ」ぼくは、状況を説明する。きっと彼女は何がなんだか分からなくなってしまっているのだろう。先程起こったことを、起こったであろうことを思い出そうとした。どこまで辿っていっても彼女は卒倒していない。呼吸が乱れて、多少、目の焦点が合っていなかっただけのように感じていただけだ。しかし、彼女の僕の疑問に対する反応を見ていると、彼女が嘘を言っているようには思えなかったし、僕のほうが間違いを起こしてしまっているように感じた。有本さんはまるで珍しい動物でも眺めているような眼つきだった。
「なんだか、おかしいな」僕は咳払いを二回した。
「始めから話そう。レンガ職人がレンガを一段ずつ積み上げていくみたいに。まず、僕たちは昼食を食べに事務所を出て行った。昼の一時すこし過ぎたあたりで。君が魚を食べ、僕は野菜を食べた。店を出た後、君が散歩したいと言ったので、目的もなくあたりを散策していた。しばらくすると、君が道に迷ってしまったので、僕が帰り道を歩き出した。ここまでは間違いないね。」
「間違いないわ。それからあとが問題なのよ」
「僕たちは、会社の裏手まで来ることが出来た。信号待ちをしている時に、君が小さな神社を見つけ、その神社に入っていった。その時刻は多分、二時になるかならないかだろう。そこで、君はお参りをし、僕たちは石に腰を下ろして話し始めた。どのぐらい話していたか、あの老女がそこにやってきた。それ……」彼女が僕を遮る。
「あの老女? それは誰?」
「え…何だって…? いや、話しているときにお参りしに来た、あの…、ほら、あの女の人。…いたじゃないか? あの真っ黒の服を着た、うん、あの猫に慕われている不思議な女の人が…それからだよ…君が急に具合悪くなってきたのは」
「あなたはいったい何を言っているの? そんな人いなかったじゃない」と、僕の狼狽振りを見て、彼女は不安そうに呟く。そして、両手で持っていた椀をガラスのテーブルに置いた。まいったな…と僕も呟く。
「私は、あなたに話しかけているときに、すっと意識を失っていって、あなたに顔から倒れ掛かって行ったのよ。たしか夜の話し相手のことを尋ねていたところだった。今もぶつけた顔のあたりが火照っているわ。何か痕が残っているのではないかしら? どう?」たしかに彼女が話しながら触れている右側の首から頬にかけて、叩かれた様な赤い痕が残っていた。
「確かにその痕跡のようなものはあるけれど、僕はずっと意識があったんだぜ。その老女が神社に来てから、僕は地に足が着いていない状態で君は過呼吸のような症状になって、目も焦点があっていなかったけれども、君は自分自身の力で石の上に座っていた。こちらに倒れ掛かってきたなんて事は、絶対に、ない。君の症状を和らげたのはその女の人だったんだ」狼狽しながら出来事について話し終える。
「鮮明な連続した光景は覚えてないけれど、途切れ途切れにあなたが、そう、―あなた―が介抱してくれていたことは覚えているし、私の名前を呼んでいた声も微かに残っているわ。老女っていったい誰のことなの? 本当にその人が私を介抱してくれたの?」彼女の言い分は僕を困惑させた。
「信じられない。君は老女のことを覚えてないのかい。気付け薬だといって貰った緑の丸薬のことも? その後の猫たちの奇妙な動きも見ていないの?」
「緑の薬、わたしはそんなものを飲んだの?」と鋭く言い放った。「僕も飲んだ。大丈夫だと思うよ、その老女も飲んだし」
「老女って誰よ! 猫の奇妙な動き?」彼女は声を荒げる。僕は何も言えなかった。
「私の記憶は先程話した通りよ。もう何が起こったのか分からなくなってきたわ」少し声を落とし、彼女は確信的に何度か首を振った。「あなたの話…」鋭い視線が僕に向けられる「私を怖がらせようとして、作っているのではないわよね?」
「まさか」自分の声がどこから出ているのか疑問に思うような強張った声だ。そして、もう一度、信じられないと呟いた。彼女が思考の淀みに囚われている間、僕は老女なんていなかったのかもしれない、と疑ってみた。けれどもそれらには、ざらざらとした感触が残っている、はっきりとした存在感があった。二人は口を閉ざした。彼女は眉間に皺を寄せ、一点を見つめながら何かを考えていた。僕は首を振ってみたり、足を揺すってみたり、立ち上がって歩き回ったりした。その彼女の痕を何度か見たりした。全くわけが分からなかった。そんな様子を見て彼女は、落ち着きなさいと僕に言葉を数回投げかけた。それは彼女自身に言っているようにも感じた。

最後にその声を聞いて、座り直し自分の両手の動きを眺めていると、寒気がまた襲ってきた。それは先程の肉体的な寒さとは違い、血が引いていく寒さだった。頭から背中に流れていったその感触は僕を身震いさせた。穴の中から首だけ出した奇怪な何かにじっと見られている情景が浮かび上がっていた。そいつは、暗闇から表情のない瞳で身体を観察していた。これまでその存在を感じなかっただけなのだ、知らなかっただけなのだ、という考えはいくら否定しようとしても消え去らなかった。今頃気が付いても少し遅いのではないかな、と言う囁き声と薄ら笑を浮かべては暗い穴に引きずり込もうと手招きしていた。けれども、それはやはり無表情にただ僕を見つめているだけだった。ほら、君の右足は手を伸ばせば届く距離だ。少し触れてみようか。けれどもそれは無言を貫く。出口のない悪夢。救いのない恐れ。思わず事務所の中を見回す。それは視界の片隅で跳躍する影のごとく捕らえようとして必死で探しても無駄だった。僕は有本さんを見つめた。すがるような視線を感じたのだろうか、彼女は僕にこう言った。

「この話はもうおしまいにしない? 上手く言えないのだけれどもなにか悪い予感のようなものがするの。それに私はもう大丈夫だし、あなたも問題ないわよ、そうよね? この話はもう切り上げましょうよ」
慰めるような舌の動きで彼女がそういったことに、幾分ほっとして頷き「そうだね」と返事を返した。――どうして自分の想像力の奇妙な物体に怯えなくてはいけないのだ、日常の奇妙な体験に心を奪われていては、体がいくつあっても足りないのだから、と自分自身に語りかけ、その影の姿を追うのは止めた。
暖房の吐き出す温かい風と、部屋の振動の中で黙っていると、少しずつ緑と青が入り混じった茶色の輝きに象徴されるあの老女の記憶は、絵具を混ぜ合わせるように自分を成り立たせている数ヶ月で入れ替わる無数の細胞へと溶け込んでいき、記憶を司る場所で過去の色彩に渾然と混じり合った。やがて、その感触を単独で取り出すことも出来なくなるのだろう。
けれども、今はまだ生々しすぎる。
そのような混沌の色彩が織り成す心象の渦は、感覚として、頭の中よりも胸の内で蠢いていた。冷たくなった椀とお茶を体の中に取り込みながらその輝きの動きをぼんやり眺めていた。黒色さえもそこでは冷たく光っており、その存在を主張していた。それらは決して鳴ることのない不可分の音色と同じように絡まりあって行くだろう。


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